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心はカラフル。悲しみの必要性

自分の感情を見ないフリしたり、誤魔化すのがとても得意だった。

そのことに気づいたのは、数年前に職場の人間関係をきっかけに体調を崩して適応障害と診断され、そのすぐ後にうつ病を発症した頃だ。

うちの家庭環境は非常に複雑というか、まともな「家庭」と呼べるようなものではなかった。

私が4歳の頃に父が蒸発し、母は精神的にとても不安定で、私に寄りかかってくるような人だった。
母が不安定なのは父が突然いなくなったことだけではなく、彼女も不遇な家庭環境で育ったことがそもそもの原因だと思う。

そんな母の口癖は次のようなものだった。
「出ていけ」「居候」「(生活に必要な物を買って欲しいと頼むと)金食い虫」「子供を虐待して殺す親に比べたら私はマシだ」「ここは私の家だ(だから文句があるなら出ていけ)」

子供を殺す親に比べたらマシって、比べるところがあまりにも低すぎる。そもそも自分で望んで産んでおきながら居候だの出ていけだの、正気の人間には言えないセリフである。

常にお金がないと言われていたのも覚えている。私はお金がないという理由で高校進学を諦めるように言われた。そのため私の最終学歴は中卒だ。
その割に母はタバコを常に吸っていたり、ローンで高い腕時計を購入したりしていたので、実際の当時の経済状況はよく分からない。

高校進学を諦めざるを得なくなった中3の私に母は「女は学歴がなくても金持ちのハゲでも捕まえて結婚すればいい」と笑って言った。

進学については、今思えば奨学金を借りて自分で返済するという方法もあっただろうが、当時15歳の私は、親に「無理だから諦めろ」と言われたことは無理だと思っていた。
そもそも「うちはお金がないから高校に進学するのは無理だからね」と小学生のうちからずっと言われていて、それがうちのルールと思い込まされていたのもある。

ちなみに9歳上の兄は「男だから」という理由で祖母が援助し、高校を出ている。その祖母は、私の高校進学については何も言わなかった。

この他にも母からは身体的な暴力などもあったが、うちの家庭が酷かったエピソードは枚挙にいとまがないため、この辺にしておく。
なお、私には思春期特有の「反抗期」と呼べる時期はなかった。それはいい子だったからとかではなく、反抗期というのは恐らく、健全な家庭でしか成立しないものなのだと思う。

そんな家庭で育った私は、冒頭で述べた通り「感情を誤魔化す」のがとても上手くなったのだ。
恐らく、防衛本能というやつだろう。辛いことを辛いとそのまま感じ続けていたら、きっと生きていくことは不可能だった。その時は。

辛い気持ちや苦しい思いは全て、とりあえず押し入れに仕舞う。たくさんあるので無理やり押し込んで、中の物を押さえながら手早く襖を閉めれば何とか収まる。
これで大丈夫だ。辛い気持ちは見えなくなった。

しかし、私の押し入れはいつしかパンパンになっていた。
「見えない=なくなった」のではない。隠しているだけで、そこには在るのだ。

ある時、キャパオーバーとなった押し入れからは感情たちが一気に溢れ出した。今思うと、心が「無視しないでくれ」と言っているようだった。

押し入れに隠してもなくなったわけではないし、黄色の上から黒を塗っても黄色がなくなったわけではない。
見えなくなっているだけなのだ。表面的には。

もし感情に色がついていたとしたら、人の心はきっととてつもなくカラフルだろう。
その色彩は鮮やかを超えて、混沌としているかもしれない。さまざまな色と色が混ざり合い、もう何色なんだか分からないところもある。

私の持つ、暗い色をした苦しみや悲しみは心の押し入れから溢れかえり、一気に表出した。それが「うつ病」の発症だった。

人は、辛いことを辛いと感じないようにして誤魔化しても、その存在を無視し続けることはできないのだ。
辛いものは辛い。感情はいくら隠しても、いつかは向き合わないといけない日が必ず来る。私はその時32歳だった。32年間も誤魔化し続け、さすがに限界を迎えたのだろう。

人生の辛かったことだけが一気に蘇り、楽しかったことも多少はあった気がするが、そんな記憶は全く見えなくなった。

数えきれないほどの感情を無理やり仕舞い、内側から押され続けた襖はついに外れ、混沌とした色が溢れ返った部屋で私は横たわることしかできなくなった。

これは比喩表現ではなく本当に実感したことなのだが、「大型トラックくらいの重いものが体の上に乗っているかのような感覚」があった。
当然起き上がることなどできないし、このまま床にめり込んでいくのではないかと本気で思ってしまいそうなくらい、身動きが取れないほど上から強く押さえられているような感覚だった。誰かに「とにかくお前は寝ろ!!」といわれているような。

現に私は過眠症状に苛まれ、40時間以上寝ても起き上がれないこともあった。信じられないほど疲れやすく、3時間働いただけで3日も寝込んだ。

およそ2年もの間、ほとんどまともに働けないどころか、酷い時は顔を洗うという行為さえ難しい状態が続いた。体調に波はあったが、基本的に自分の意思では起き上がれなかったのだ。

