読書感想文 #9 絶望の国の幸福な若者たち
isukです。
読んだのはこの本です。
頑張って読書感想文書きました。
1章
この章では、一体「若者」という言葉はどのようにして生まれ、どのように使われてきたのか、ということを述べていました。
特に、「若者」と併用して使われてきた「青年」との区別は、年次や母体によってどちらがどの年代を指すのかが分かれていた時代もあり、とてもややこしい問題でした。
日本においては、その時々において、「若者」が需要を生み出してくれる「味方」として働くときや、消費が落ち込んだときに、それを「若者」たちのせいにするためなど、様々な場面で掌返しを喰らってきたような「若者」は不憫だと感じることもありました。
加えて、現代のように様々な価値観が入り混じってきた世の中においては「若者」と一括りにして何か物事を論じることはとても難しいこともあり、
「若者」とは一体、何なのか。
ということは、正直読んでいてもわかりませんでした。笑
なので、本書においては、主にバブル期以降の20代のことを中心に論じていくそうです。
2章
「ムラムラする若者たち」という刺激的な言葉で題される本章では、
「若者が内向的になってきているのか」
という点を、統計などを交えながら論じられている。
この統計を紐解いていく結果、
「これまでと比べて内容的になったかよくわからない」という結果が得られたとまとめてある。
次に、「若者は幸せを感じているか」という統計を持ち出し、
これまでにないほど、「若者」が現状の生活に幸福を感じているのか、ということが述べられている。
その一方で、「社会に関する展望」という評価は最悪となっており、これ以上よくなる兆しのない未来への絶望から、「今が幸せ」を感じているのではないか、という仮説が述べられている。
加えて、「ムラムラする」という題名にもあるように、「若者」の視野が狭まっていることが述べられている。
テレビやラジオなどのマスメディアの発達によってそれまで画一的な組織、文化が根付いていたものが崩壊し、それぞれの組織がそれぞれの組織内での繁栄や喜びを追い求めるようになっているのではないかと述べられている。
これらを統括すれば、若者が内向的になっていると感じられる理由もわかるだろう。
それまで、普遍的だったもの、視野が広かったものが、狭くなり、
その組織内での繁栄や幸福を願うようになった。
そうしたそれぞれの組織が「若者」以外の外部からは「内向的な若者」として映るのだろう、ということである。
彼の文章の中でかなりまともに読解できた部分かもしれない。
3章
この章では、2010年のワールドカップの際の日本の盛り上がりを引き合いに出して、日本全体のナショナリズムについて説いている。
まず、この短期的なイベントに熱狂できるという観点から、私たちに「日本人」という感覚がどのようにして生まれてきたのか、ということを説いた。
その内容は外的な要因による、日本の構造変化であった。
江戸時代までは身分ごとに人生が分かれていて、少数の特権階級が多数の貧しい人々、農民を支配する、という構造が取られていた。しかし、幕末になって、欧州列強から侵略を受ける可能性があるという危険性を察知した政府が教育などの仕組みを変化させることによって「日本人」という統一の感情を生み出した。
ラジオなどの、地方と都市の情報格差をなくす技術も相待って、次第に「日本人」という意識は浸透していく。しかし、その思いが第二次世界大戦を巻き起こしてしまったのではないか、と筆者は述べている。
その後、さらなる技術の発達によって、海外でもビジネスが展開できるようになったことによって、「日本」を強くしなければならないなどの思想は弱まっているかのように感じられる。
しかも、せっかく様々な情報が得られるようになったインターネットにおいても世界において重大に情報よりも、日常の些細な出来事の方が大きく扱われていることもあり、結局他人事というか、自分とは関係のないことには首を突っ込まないようになってきている。
このような変化であれば、再び日本が戦争に走ってしまったような状況には陥らないのではないか、と筆者はまとめ、この状況が起こっている点に関して言えば、今の日本人の価値観は良いものなのではないか、と述べている。
4章
この章では、実際に行われているデモの参加者の声を元にして、実際にどのような人々が社会を変えるための行動を起こしているのか、という考察を行っていた。
この調査を通じて、デモに参加するような人たちに過激な思想をもって参加しているのではなく、カジュアルに、気軽に参加している部分が多いことがわかった。
彼らの行動の厳選となるのは、自らの生活や生活環境が危機にさらされる可能性があると思われる時であった。
これまでに述べたように、若者たちの属性がこれまでに比べて多様化してきた世の中では、人によって「危機にさらされている」と感じる状況も異なっているようである。
また、このようなデモなどの活動も人々の「居場所」として機能する面が多い。彼らは、同じ思想をもった人々と仲間意識を感じるために活動をしている部分もあるのだろう。
ドラマや少し前の中東政権のように絶対的な悪の存在しない日本においては、デモによって劇的に生活が変わるような状況に陥るとは思えない。しかし、現在の若者が「居場所」をもとめるためにそれらの活動を行うのであれば、それは良いことではないかとして筆者はこの章を閉じている。
5章
この章では、2011年3月11日に発生した、東日本大震災が日本にもたらした影響や、それに起因する人々の言動や行動が述べられている。
前までの章でも述べてきたように、変化のない現実に不満をもち、「非日常」を求めていた若者にとっては、震災は絶好のその活力の吐き出しの場となった。多くの若者が募金などの支援活動を始めたり、原発への反対運動などに参加する動きが見られたようである。
