高見順『死の淵より』を改めて読む その2 ~余談が本編感ある~
前回の記事はこちら↓
という感じで、ライトな文体で、けなさない、そして面白がる姿勢を基調に、ってなスタイルで書いています。真面目な批評を期待している人には申し訳ないです。はい。真面目だけれどゆるくをモットーにして書いています。
それでは今回もいってみよー。
1-3 ぼくの笛
皮肉だなぁ。自分の状態に対する皮肉。
高見は食道がんになったわけなので、開胸手術を(恐らく)したと思うのですが、その様子を書いています。
気管支が笛になる。それが慰めてくれた。ピューっと鳴っておもろいわ!
頼む、そう強がってくれるな……。
しかも自分でマイルドにつっこんでしまっていて、「かえってぼくを寂しがらせる」というオチ。
結局、寂しくなっちゃっている。おどけているのは胸の音というより自身の捉え方である。でも、それを貫けないところに人間味がある。
しかも「私」ではなく、ひらがな「ぼく」という一人称を使っているのがまた面白いですよね。「じょうず」もひらがな。なんか、キャラクターが違うというか、そもそも前の詩(「三階の窓」)での一人称は「おれ」でしたし、しかも、次の詩の一人称は「私」とまた変わっています。人称を変えて自分に対する見方やキャラクターを変えている。ここに気づいた今、脳から凄い汁が出てきました。アハアハ。
1-4 帰る旅
高見はこういう人生訓的な、しみじみしちゃう詩も書くのですよね。詩というより随筆の趣。でも、いいじゃない。詩なのよ。詩だっていえば。
内容としては、死の存在を諭すように書いている。しかし、当の詩人こそが死に直面している。先程の「ぼくの笛」も自分を対象にして詩を書いている。同じような枠組みをあてがえば、この詩もある意味自分に言い聞かせるように書いている。
やはりここでも、自己を相対化しているのですよね。そして、自分の栄養になるように書いている。徹底的に自己を見つめて、他者的に見えてくる「自己」が出てくる。それから、自分で相対化させたその「自己」を慰めるように書く。病であるからこそ書く。その基本姿勢が詩からも十分に見えます。
先ほども指摘したとおり、(文体というより、今回の場合は人称と言った方がいいと思いますが、)その書きぶりを明らかに詩によって変えて、様々な自分を出現させている。そこに、高見の妙があると思います。
1-5 汽車は二度と来ない
もうタイトルから切なさアクセルトップギアですよね。
客を乗せて暗い汽車は遠ざかっていく。ツバメも駅員もいない。そして次の汽車も来る気配はない。そうした孤独の中で死を自覚する。しかし、死んでいない。死ねない。「死よりもいやな空虚」の中、すなわち、生と死との間で宙ぶらりんになっている。病に苦しみひとりで死に向かい合う自分の境遇を、病の苦しさに関する直接的な表現を抜きにして、表現しているのだろうなと読みました。
今読み返すと、「なぜか私ひとりがそこにいる」が気になります。ここでも自己相対化の趣がある。この詩での自己相対化の有様を分かりやすく具体的に書くと、この詩にも2種類の私がいるということです。その2者は、誰もいない駅に取り残される詩で描かれた世界の中の「私」とその「私」を眺めて詩を書く”わたし”と説明できるでしょう。そして、その「私」と”わたし”は「汽車はもう二度と来ないのだ」という気づきに始まる内面の吐露によって重なる。そういう妙技をさらっと難しくない言葉遣いでやってしまっている。そこが面白いと思うのです。
今回扱った3篇、どれも自分で自分を観察しているという視点を基に読んでいきました。自分自身に対して語りかけている。語る自分と語られる自分とが分けられるという意味で、自己相対化の痕跡がところどころに見えるの。そこが面白いという評になりましたとさ。
(余談)中貝の「ダサい」論・試案
僕の考察のテーマのひとつとして「他者性」という言葉があります。ブログでもあんなことやこんなことを書いています。
一方、「ダサい」の意を調べると、格好悪い、垢ぬけない、野暮ったいとかいう意味が出てきます。
で、結論を先に申し上げると、格好悪いや野暮ったいなどと判断するのは自分ではなく他者であり、ダサいとは他者がどう思うかが見えていないという状態だと考えます。
