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いっぱしの女
自分の平安時代の入り口だった「なんて素敵にジャパネスク」。これを書かれたのが氷室冴子さん。
あの頃、著者の方がエッセイを書いていることも知らなかったので探すこともなかったし、その頃はまだ出してなかったかもしれない。
最近、このエッセイの存在を知り早速読んでみた。
最近のエッセイは何かに掲載されたものが書籍化されるので、大概2ページぐらいの単位で書かれているのだが、このエッセイはだいたいその倍ぐらいで纏められている。その中で少女小説の作家、性別、母娘の関係など、今ではジェンダーというテーマで括られる内容について書かれている。
「わかる」ということについて、大学の教授にこう言われた。
女性はどうして簡単に、この小説わかる、と言えるのだろう。「わかる」という言葉を、軽々しく使うのがどんなに傲慢なことかわかってない。
確かに、すぐに「わかるよ」とか「わかった、完全に理解した」という人もいる。女性は回答より共感が欲しいとも言われる。性別によらず人の考えを全く同じに理解する事などできないのは当然だと思う。
思うが、気持ちや感情、考え方の方向性、もう少し言えばベクトルを合わせることは大切だと思う。ベクトルは向きとサイズを持っており、これがどのぐらいあっているかを擦り合わせてゆくのが大切なのだと思う。
初対面でも「この人とは波長があう」と思ったり、すぐに意気投合出来る人はこのベクトルを合わせるのが速かったりするのは、ものすごくベクトル自体が似ている人なんじゃないかと思う。
まあ、ベクトルも可視化できるものでないので、合っていると思っていてもその認識に誤差があったりするのだけれど。
コバルト文庫に書かれたさまざまなお話を書かれた方は、こんな気持ちや考えを持ちながらあの作品を書かれたのかと、さまざまな感情のなかに、少しの驚きがあった。
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