やむなく一人暮らしの部屋を引き払って実家に戻り、毎日寝てばかりの私を、母は全く心配せず、毎晩酒を飲み、寝ている私に絡んできていた。
しかしこの後、私のうつ病をきっかけに母との関係は大きく変わることになるのだが、これは別の機会に書こうと思う。

私は悲しみや苦しみといったしんどい感情を隠し続け、ひたすら見ないようにしてきたことで病気になってしまったと気づいた。
うつ病の前章ともいえる適応障害のきっかけこそ職場の人間関係だったが、それはあくまでトリガーに過ぎない。
ずっと1人で抱え込んできたものを無視して生きていくことは不可能だと、体が教えてくれたのだ。

突然だが、「インサイド・ヘッド」という映画を知っているだろうか。先日まで続編が上映されていた、ピクサーのアニメーション作品だ。
自宅で見た1作目にとても感動し、2作目はスクリーンでぜひ見たいと映画館に観に行った。
※以下、作品のネタバレはありませんが、筆者なりの解釈を大まかに記載しています

この映画は主人公の少女、ライリーの頭の中にいる感情を擬人化し、キャラクターとして表現している。
ライリーの身に起こる出来事や変化などに伴い、それぞれの感情たちが奮闘しているという斬新な内容だ。

2015年に公開された1作目では「喜び」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「恐れ」を擬人化していて、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリという呼び名がついている。
もちろんその感情に合った性格をしていて、カナシミは常にメソメソしている湿っぽいキャラクターだ。

ヨロコビは常に明るく、そして序盤ではカナシミを少し邪険に扱うような描写があった。何故ならライリーを喜ばせたいし、悲しんでほしくないから。

私はこの映画のテーマは「悲しみって必要?」ということだと受け取った。

そして、全ての感情たちが同じように、ライリーを幸せにしたい、守りたいと思っていること。ヨロコビだけではなく、カナシミもイカリもみんな、必要だから存在しているのだと解釈した。

ここで私の話に戻るが、ずっと見ないようにしてきた悲しみや怒りという不快な感情は、無視し続けてはいけないものだったのだ。例え心を守るためだったとしても。
必要だから存在している。そのことに実感として気づくまでに32年もかかった。うつ病を発症するまで気づけなかった。

インサイド・ヘッドの1作目を私が観たのはうつ病になる4年ほど前だったが、とても心に残っていた。
日常生活が困難なほどの状態になった時に、改めて映画から感じ取ったメッセージを、身をもって実感した。

一気に溢れかえった辛い感情はとても受け止めきれる量ではなく、「地獄はこの世にある」と毎日思った。
持ちあわせている醜いボキャブラリーの限りを尽くして母をひたすら罵ったり、時には泣いたりして、あとはほとんど寝ている。そんな生活とも呼べない暮らしがしばらく続いた。

しかしそんな中でも少しずつだが、体調が回復してきたのだ。
体調には毎日波があり、さらに1日の中でも波があった。いつ体調が悪くなるか全く分からず、予約した日にメンタルクリニックに行けないことも多々あった。でも、元気とまでは言い難いが、体調が比較的マシな状態が徐々に増えてきた。

ちなみに今これを書いている36歳の私はまだ全快ではないが、一応働くことはできている。

ここまでに、特に何をしたというわけではない。カウンセリングを何度か受けてみたこともあったが、高額な上にどのカウンセラーとも相性が合わなかった。
処方された薬を飲み、薬も合わなくて何度も変えたり、動ける時はなるべく日中に散歩して日光を浴びたりしていた。

ただ溢れ出て止まらなくなった負の感情を母に罵詈雑言という形でぶつけ続けたことは、恐らく回復に作用した要素の一つだ。
それが良い行いだとは思わないが、限界を迎えた私の心はそんな形で感情を吐き出すしかなかったのだと思う。母に、いや母に限らず誰にも、心の底から本音をぶつけたことはそれまでに一度もなかった。

父についてほとんど知らず、母から愛情ではなく依存心や負の感情をぶつけられ続けて育った人生。大変なことや辛いことの方が圧倒的に多かった。

でも、辛い気持ちは誰かと共有できたら、それは時として喜びや幸福といった言葉では表しきれないほどのプラスの感情になるのではないかと、今は思えている。

私は他者と悲しみを分かち合った経験は多くはないが、少しずつ回復してきた今、これからいくらでも誰かと分かち合えるような気がする。

人の心はカラフルで、混沌としていて、何色だか分からないような名もない色もある。
目に見えないから人と比べることはできないが、過酷な経験をしてきた私の心はきっと、人一倍鮮やかなのではないだろうか。

この混沌とした鮮やかすぎるほどの心を今、キャンパスではなく、ここで文章として描く。

それを受け取った読者の心にどんな色が彩られるのかを、いつか知りたいと思う。


幽霊だった日々」という作品でこの話の続きというか、家族との問題や心の傷について、違う視点で綴っていますので、良ければご一読ください!
また、作品を問わず、感想のコメントをいただけたら嬉しいです!

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