また、当時利用が盛んになりつつあったSNSやインターネット上のコミュニティでは、震災に関する膨大な情報が溢れるようになった。中には平然と誤情報も含まれていたので、依然としてマスメディアの重要性や信頼性が浮き彫りともなる事態であったのかもしれない。
さらに、多くの人が「3/11」で日本が変わった、とのべる。確かに、実際に被害を受けた人々の生活は変わってしまったかもしれない。しかし、そうした人々も、日本全体に占める割合で考えると、大した数字でないことがわかる。経済的な指標においても、地震で直接的な被害を受けた地域の規模が日本経済史占める割合は低いのではないか、と筆者は語る。
故に、「今回の事故で日本が変わった」のではなく、「事故によってこれまで日をみていなかった不都合な事実と直面せざるを得なくなった」のではないか、と結んでいる。しかも、よく「復興」という言葉が述べられてるが、元々未来が見えるような状態ではなかった東北地方がどのような状態になったら復興したと言えるのかについても筆者は疑問を抱いていた。
今回の事故で浮き彫りになった問題を解決し、被災地が真の復興を果たせる日が来るのはかなり遠い未来なのかもしれない。
6章
この章では、全体のまとめとして今後日本の若者が直面するであろう課題や、現在の「若者」にとって何が問題であるのか、ということが述べられていた。
まず、現代の若者が立たされている社会的な情勢からのべ、如何に団塊の世代が優遇されてきたのかを説いている。中でも、現代の祖父と孫の間には1億円の経済格差が存在するという話を聞いたときには驚いた。さらに、老後や失業などの保証も、高齢者にはヨーロッパ並みの支援が整っているのに対し、若者の失業保証などは1970年代のままで止まってしまっているとの記述もある。
だからと言って、現在のようにインフラの整っていなかった団塊の世代として生まれてきたかったかと問われればそうでもないという答えが返ってくると予想した。
ただ、全て若者が負債をおうという仕組みでもなく、この日本という国全体が絶望の未来を待つのみなのではないかと述べている。
そうした絶望的な状況でもなぜこの日本という国は危機意識で溢れかえっていないのかというと、家族や仲間といったコミュニティに戻れば「安心」できるからだと推測している。
逆に言えば、自分の、そのコミュニティが崩れない限り、若者、ひいては日本人は危機意識を持たないのではないかとまとめている。
先日の震災に駆けつけたボランティアでも、自分以外の地域の「他人事」の問題として参加しているのかもしれないし。
逆に言えば、国民全員が「日本」という国にこだわりをもっていないので、戦争などのような状況に陥らない点は良いとまとめている。
佐藤健との対談
本書の冒頭における「龍馬伝」の佐藤健さんのインタビュー記事の引用をきっかけに実現した対談がまとめられていた。
佐藤健さんは古市さんと同じ学校に通っていた際にスカウトを受け、結局大学児受験をすることなく俳優としての道を歩むことを決断したらしい。
その決断の背景には、海外ではギャップイヤーなどの考え方が一般的であったため、何かあったらそこから大学に通えば良いと考えてたからだそうだ。
また、すぐに飽きてしまうような性分らしく、3ヶ月で身の回りの環境の全てが変わる俳優の仕事さえ最後の方は飽きてしまうことがあるらしい。
さらに、今回の本の中で何度も発言されていた、「世の中のため」よりも「自分が所属している小さいコミュニティのため」という考え方に佐藤健さんも共感されていた。(というか「龍馬伝」の記事の中で既にそのような発言はあった)
一般的に仕事に従事している人々たちのルーティンワークを見て「偉い」と述べている点も以外というか、成功者ならではの発言なのかなと感じてしまった。
ただ、何の責任を持つことなく「夢への挑戦を応援することはできない」という言葉から一人一人に向き合おうという姿勢をもっている点は感じられた。
後書き的なやつ
著者自らの創造的思考について述べられていた。
もし、今の自分よりも不幸せな自分が存在していた可能性があるならば、他の誰か(現在の自分の役割を担っていたかもしれない人)が現在不幸になっている可能性がある。だからそのことに責任などを感じて生きなければならない。という言葉には衝撃を受けた。
全体の感想
約10年前に書かれた本とは思えないくらい新鮮な本だと感じた。
特に、現状の混乱やこれまでのアメリカのブロック経済圏確立までの動きによって世界という大きな単位でも「個別化」や「ムラ化」は実際に発生していることだと感じた。
そうした動きがもう既に10年近く前の段階から始まっていたのだなということを気づきの遅さとして感じた。
本書の内容に付け加えてしまうことになるが、インターネットという世界を包む画一的なツールがもたらすものは
「世界の統一化」
ではなく
「世界のムラ化」
であると思う。
理由としては、必要最低限のインフラがインターネットなどの技術をもとにして整備されてしまうことによって、首都や一部の国、地域への依存、交流を持つこと事態がコストとなってしまう時代に突入したと感じているからだ。
こうした世の中に必要なものをなぜかアイドルに例えて言うと、
「日本で一人の国民的アイドル」ではなく、
実際に会いに行ける、距離感の近い、「都道府県に複数人いるアイドル」
が活躍する時代になったと言えるのではないか、と言うことである。
つまり、世間で統一されたたった一つの流行を全員で追うのではなく、
個人個人がそれぞれの流行や関心によってそれぞれに理想を追い求める世の中になってきているのだろうし、
逆に言ってしまえば
このような現状の中で世の中の競争にのることはゴールのないマラソンに参加することと同義な状態なのかもしれない。
まとまっていないので結論。
一人一人が目指したい、歩みたい価値を追い求めるようになってくると思う。
終わり。