闘病生活を続けて無事に4歳になった先天性心疾患を抱えて生まれた息子の記録
最近全くnoteを更新しておりませんでしたが、2021年も終わりが近くなってきたので久しぶりに息子の話を書いていきます。
2021年5月。息子が無事に4歳になりました。
今は元気過ぎるくらい活発に走り回っている息子ですが、生まれた時の状態からするとこんなになるとは夢にも思わないくらい奇跡的なことでした。
これまでの経緯については何度かブログにも書いてきましたが、改めて4年間について書いていきます。
心疾患発覚から病院選び・出産までの3ヵ月間
2017年3月30日。妊娠30週の妊婦検診にて、町の産婦人科で心臓に異変があるかもしれないと言われました。早めに検査をしなければならないと思い、翌日に日大病院を紹介してもらって受診に行きました。
その場での診断ではよくわからなかったため、しばらく入院して検査をしましょうということになりました。
そこで検査をしてもはっきりとしたことは分からず、でも異変があるのは間違いないだろうというだけでした。
入院していた日大病院には週に1回だけ東邦大学の先生が来ていたため、東邦大学の先生にも診てもらいましたが、もう少し細かく調べたいとのことで一度日大病院を退院して東邦大病院で受診することになりました。
そこで、大動脈弁狭窄症と初めてはっきりと診断されました。
人の心臓の血液の流れは下記のようになっております。
全身→大静脈→右心房→右心室→肺動脈→肺→肺静脈→左心房→左心室→大動脈→全身
この流れの中で、左心室と大動脈を繋いでいる「弁」に異変(狭窄)が起こり逆流をしてまっているというものです。
さらにそのせいで左心房が肥大化し、左心房と左心室をつないでいる僧帽弁も狭窄を起こしておりました。
治療法はいくつかあります。でも東邦大学ではそんな手術をやったことは無いとのことで、うちでも良いけどより専門的な病院の方が良いのではないかと言われ、病院を探すことになりました。
心臓外科専門の病院や、小児専門の病院などいつくか教えてもらいました。その中で、病院のホームページに掲載されている特に小児の心臓手術の手術例情報などを全て調べました。
ゆっくりしていると生まれてきてしまうため、本当に時間が無い中で急いで調べました。
調べた結果、榊原記念病院が一番実績があるということが分かり、榊原記念病院へ行くことにしました。
そこでも診断内容は変わらなかったのですが、今後の方向性も徐々にはっきりとしてきました。
ただし、お腹の中にいるのでは手術はできないということと、生れてみないと状態もどんなかんじなのか分からず手術が出来るか分からないということもあり、まずは生れてくるまで待つこととなりました。
出産前の計画では、ノーウッド手術・グレン手術を経てフォンタン手術を目指すというものでした。簡単に言うと、右心房の機能を捨てて左心房だけで生きていける心臓を作るというものです。
ですがそれらはあくまでのその時点での計画であります。生まれた後は体内と環境がガラッと変わるため、もしかしたら数分間の命になってしまうかもしれないとも言われました。
分娩室から手術室までたどり着けないかもしれない。その場合は、この子が生きていたということを両親だけでも肌で感じておいてもらうためにも一度はお子さんを抱いて頂きますとも言われていました。
そして5月22日に出産。
病院としては何があっても対応できるように万全の準備をして頂きました。
生れてからも様子が急変することもなくとりあえずは無事でしたが、まずは1時間後に1回目の手術を行うことになりました。
その手術は無事に成功。そして2週間後に2回目の手術。肺へつながっている血流量を調整するため、血管の太さを調整するバンディングといった手術です。
出産~生後2か月 ロス手術へ向けての準備・とロス手術実施・退院
そして出産1か月後。フォンタン手術を目指していましたが、なんだかとても心臓の状態が良いとのことで急遽ロス手術に切り替えることになりました。
このロス手術はとても難しい手術であり、大動脈に自分の肺動脈を移植し、肺動脈には人工血管を移植するといった手術です。
子供の心臓はピンポン玉サイズととても小さいため、大動脈に合う人口血管は無いようで自分の肺動脈が一番良いようです。
ミリ単位での作業のため、ちょっとした間違いも許されず、しかも小児のロス手術が出来る医師は日本に数人しかおりません。その中でも最も有名な先生に手術をやってもらえることになりました。
そんな神の手でも年に数回しかやらない手術で、しかも全てが成功という結果ではないみたい。
ロス手術は12時に始まり、終わったのは22時半。無事に成功しました。
その後の回復も尋常じゃないくらい早く、当初の予定よりだいぶ早くICUを抜け出し、生後2か月したところで初めて退院することができました。
退院したとしてもまたすぐに病院へ逆戻りということはよくある話のようなので心配しておりましたが、その後も特に様子が急変することもなく、何とか無事に過ごしていました。
