自分を好きになれなかった学生時代偽りの社会を生きる世代
自分を掘り起こしていく。
まだまだ深い何かがあるように思えてならないから。
終わった過去を掘り起こしたり、あの時感じてた事を思い返したり、
今を生きてない時もある。
「ちゃんと整理していきたいんだな、いいよ!」
と自分に言う。
もしかして、宝物が埋まってるかもしれないしw
私はこんなに自分が好きだったんだ。
だからこそ、あの時苦しんでいたんだと思う。
愛したいのに愛せなかった自分、許せない自分を何とか愛したかったけれど、方法が分からなかった。
私には才能はあるの?自分って一体何者?誰が人間をつくったの?
と、自分に問いかける度、深い所で自分を大切にしたかった。
ふと学生の頃を思い出した。
思春期の頃、毎日書く日記は自分を責めることばかり、
何か悪いことをしている訳でもないのに、罪悪感が強かった。
何に対しての罪悪感? 生きてる事の罪悪感!
完璧でない自分が許せない。
何に向かっての完璧を求めていたのだろうか?
こんな自分は生きててはいけない。
何故あんなに自分が嫌いだったのか?
思春期はそんな風に感じる人は、いたかもしれないが語り合うことはなかった。
語り方が知らなかった。
交換日記を中学、高校、それぞれの友人でしていた。
それぞれの悩みはあったし、お互いに共感する事も楽しいこともあったとは思う。
きっと感じてる事をそれぞれが書いていたと思うし、分かり合えてた部分もあっただろうけど、
苦しさはなかなか共有しあうのは難しかったと思う。
自分の醜い感情や思いばかりに囚われていたあの頃、正直に口に出来る友達が羨ましく感じたこともある。
中2年の頃、大したきっかけではないのは確かで、深く傷ついて人と普通に会話ができなくなってしまった。
思春期は微妙。
何かが心に入り込んでしまったかのように、瞬時に心の引きこもりになっていった。
小学性からの金縛り体験が、何故かこの頃から更に頻繁に起きるようにもなっていった。
また自分の感情と他人の感情が鏡に映し出されたように、
自分が傷つくから、人にはこんな言葉は言ってはいけないと。
人の態度や仕草、言葉尻など、自分と他人の感情に敏感に重なってしまったのだ。
冗談も通じなくなっていった。
自分も他人も言葉で発してるものと感じてるものがチグハグに感じる。
本当の気持ちではない、偽りを言ってるような気がする。
表ではにこにこして裏では酷いことを言っていたり、他人が誰かに言われてるのを自分であるかのように、酷く傷つく。
エンパシーが強い、思春期によくあるケース。
人間は何を考えてるか分からない、人は醜い、急に怖くなって失語症のように吃るようになっていった。
しゃべれないなら聞き上手に徹すればよい、
そう考え、
自分が何を感じていても、穏やかにその人の気持ちに沿って微笑み、真剣に聞いてあげればいいんだ、と自分なりに考えた。
そして、余計自分の本当に感じる事を素直に伝える事ができなくなっていった。
自分が何を感じてよいのか、何を考えればよいのかさえ分からなくなっていく。
当時は引きこもりという言葉がなかったが、心の引きこもりだった。
吃るコンプレックスは長引いたが、流石に今は気にしなくなったが。
その頃、救いを求めたのは、あんなに苦手だった本と対話する事。
毎日が生きる事の苦しさに悶え、その気持ちを毎日日記に書いた。
高校に入り、みんな新鮮な仲間、1年間は楽しかった。
2年になるとクラスも変わり、学校がつまらなくなっていった。
私だけではない、みんな何かを抱えて生きている、そんな思春期。
勉強など面白くもなく、この社会に何を期待すればいいのか。
人生とは何か?
肝心な事は大人は誰も教えてはくれない、だから自分で探すしかない。
何故生きなきゃならないのだ、そればかり考える日々。
きっとその年齢は誰もが通る心の暗黒時代かもしれない。
その頃の本と言えば、太宰治の人間失格から、加藤諦三著書のアダルトチルドレンやエディプスコンプレックス等の親子関係の心理的本をよく読んでいた。
また、ずっと後になって知った、17歳でエレキギターの感電事故でなくなった山田かまち君の作品などは衝撃的だった。
そんな事をなんとなく思い返してみた。
過去は過去というが、私にとってはどんな過去でも今は愛せる。
あの時の自分を、今の自分が思いっきり抱きしめてあげたい。
この年齢になって、YOASOBIの曲を初めて聞いた時、胸を突き刺した。
あーあの時の自分だ✨✨