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『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』を読んだのでお手紙を書いた

金間大介先生
 
ご著書『先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち』を拝読しました。
読んで考えたことを聞かせてほしい、という内容を真に受けてお手紙差しあげます。きれいにまとめようとすると何年たっても出せないままになってしまうので、乱文ご容赦ください。

(※約4800字。こんなに長いのに本の内容の紹介にはなっていない)


「7歳児と思ってほめるのよ」から15年

私は1982年生まれ。2019年に退職するまで中高一貫校で主に高校3年生を受け持つ英語科教員でした。国公立に合格する生徒はほとんどいない学校でしたが、先生が近年見てきた年代の学生たちに私も接してきたと言えます。

2008年に就職した際、60代のベテランの先生が
「授業中にほめるときはね、7歳児だと思って思いっきり、大げさにほめるのよ」とおっしゃっていたのを今でも思い出します。
いくらなんでも7歳児は、と思いながらも、ほめることは大事だよなと素直に受け止めたものでした。
しかしこの本のタイトルはそれに全く反するもので、出版された際は驚きました。

最も公正な分配方法は何か?

まず驚いたのが「最も公正な分配方法は平等分配」と思う学生が半数いること(p.47)。これは思考停止状態なのではないでしょうか。他の分配方法は、必要・実績・努力、いずれにしても、何がしかを考慮する必要があります。それぞれ、どのような基準で計ればいいのか。誰かが判断し、決断しなければならない。それはしたくない。特に自分は絶対にそのような立場になりたくない。そういう気持ちの表れでしょうか。

必要に応じた分配にさえ違和感を感じるということは、例えば、公共交通機関で車椅子の方が移動する際も特段の配慮はいらない、という考え方につながりかねないのでは。
日本でバリアフリーが進まないのは、上の世代(まるで自分はそこに入らないかのように言う)が頭が固いからだと思ってきましたが、もしかすると若い世代も……とそら恐ろしくなりました。
(私は「必要性分配」派です)
 

「例題」と「模範解答」が常にセットの学校教育がもたらす弊害

本書で「いい子症候群」と形容されている若者たちが、何をするにしても「例題にならう」話(p.69~)はリクルートスーツとエントリーシートの画一化問題(p.115~)にも通じていると感じました。学校教育の罪を見せられる思いです。特に、英作文指導。
今や英語は4技能を求められる時代、英作文のウェイトはだいぶ大きくなったのですが、英検などでは「例題」「模範解答」をセットで勉強するのが定番です。オリジナルな英文なんか書かなくていい、模範解答を暗記して、それを少しだけアレンジせよ。そういう教え方が定番です。

向き不向きがあるのに全員に4技能を求めるのは、単に酷なだけではなく、無意味に近いのではないかと疑っています。「自分がどう思うか」を書けなくてもよい、という指導に終始しがちだからです。(学力の高い層では本当の自分の意見を書くところまで持っていけるでしょうが……)

40代の私ももちろん「例題」と「模範解答」式で学んできましたが、そのフォーマット化が過剰に進んでいる気がします。それは教える(&評価する)側の利便性も大きいです。「公平」な評価をしようとすると、厳密な形式に則っていてくれたほうが都合がいいから。

こうして「例題」と「模範解答」が常に示され、それに倣いさえすればよいという教育を今の子たちは受けてきたわけで、その結果がリクルートスーツとエントリーシートの画一化だと思いました。
「模範解答」から外れられない(外れる必要を感じない・外れると逆に危険)ということは即ちイノベーションを起こせないということで、なるほど起業家精神には乏しいわけです。
今後、「本気」の企業には「リクルートスーツを着てきた場合、減点します」と言ってほしい。「リクルートスーツの定義を教えてください」となるでしょうが。

「安定した仕事」とは

「安定したメンタルで働ける」ことを求めている(p.131)というくだりは私も共感しました。中高教員はこの真逆の職業で、私も「もうお金はそこそこでいい、気持ち的に無理がない感じで働きたい」と思って転職しました。今は事務職で静かに穏やかに仕事をしており(残業はたったの月20時間!)、給料は半減しましたが満足しています。
教員を目指す学生の数は激減しているそうですが、当然だと思います。

ほんのり悲観的な大人たちとその鏡である子どもたち

挑戦が成長につながることを実感できないのは大人であり、一度失敗すると這い上がれないと思っているのも大人であり、既得権信者もやはり大人である。大人たちがそう思っているからこそ、それが子どもたち、若者たちに空気感染する。

p. 198

このくだりはまさにその通りだと思いました。
「大人になりたくない」と私は高校生の頃に思い始めたのですが、それは「大人が辛そうだから」でした。今日より明日の方がよくなっていくという世界観は、物心がついたころにバブルが弾けて以来ずっと不景気続きの私の世代では自然には持ちえません。
確かに便利にはなった。ノートPCもスマートフォンも持っている。お金を払わなくても享受できる娯楽であふれている生活。
でも全てが縮小していく感覚があり、「今日より明るい/素晴らしい明日」を思い描くのは困難です。(私だけがそう感じているのでしょうか?)
そういうほんのり悲観的な大人たちが育てたのが今の子どもたちです。

そのうえ、彼らには私たちの学生時代とは比べ物にならない質量の情報が流れこんでいます。インターネット・SNSの発達で、個人が自分の生活実感を気軽に発信できるようになり、誰もが無料でそれらを見られる(求めなくても見せられてしまう)ようになったのが2010年前半でしょうか。様々な職業の待遇の悪さ労働環境の劣悪さ。ワンオペ育児、小さい子を持つ親への風当たりの強さ。大人たちの悲嘆が渦巻くSNSを子どもや若者たちも日々目にしている。意識的に閲覧しようとはしないかもしれませんが、それでも「空気感染」は確実にする。


目立つと、死ぬ?