とはいえ、何かあったら普通の子よりも大事になる可能性が高いため、常に慎重に様子を見ていました。
退院後も基本的には外出禁止・自宅では酸素ボンベを使う日々
外にはたくさんの菌もあり、出来るだけそれらから遠ざけなければならないので基本的には外出禁止とされておりました。そのため、保育園にも通わせることが出来ず、自宅で過ごすことに。そして妻も10年ほど正社員として勤めた会社を退職し、息子の看護をすることになりました。
酸素濃度が下がってしまう傾向があったため、自宅では酸素ボンベを使っておりました。しかし、息子は鼻につけることに違和感があったようで、すぐに外したがります。しかも基本的には息子は外出禁止。必要最小限なら良いとのことでしが、それでも外出する際も酸素ボンベが必要となります。息子を抱っこ紐で前で抱え、後ろで酸素ボンベを背負っておでかけという、真夏はこっちが倒れてしまいそうな状況での外出でした。
入退院を繰り返す日々
喘息も持っていたため、ちょっと風邪をひくだけでもすぐに入院をしていました。2歳になってようやく入院する機会も減りましたが、それまでの間はほぼ毎月のように入院。2週間入院して2週間自宅で過ごすといった状況でした。
入院をすると大変なのは付き添い入院。
小さな子供を一人で入院されておけないため、親が付き添い入院をする必要がありました。私も平日は仕事をしているため、平日は妻が病院で付き添い土日は私が付き添うというかんじでしが、平日も2つ上の娘がいるため私がワンオペ状態で過ごしていました。
付き添い入院の環境もなかなか大変なもので、風呂や食事、睡眠の環境も大変ですが息子も不安な精神状態のためトイレにいくだけでも大泣き状態でした。
3度の鼻血事件
血液をサラサラにする薬を使っているため、出血したら止まらなくなります。ある日私が21時頃に仕事から帰宅すると、いつもはその時間は寝ているはずの息子の泣き声が聞こえてきました。
リビングに行くと、辺り一面血で真っ赤に染まり、大泣きする息子と息子を抱きかかえて血まみれになって泣きそうな妻、そして不安そうに泣いている娘の姿がありました。
その姿を見て、私は殺人事件でも起きたかのように感じましたが、話を聞いてみると息子の鼻血が2時間止まらない状況だったようです。そのまま止まりそうになかったため、救急車を呼んで対応。その後も2回ほど鼻血で救急車を呼ぶことになりました。
息子は鼻血が出て訳も分からない状態になって泣きわめくため、止まるどころかそれでより一層出血してしまっておりました。そのままだと輸血も必要になったようですが、とにかく鼻血だけでも大事件に発展していました。
生後1年に行った血管の交換移植
生後1年経つとロス手術時に移植した血管が体の成長とともにサイズが小さくなってきました。そこで、血管を移植する手術を実施。そこで久しぶりの神の手登場。ロス手術に比べれば比較的簡単な手術のようですが、それでも心臓を一度止めて、心臓を取り出して行う手術のため、リスクの高い手術です。無事に手術も終了し、その後の回復も早かったため何事もなかったように思えてしまいますが、これもすごいことなんですよね。
まだまだ今後も体は成長していくため、恐らくあと1回は血管の移植手術が必要になってくるようです。まだ先のことで恐らく高校生くらいになるかもとのことです。
2歳になった時の評価検査
これまでの様子を深く検査するために1週間ほど入院して検査を行いました。検査結果はとても順調とのことで、外出許可も出て、酸素ボンベも使わなくてもよくなりました。
外出許可が出たということは保育園にも通えます。しかしいきなり普通の保育園に通うのはハードルが高かったため、まずはデイサービスに通うことにしました。
毎日ではなく週に数回程度からスタートしましたが、これまで家の中か病院しか知らなかった息子には刺激が強かったようで、かなり楽しい日々を過ごしていた様子。
これから生きていくためには外の世界もしらなければなりません。友達と遊んでいる息子の写真、とてつもなくかわいいです。
初めての泊まりでの旅行
外出許可もでたため、これから生きていくには外の世界を知ることも必要なので体調を見ながら外も行くようにしていました。
まずは軽井沢に1泊2日の泊まりの旅行。そして熱海へ2泊3日の泊まりの旅行。どちらも無事問題なく楽しく過ごせました。しかもかなり楽しんでいたようです。
区立の保育園に通園が決定
デイサービスに通っている子の中では一番元気だったようで恐らく物足りなさを感じていたことでしょう。病院では状態が非常に良いと診断されたため、他のこと同じように区立の保育園に通えるようになりました。
最初は大丈夫か心配しておりましたが、驚くことに保育園でも元気いっぱいな様子でうちの息子が一番元気に動き回っているようでした。
お友達もたくさん出来て楽しいことがたくさんあるようで成長の様子がよく分かります。
