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自己中心 / 最近の気づき


対象にとって己が良き存在であることが
正であり愛であると考えてきた。


相手にとってポジティブな存在
大切にしたいと思ってもらえる存在
特別な存在

その枠に入れない、入れなかった自分
相手にとって自分はたいした存在ではなかったと感じた時

正しく成れなかった自分を
とにかくダメな奴だと否定した。

相手にとって自分がどんな存在で
どんな風に思われることを
絶対的な正解とするのではなく

どんな信念を持って
どんな風に自分や人と向き合い続けているか、
そこにいつも偽りなく誠実で
個性とユニークさのあるものか。

最近はそういったことを大切にしたいのだと
意識するようになった。


自己中心という言葉は、本来の意味の奥に
色々と深いものがあった。

相手にとってどんな存在で在りたいか。という願いは
結局のところ、巡り巡って自分を肯定したい
自分を愛したいという祈りに帰還する。

切望して止まない願いの背景には
どんな記憶と感情が結びついているのか
知覚してさえいれば、もっと生きやすくなると思った。


私は、結局は愛されたいだけなのだ。
自己中心的に、特別な存在で在りたいのだ。


傲慢で、わがままで、劣等感を孕みながら
それでも純粋に、愛される喜びを何度でも実感し
命に感動し、幸福で在りたいと望んでいる。

あまりに人間らしくて、少し笑えてしまう。

内に潜む幼き自分が腰に手を当て声高々に
愛されたい!と仁王立ちで旗を立てる。
そんな様子がありありと目に浮かぶ。

自覚してしまえば、愛らしいとさえ思えた。
大人になった自分は傲慢だとすら感じる、
そんな願いでさえも。

自分自身と共存する、というのは
こういう感覚なのだろうか。

希望のように掲げた願いを抱き
背景にある祈りと心を知覚し、
ぼんやりとそれらを眺めている。

ただあまりにも純粋に、時に邪悪にもなり得るもの。
愛されたいと願う自己の中心。

今になって必要で、育て直したいとすら思う
愛されている、と実感する自己中心さ。

認識の変換が、時に大きく何かを変える時もある。


真っ直ぐに立ち、弱さと傲慢さを含む自分を
受容しながらも心を磨き、愛を持って強かに在る。

そんな風に在れたらいいなと思う。


「皆己の世界を生きている。」

真理であって、そして自由でいいなと思った。

自分の思考と内側に深く潜ってみたりして
流れてくるものをぼんやりと眺めながら


開き直るとはこういう事なのか、と感じる今日この頃。




美味しいアイスクリームが食べたいです







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