家事について、その遂行の意味について考えてみた
毎日繰り返し行っていることに意味を見出す
このニュースを見て、「そうそう」とつい唸ってしまった。
千切りキャベツを毎日食べたいがために、この調理器具も約5年は愛用している。
はじめは指を切ってかなりの痛手を負っていたけど、今ではテレビを見ながらノールックでも使用できるほどになった。これこそ日々の賜物である。
家事全般に言えることだが、繰り返しの作業のなかで作業効率や精度が上がるだけではなく、その行為自体に当事者固有の意味や位置付けを見出すことがあると最近気づいたのだ。
キャベツをスライサーに乗せて、かんなを掛けるように前後に滑らせる。
刃に指が当たらぬように浅く握るのだが、力を入れようとすると握り損ねる危険性がある。安全に調理するには微妙な力加減が必要なのだ。
寿司職人がシャリの大きさを手のひらで測るように、キャベツの向きや刃の当て方などの動作も説明書を見て獲得するのではなく、実践の中で習得していった。
自分なりのやり方、そして流儀になる
家事にしろ、仕事にしろ、日々の営みに組み込まれているものには自分の色がつく。個性や流儀と言っても差し支えないかもしれない。
掃除や洗濯、食器洗いなど家事にまつわることは家電が担うことがほとんど。掃除機ならゴミや埃を吸い取る、洗濯機なら衣服の汚れを落とすなどの役割が与えられている。
行為や役割だけを取り出せば人と機会に変わりはないが、そこに向き合う姿勢や遂行の意味については十人十色の引き出しがあると思う。人間が行うとそれぞれの哲学性が帯びてくるものだ、と。
ロボットにもある種の哲学や倫理観はインストールされているが。
私が欠かさず行なっている作業について、
・掃除は身も清め、愛着を育てる。
・洗い物は調理の一環。
・洗濯物干しは心身のバランスを調整する。
・キャベツスライサーは「今、ここに」の実感を生む。
家事は精神性の鍛錬、価値観を行動して認識する「場」と捉えているのだと思う。もちろん自動化された作業にいちいちそんなことを頭に思い浮かべながら取り組んでいるのではないけれど。
暮らしの歯車を回し、一員の作業が別の一員へと活動の輪を広げて、グルーヴを大きくするような。
自分の日頃の行いで自分自身が報われる、そう心掛けて日々の態度に気を配ろうと努めている。
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