私が気になっているのは、インターネットやSNSがどのくらい若者たちの心に影響を与えているか、ということです。
私がこの本のタイトルを聞いて予想した「皆の前でほめないでほしい」理由は、「目立つと、死ぬから」でした。
どんな形でも、人と違うと、「普通」からはみ出すと、人気になると、話題になると、人々から石を投げつけられる可能性が高くなり、死の危険が近づくからだ、と。

こう思ったのは、今年7月にタレントのRさんが亡くなったことを受けてです。Rさんは明らかに目立っていました。本書の言い方ですと「浮いて」いました。注目され、賞賛もされましたがそれ以上に誹謗中傷を受けていました。(「誹謗中傷」という語がマスメディアなどで頻繁に使用されはじめたのはいつからでしょうか。私の学生時代のころにはあまり耳にした覚えがありません。)

誰もが自分の思いを発信できるSNSは、誰もが匿名のままに他者を傷つけ、死に至らしめる世界となっています。若者が人前でほめられることに喜びではなく恐怖を感じるのは、どんな形であれ「目立つ」こと、いわゆる「普通」からの逸脱が「死」にさえつながる危険な現実を見せられているからではないでしょうか。自覚していないとしても、それこそ「空気感染」的に、そういう危険を感じているのではないでしょうか。

今隣にいるわけでもない「すごい人たち」

「自信がない」のはなぜか、これもSNSのせいかもしれません。
以前は、「周りの子はもっと色々経験してる」「他の友だちの方が能力が高い」というとき、その比較対象は実際にそばにいる子たちだったはずです。しかし今や、世界中のどこにいる誰の日常も、その人が発信さえしていれば、手元の画面にずらりと並ぶようになりました。比較の対象は際限なく増殖し、中でも「すごい人たち」が輝いてみえる。同年代で、何かを成し遂げている(と見える)人たち。それに比べて自分は、と自信をなくすのは当然のなりゆきに思えます。
「井の中の蛙」でいることが不可能な環境。SNSは社会の全体像が把握できるという錯覚を起こさせる装置でもあり、その幻の全体像の中で自分の位置づけが低くなるのは仕方ないことのように思えます。

あらゆる「活動」を評価することの危険について

もう一つ私が気になっているのは、大学受験等における「学力試験以外」の比重が大きくなったことの影響です。
私が受験した2000年にはまだAO入試は始まったばかりで(「AO入試元年」と呼ばれているんですね)、多くの高校生は学力試験を受けていました。しかし私が教員になったころにはAO入試はすっかり一般化しており、その後も受験者は増える一方だと感じました。
学力試験の一発勝負に「自信がない」ので、安全志向の優等生(理想の受験は「指定校推薦」)は定期試験を驚くほど重視し、各科目で5を取ろうと必死でした。課外活動にも熱心で、コンクールに応募したり、夏休みに海外ボランティアに出かける生徒もいました。東南アジアに行ってボランティアをしてきました、と言った子の顔はたいへん頼もしく、「いい経験をしてきたね」と私も返したのですが、内心、複雑な気持ちになってしまいました。

その子は受験関係なしにボランティアがしたかったのかもしれない。新しい経験をするチャンスを逃さなかっただけかもしれない。また、受験で有利になるから、という動機があったとしても別に悪いわけではない。何かをする動機は複合的なものであるのが普通なのだし。そしてどんな動機だろうが、実際行動し、体験してきたことが素晴らしい。
……それはそうなのだけれども。

今の若者たちは何をするにしても「受験(就活)で有利になる」という「報酬志向」から逃れられないのではないか、と思ってしまいました。
試験の点数以外の活動履歴が評価され、判断材料になる。1点刻みの学力試験一辺倒システムと比較すれば、個性や人物を重視した素晴らしい入試であるように見えます。でも同時に、意志とか心の領域が侵犯される危険があるのではないでしょうか。
「作文コンクールで入賞した、1ポイント」
「部活で部長をつとめた、1ポイント」
「海外ボランティア活動を行った、2ポイント」
……どんなことも評価対象にしてしまう世界とは、何をするにしてもリターンを求める、「報酬志向」へと人を駆り立てるシステムではないでしょうか。それで幸せになれる気がしません。

以前、入試で「ポートフォリオ」を利用できるようにしようという話がありました。頓挫したようですが、個人のあらゆる活動を点数化しようという方向の動きと思われ、警戒しています。(私が警戒しても意味はないですが)
 
 
以上の感想はなんのデータにも基づいておりませんので、科学的・学術的根拠はゼロです。そんな益体もないものを長々と下手な文章で書き連ねてしまいたいへん申し訳ありません。もし貴重なお時間をさいてお読みいただけたなら感謝です。
 
最後に。「いい子症候群」と定義される若者たちの割合は実際どれくらいなのか、気になりました。これを読んだ大学生や社会人1~2年生の「感想」や「反論」を聞いてみたいです。「そうそう、自分もこんな感じ」と思う人がどれくらいいるのか。「ちょっとわかるところもあるけど、そうでもない」「私は全然違う」という人は、どれくらいいるのか……
 
本当に色々と考えさせられ、読んでよかったと心から思っております。ありがとうございました。
 
 
p.s 私はnoteのアカウントを持っており、読書感想文としてこちらの感想も(一部を編集したうえで)投稿する予定です。
 

 
※以上、実際に「東洋経済新報社気付 金間大介先生」宛てに出したお手紙(一部改稿)

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