個別最適な学びの解像度をあげて、ICTやデータの意味を考える【後編】
前回に引き続き「個別最適な学びの解像度をあげて、ICTやデータの意味を考える」の後編です。
前回の内容は以下をご覧ください。
前回を読んでいない人は上記をクリックして欲しいですが、覚えていない人向けにはChatGPTによる要約をあげておきます。
一部、ニュアンスに違いがあった部分だけ修正しましたが、ほぼ完璧な要約。修正含め1分で終わるので、もうこの手の作業は任せたほうが良さそうですね…。
では後編、始めてみますー。
特別支援教育で実現できている「個別最適な学び」が広がらない理由
前回は理由は大きく2つあると書きました。以下の2つだと考えています。
先生の人数が足りない
制度が追いついていない
理由を2つ書いていますが、正確には因果関係があり、1によって2の変更ができない、ということなのだと思います。
また、1のさらなる要因はコスト=お金の問題とも言えます。1つ1つ補足してみます。
先生の人数が足りない:やるには28兆円必要?
「先生の人数が足りない」と言っても、昨今の志願者不足とかそういう次元の話ではありません。
特別支援学校と普通校(何が普通なのか?という疑念はありますが、一般用語となっているので便宜的に使います)では、先生一人あたりの児童生徒の人数が大きく違うことについてです。
令和4年度の「学校基本調査」で先生一人あたりの児童生徒数を単純計算してみると
普通学校:11.97人/先生1人
特別支援学校:1.58人/先生1人
となっています。特別支援学校に比較した普通学校の先生一人あたりの児童生徒数は実に7.5倍の人数となっています。
もちろん、特別支援学校の場合は、あらゆる面で対応すべきことが多いと思うので、それだけの人数が必要ということなのだと思います。
一方で、7.5倍の差があるのに、普通学校でも同じように個別の教育支援計画を作成して、それに応じた「個別最適な学び」をやるのは無理ゲー感があります。
ちなみに、普通学校の先生の数を7.5倍にすれば実現できるかもですが、義務教育費国庫負担から人数割合で単純計算すると、実現には28.8兆円かかることになります。そもそもそれだけの人数で先生候補がいるかということ含め、これも無理ゲー感がすごいです…。
制度が追いついていない:時間と内容の選択制限
制度面でも課題があります。
1つは時間の制約。どの教科をどれぐらい学ぶのか、は学校教育法施行規則第 51 条に「標準」が定められています。
指導要領の総則にも以下のような記載があります。
個別最適と言いながら、学ぶ内容に対して時間の制約がかかる状況になっています。ちなみに指導要領には、上記引用の続きがあり、以下のような記載もあります。
上記を取り出して時数は柔軟な対応が可能という意見もありますが、一方で学校教育法の2003年の改定では「下回って教育課程を編成することは考えられない」と示され、2008年の改定でも「災害や流行性疾患による学級閉鎖等の不測の事態」という限定付きで下回ることが致し方ないように記載されています(それでもリカバれとも書いてある…。)。
さらに内容面です。指導要領において、学年に応じて求められる能力=学ぶ内容を定めています。例えば、学習指導要領の数学編を抜き出すと以下みたいな記載です。
これも前述した総則と同様に、個に応じた学びに向けた工夫の余地があるもの、という位置づけだとは思いつつ、これに則った教科書が発行され、教科書を使うことが法的に義務付けられているなかでは、年齢に応じて学ぶ内容の選択に制約がかかっている、というのは実態として理解しておく必要があると考えています。
制度を鎖と捉えるか、底板と捉えるか
こう書くと制度批判みたいな感じになってきてしまいますが、標準授業時数についても弾力化をしていく取り組みも始まっています。
以下は1割を上限で柔軟な時数設定ができる授業時数特例校制度です。
一方でこれらの制度は、ある一面では学びの自由度を抑制する鎖に見えるところもありますが、一定のラインを維持するための底板とも言えます。
標準授業時数の撤廃、学齢に応じて求める力=学ぶ内容の指定することの撤廃を叫ばれる方も結構多いですが、先生を中心とした人的リソースや教材等のコンテンツや指導・支援方法等が足りていない状況で制度を緩和することは、結果として理想を追い求めて公教育が維持していた底板を外すかもしれません。
1つの学級や学校で実行できたとしても、進級・進学で従来型と混じってしまうことで、運用が回らなくなる可能性もあります。
底板が外れることで、結局割をくうのは子どもたち、なんてことになりかねない。