そして11月には3泊4日の沖縄旅行。 ディズニーランドにも2度ほど行けたし、しかも3歳になってからは一度も入院をしておりません。心臓のことなど忘れてしまうくらいの日々となりました。
そして、身体障害者も外れることが出来ました。
急な不整脈で救急車
元気すぎる日々を過ごしていたので心臓のことなどすっかり忘れるくらいになっていましたが、年末に公園に行って遊んでいると突然ベンチに座って黙っていた息子。「どうしたの?」と聞くと少しだけ笑いながら「休憩」と言っていましたが表情はかなり曇り気味。
心配になって急いで家に帰ると歩けなくなるくらいフラフラな状態になり、「苦しい」と言って突然動けなくなってしまいました。
私もどうしたら良いのか分からなくなり焦って救急車を呼ぼうか迷っていると少しずつ落ち着きを取り戻してきました。
その間約30分ほどでしたが、とにかく焦って私の心臓が止まりそうな勢いでした。
しかしその後も何度か同じような状態になることがあり、大晦日に発症した時には流石にやばいかもと思って病院へ行きました。
到着した頃には落ち着いていたため検査では何も現れなかったのですが、恐らく不整脈とのことでした。
それまであまりにも元気すぎていたので忘れかけていましたが、やはり大きな病気を持っていることを改めて思い知れされました。
それ以降はほとんど変わった様子もなく、今でもいくら走っていても発作が起こるようなことはありません。
妻のファミリーハウス生活と私のワンオペ育児生活
家から榊原記念病院までは電車で約1時間半。妻が産後の体で毎日通うには負担が大きすぎます。そこで、妻は出産後しばらく病院の近くにあるファミリーハウスで生活をしておりました。
そうなるとそこに2つ上の娘も置いておくわけにはいかず、私と娘の二人だけの生活となりました。出産時の娘はまだ1歳10か月。仕事をしながらこの年齢の娘と二人での生活はなかなか過酷なものです。私も仕事を早退させてもらい、保育園に向かえに行き、食事の準備をしてご飯を食べさせ、風呂に入れて寝かしるけるという日々。娘が寝たあとに洗濯や食器洗いなどなど。体力的にもそうですが、精神的な負担がとても大きかったように思えます。
しかし娘はとてもしっかりしていました。何となく大変なことが起こっていて自分がしっかりしなければならないということを感じていたようです。こんなに小さな時期にも関わらずほとんどわがままも言わないで、良い子にしていました。恐らくたくさん我慢させてしまっていたことでしょう。ママが帰ってきた時は思う存分甘えていました。この子がいなかったら私の精神状態が崩壊していたことと思います。
医療費問題について
治療計画の段階でやはり医療費についてはかなり心配しておりました。結論から言うと、子供の医療費は基本的に無料のため、ほとんどかからずに済んでおります。
出産した月の明細には600万円の金額が書いてありましたが、それがほぼ無料。ロス手術の時は1400万円の金額が書いてありましたが、これもほぼ無料。その後も毎年300万円くらいの金額が発生しているようですが、ほとんど無料です。かかっているのは食事代とあと少しくらいです。
また、国からの補助もあります。また、身体障碍者一級だと様々な割引制度も利用できます。タクシーチケットや公共料金の割引などもあります。そのため、医療費で苦しむといったことは無く過ごせていました。妻が仕事を辞めたため収入源が私一人になってしまったのは痛いのですが、その分これから私が働かなければなりません。
私がこれまでに一番印象に残ったこと
これまで様々な出来事が起こりましたが、私が一番印象に残っているのはロス手術に向かう際の息子です。
生れてから常に薬で眠らされていたため、私は生れて1か月経っても起きている息子を見たことがありませんでした。泣き声も聞いたことがありませんでした。
しかしロス手術に向かう際の見送りの時、息子は目を開いてこちらを見て「にやっ」と笑いました。「心配するなよ!余裕だからな!」と言わんばかりのあの表情は今でも鮮明に覚えています。この子の強さなのでしょうかね。
そしてようやく4歳になった息子
3歳まで生きられるかどうかとも言われていましたが、こうして4歳になれたことがとても嬉しく思います。しかも元気過ぎて外で走り回っています。
自己主張が強すぎて、2つ上のおねえちゃんと毎日喧嘩をして負かしています。それくらい強気でないと生きていけないということでしょうか。
最近の息子はブロック遊びが好きなようで、とても集中して作っています。人を笑わせるのも好きなようで、おもしろいことをやって周りが喜んでくれるのが楽しいようです。
よく食べるので体も大きくなり、感性も豊の子になってきました。このまま無事に成長していってもらいたい。
そしてここに至るまでに一体どれだけに人に助けられてきたものか。本当に感謝しています。しっかりと今後の人生で恩返しをしていきます。また来年の誕生日を無事にお祝いできるように元気に過ごしてもらいたい。
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