なんでこんな余談をはじめたかというと、さきほどから自己相対化ということを繰り返し書いているからですね。自分とあたかも他者のように見る意識(いわゆるメタ認知というやつです)がないと自己は相対化できないわけですし、おまけに高見の書く詩語も、「詩人固有のもので難解なもの」ではない、つまり、他者と共有がしやすいものとなっています。こうした他者性が感じられるからこそ、いいなと感じるのだろうと振り返るのです。
こう書いたことによって勘違いしてほしくないのは、僕は、いわゆる「分かりやすい詩」とか「内面から溢れ出た結果の詩句」とか、いわゆる「ポエム」だと揶揄されてしまうものを全て肯定しているわけではありません。言葉もそこにある思考もクリシェだらけだったらそりゃ、辟易しますよ。肝心なのはそのクリシェの分量や匙加減なのであって、高見の場合は、作家論的な事実をうまく使ってオリジナリティを担保しながら詩作をしているからクリシェもそんなに嫌な「におい」を発していない。それに、ただ自分の思ったことを思うがままに書いているようで、独りよがりな感じが少ないのは、徹底的な自己省察やら相対化を伴っており、また詩集を「編集する」冷たい目線も感じられるからである。……僕はそう考えたいのです。
また話が飛びますが、そういえば、最近ある本に激ハマリしてしまい、それでnoteを始めたといっても過言ではないものがあります。それが、田中泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社,、2019年)です。『会って、話すこと。』(ダイヤモンド社、2021年)も合わせて電子書籍で読んで、しまいには紙の方まで買ってしまいました。回せ、経済。
詳しい内容は、実際に読んでいただきたいのですが、『読みたいことを、書けばいい。』にだいぶ思考が引っ張られているので若干ネタバレになるなと思いながら所感を述べると、徹底的に調べて分析する、そしてその対象に敬意を払うことの大切さを最近ひたすらに感じます。いいなと思える文章の裏には、筆者が書きたいように書いているけれども、知識や考察のいい意味で冷たい筋が見える。「イイタイコト」の熱さだけでない、心地よい冷ややかさを感じます。もちろん、高見作品にも自己省察の冷たさがある。
「ダサい=センスがない」と言い換えて、話題を「センス」に移すとなると、水野学さんの『センスは知識からはじまる』(朝日新聞出版、2014年)を思い浮かべました。もうこのタイトルが至言ですよね。知識がセンスを作る。センスは磨けるし、増やせるのであって、先天的なものではないというのは本当にその通りだと思います。(国語はセンスだから伸ばせないとか言っている諸君!それは大きな間違いだぞっ。)これも詳しい内容はぜひ読んでほしいですが、もうタイトルの時点で芯を食っているので、こういう本があるということを知るだけでも読者の皆さんにとっては収穫だと思います(笑)
知識を蓄えること、すなわち学ぶことなくしてはセンスはよくなりません。水野さん的な言葉も混ぜて言うならば、「これが普通だよね」と判断できるレベルまで知識をためないといけない。僕はこのことの大切さを強く信じています。さらにいえば、知識というのもどこかの誰かさんが思いついたりまとめたものです。だから最近殊に「学びって他者理解なのでは?!??!?!!!」と思うんですよね。
で、最初に戻る。ダサいってなんだかというと、すなわち勉強不足・分析不足ということもできそうです。水野さんは先に紹介した本の中でこういう例えを持ってきています。
したがって、メタ認知と幅広い知識の収集ができていないと野暮ったくなってしまうのですよね。物書きやクリエイターを名乗る人たちにメタ認知と知識の収集・分析ができているのだろうかと問いたい、そんなことを最近思っています。もちろん、自戒を重々込めて。
……って、余談の方もなかなかに長いってどういうこっちゃ。それこそ野暮ったくなる前にやめますが、まだまだこの「ダサい」論については書きたいことがあります。ぜんぜん収束できていないですが、またこれもいずれ。
ということで、また次回もお楽しみにどうぞ。
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