特に自ら成功している人こそ、自己責任論からそうなりがちなので、公教育の意義や意味を踏まえて、底板のことも踏まえた代替案を出さないといけないと感じています。
一方で、チャレンジを始めた人が批判されるだけでは全くもって良くない。今の状況のままでは世の動きに合わない。どうするのか。
28兆円必要なく、底板を外さず、個別最適な学びを実現する方法
実現していくための条件を分解すると
各々の児童生徒の状況や特性を理解する
多種多様の学びのためのリソース(環境)がある状態にする
理解した状況や特性に合わせ、最適な学びを選択できるようにする
上記をコストを大きくかけずに実現する
ということなのだと思っています。
前述した28兆円は、4の前提を無視した話なので実現性が低い。4のコスト制約が実現の難易度をあげています。
それらを踏まえてそれぞれの解決方法は
1→データで把握する
2→デジタルコンテンツで対応する
3→データとデジタルコンテンツの組み合わせで実現する
4→1~3がデータ&デジタルなので限界費用をゼロに近づけられる
ではないかと考えています。超簡単に図解すると以下のような感じです。
左右が学びを形作るための環境です。
そのうち、左が学びのための人的リソース。ここは先生を増やすことだけにとらわれず、地域の方など社会を通じた学びとしていくことで、選択肢を増やしていく必要もあります。
右が教育・学習に関するコンテンツ系のリソース。ここの種類と量を圧倒的に増やさないと、個々の状況や特性に応じた学びを成立させられません。
または従来のように人手を使って個々の興味・関心や特性に合うようにカスタマイズしないといけず、それでは4のコストが見合いません。
そして下がデータです。教育・学習データが蓄積・分析されることで、自らの特性を把握することができます。近い特性の人での結果もデータ化されれば、自分に適した効果的な学びも見つけやすくなります。
そして、ICT(デジタル)やデータの大きな強みは、限界費用をゼロに近づけられること。これが4番目のコストに対する答えです。
※限界費用ゼロの詳細については、以下の本がおススメですー
産業革命の大量生産によって限界費用が大きく低減してモノの値段はグッと下がりましたが、情報革命によるICT(デジタル)はそれをゼロに近づける技術です。
Society5.0の社会はさらにそれにデータやAIが組み合わさることで、マッチングの精度が劇的に向上し、個々に最適なモノを手にすることが容易になります。
先ほどの図に配置するとこんな対応でしょうか。
文部科学省の文書や教育×ICTの界隈でも、上記のような整理はあまりされていないように思えています。が、大まかな構造整理は合っているのでは、思います。
逆にこの方法以外で、少なくとも自分にはコストの制約がある中で「個別最適な学び」を実現する方法を見つけられていません。
全ての人が"特別"で"支援"が必要のはず
個別最適な学びを考えるうえで、特別支援教育にも言及しましたが、そもそも"特別支援教育"って概念が、我々が作った勝手な線引きだと思っています。
そもそもみんな特別でそれぞれ個別に支援が必要な人のはず。でも今までは公的コストの制約から「特別支援教育の対象」を線引きしていただけなのでは、と。
皆に特別な支援を行うこと、それが自分にとって理解しやすい「個別最適な学び」のイメージです。
ちなみに途中の図は、自分がプロダクトオーナーを務めているまなびポケットのビジョンを表す図から引用しています。
「誰もが自分らしく学べる社会」はまなびポケットのビジョンでありつつ、私が個人として実現したいビジョンでもあります。
個人的にはまなびポケットも手段の1つに過ぎないので拘らず(というとチームメンバに怒られそうですが笑)、この構造自体を実現したいと考え、行動しているつもりです。なので、デジタル庁での兼業とか面倒なこともやっています(失言)。
おわりに
今回は前後編にしてみたのですが、結局後編が前編の倍以上の長さになりました。思いつきで書いているとはいえ、計画力不足が露呈してしまいますね…。
一方で、今回は自分の仕事の根幹となる理由を書いたものだったりするので、説明が長くなってしまった感があります。反省しつつ、本当はもっとちゃんと書きたかったりもするので、改めてどこかで書けたらと。
次回こそ前々回で予告した「学校教育のシステムアーキテクチャを描いてみます」を書こうかな。またはショート版としてChatGPTを使った個別最適な学びとかをお遊びをサクッと書こうかな(計画性ゼロ)。
ではまた!