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ふつうの人の瞑想 『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』

はじめに 

 ひまだったのでブッダについてネットで調べたらけっこうやばかった。まず腕を伸ばしたら膝くらいまであるらしい。ダルシム? あと土踏まずがないらしい。どうやって歩くの。まあここまでは百歩譲っていいとしても、額のほくろ(ほくろじゃないらしいけど)から出るビームで、人々を悟りに導くらしい。もうわからん。仏教って何。


 いずれにせよ、智慧や「悟り」の内容について、実際上の多様性が存在しているということは、特定の宗派的な立場を持たない人が仏教の実践に関わろうとする際に、意識されておいてよいことです。
『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』,幻冬舎新書,p58-59


 
 『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』は、日本人のタイ僧侶であるプラユキ・ナラテボーさんと、仏教に関する著述家・翻訳家である魚川祐司さんによる対談本。わりとゆるいタイトルの新書なのだが語られている内容は濃く、何度も読み返すほど中身のつまったものになっている。瞑想初心者である私にとっては、抱えていたいくつかの疑問に対してバシバシと明解に答えてくれたので、痒いところに手が届いたおもいがした一冊だ。

瞑想の「地図」

 本書では「苦しみから脱するために瞑想をしたはいいものの、かえって調子が悪くなった」いわゆる瞑想難民に言及して、多種多様な実践を「仏教瞑想」とひとくくりにすることに疑問を呈している。すべての瞑想が同じ「悟り」を目指しているわけではなく、個々の瞑想実践によって目指す境地も、修行法も違ってくる。これから瞑想をする人はそれらの違いを知ったうえで、自分の向き不向きを考えながら取り組んだほうがいいのだが、現在はそうした修行法の違いを俯瞰する「地図」がないのだという。本書が書かれた一因には、そうした「地図」を見いだすための視点を生む一助になればというおもいがあるらしい。
 ちなみに、私は本書にも何度か出てきたゴエンカ系のヴィパッサナー瞑想をしている。さいわい私はこの瞑想法が性に合っているらしく毎日座れているのだが、たしかに向き不向きはあるのだろうなと感じることがある。
 もしひとつの教えだけしか知らず、くわえてその教えが自分に向いていなかったとしても「それはあなたの修行が足りないからです」といわれてしまえば、そうなのか……とおもって無理矢理つづけてしまうか、瞑想実践を諦めたりしてしまう可能性もある。
 もちろんひとつの教えにしたがって瞑想をつづけることは重要だし、私自身も教えられた通りに実践することで「効果」を実感することができた。おそらくこれからも瞑想をつづけていくだろう。ただ本書のいっているとおり、瞑想にはいくつもの種類があり、それによってゴールも異なるのだと知ることは、基本の知識としてもっと広まるべきだとおもう。

受容力としての定

 タイの僧侶であるプラユキさんと、ミャンマーで瞑想経験がある魚川さんの間で意見が異なっており、そうした違いを明確にしてくれているところも、本書の面白いところだ。ゴエンカ系がミャンマー発祥なせいもあってか個人的には魚川さんのお話に親和性をもって読んでいたのだけれど、それだけにプラユキさんのお話がとても興味深く、同じ仏教でもこんなに違っていて、実際に実践している方がいるのか! と目からうろこだった。
 とくにおもしろいなとおもったのは、プラユキさんの定についての考えである。定とは、仏教の三学と呼ばれる教えの体系である「戒・定・慧」のうちの二つ目で、ゴエンカ系では集中を養う瞑想法(アーナパーナ瞑想)をおこなう。
 それに対して、プラユキさんはこの定を「受容力」と考えている。

 自己受容ができていなければ、人は自己の内部にあるネガティブな要素を否認し抑圧して、それを外部に投影してしまいますから、他者受容もできないんですね。縁に従って起きてくるあらゆる現象を、「だよね~、なるほど」と落ち着いて受け止められる定の力が育った時に、はじめて人は、自己も他者も受容・共感できて、世界における「よき縁となる」ことができるんです。同上,p147


 この箇所を読んで、瞑想難民が生まれる原因も理解できるし、人ごとではないなとおもった。以前から瞑想に没頭するあまり「集中しなければ・・・!」と神経質になったり、周囲の物音に敏感になっていることがちょくちょくあった。ともすれば、それは周囲への不寛容や、特別なことをしているのだという優越意識につながる。まったく本末転倒である。
 それだから「定の基礎には受容力が不可欠」だというプラユキさんの考えは衝撃だったし、捉えかた一つでいろいろな解釈をうむ仏教の「多様さ」に改めて惹かれるおもいがした。

おわりに ふつうの人の瞑想

 このほかにも、気づきの主体に関するお二人の考察や、「瞑想は選択するもの」という魚川さんの言葉には得るものが本当に多かった。すべて書くと非常に長くなりそうなので今回はこのあたりで止めておくが、二人の仏教研究者・僧侶が互いの立場の違いを踏まえつつ、語るべきことをしっかりと語ってくれた本書は、瞑想初心者にとって貴重なものだった。
 またタイトルにもあるとおり、悟らなくたっていいのではないかとおもわせてくれたのも大きな魅力のひとつだ。何のために瞑想をしているのかと自問してみたが、けっきょくはおもしろいからなのだ。瞑想を通して日々の生活が豊かになったし発見も多くあった。普通の人に対しても仏教瞑想は開かれているのだと、わかりやすく・深く示してくれる良書だったので、興味のある方はぜひ読んでみてください。



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