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津阪東陽「杜律詳解」全釈 覚書 津阪東陽とその交友

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2023年8月の記事一覧

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(6)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(6)

著者 二宮俊博

江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか

 菊池五山(明和6年[1769]~嘉永2年[1849])

 名は桐孫、字は無絃。五山は、その号。讃岐の人で、代々高松藩士。上京して柴野栗山に学び、その後、江戸に出た。東陽より12歳下。文化四年から『五山堂詩話』を毎年一巻ずつ刊行し、当時、江戸の詩壇のみならず地方在住の詩人から熱い注目を浴びていた。東陽の

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(5)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(5)

著者 二宮俊博

江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか

 大窪詩仏(明和4年[1767]~天保8年[1837])

 名は行、字は天民。通称、柳太郎。詩仏は、その号。常陸の人。その父は日本橋銀町で小児科医を開業。十代後半に江戸に出て、山本北山(名は信有。宝暦2年[1752]~文化9年[1812])の奚義塾に学ぶととにもに市河寛斎の江湖詩社に加盟した。東陽より1

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(4)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(4)

著者 二宮俊博

江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか

我が江戸今日の詩、河寛斎之を唱し、柏如亭・窪詩仏・池五山之に和す。風流俊采、皆一代の選なり。因って時人之を概称して江戸四家と曰ふ。以て南宋の范・陸・楊・尤の四大家に媲ぶと云ふ。

 ここに示したのは、亀田鵬斎が文化十12年(1815)刊の『今四家絶句』に寄せた序文の冒頭部分である。天明7年(1787)、市

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(3)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(3)

著者 二宮俊博

妻の訃報、悼亡詩

 江戸に着いてほどなく、東陽は五絶「内に報ず二首」(『詩鈔』巻六)を作っている。江戸に発つ際に、病の身をおして夜遅くまで片時も手を休めずあれこれと旅仕度を整えてくれた妻のことが絶えず気に懸かっていたのであろう。

  老歎經年別、貧憐守舍難  老いては歎ず経年の別れ、貧は憐れむ守舎
               の難きを
  家書擾人意、只是報平安  家書 人

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(2)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(2)

著者 二宮俊博

旧友との再会―平井澹所

 平井澹所(宝暦12年[1762]~文政3年[1820])

 名は業。字は可大。通称は、直蔵。澹所と号した。三村竹清「平井澹所」によれば、初め名を篤、字を君敬としていたのを、後出の平沢旭山からの勧めで『易経』繫辞上伝の「久しかる可きは則ち賢人の徳、大なる可きは則ち賢人の業」というのに拠って改めたとされ、号についても旭山から与えられたという。東陽より五歳

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(1)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(1)

著者 二宮俊博

はじめに

 伊勢津藩の儒者津阪東陽は、文化11年(1814)8月、侍講として仕える第10代藩主藤堂高兌に扈従して出府し、翌12年5月帰国した。58歳の東陽にとっては初めての江戸行きで、子息の達(字は拙脩、通称は貫之進)を伴っての客遊であった。わずか10か月足らずの短い滞在ではあったものの、いわゆる竹馬の友でかつて昌平黌に学び今は桑名藩儒となっている平井澹所と30数年ぶりに再会し

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(10)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(10)

著者 二宮俊博

おわりに

 安永5年(1776)頃に上京して以来、天明八8年(1788)まで京都で過ごした遊学時代は東陽にとってかけがえのない第一の青春とも呼ぶべき時期であり、彼が過した十数年間は京都の詩壇もまさに活況を呈していた。経済的豊かさを背景にした自由闊達な都市の風気やそれに培われた詩人文人たちの旺盛で暢達な活動。東陽はその「寿壙誌銘」において「学ぶに常の師無し」と揚言し、ともすれば独

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(9)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(9)

著者 二宮俊博

その他の学者・文人―桃西河・菅茶山・葛子琴・木村世粛

 京には長期にわたって遊学する者や短期の研修に訪れる者、老いも若きもさまざまに地方から上ってきたが、そこでその他として、こうした学者文人のうち桃西河と菅茶山の二人を取り上げたい。それから、大坂在住の葛子琴と木村蒹葭堂についてもここで取り上げておく。

桃西河(寛延元年[1748]~文化7年[1810])

 名は世明、字は君

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(8)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(8)

著者 二宮俊博

儒者―那波魯堂・皆川淇園・頼春水・古賀精里・藪孤山・柴野栗山

 ここでは先輩の儒者に贈った詩を取り上げる。ただし、これらの作は詩友と贈答応酬した作に比べると、おおむね面白味には缺ける。概して相手の学問人品を称えることに終始しているからである。

那波魯堂(享保12年[1727]~寛政元年[1789])

 『日本詩選』の作者姓名に「那波師曾 号魯堂。播州の人。帷を京師に下す」と

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(7)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(7)

著者 二宮俊博

緇流―桂洲・大典・六如

 ここでは学僧・詩僧として知られた人物を取り上げておく。

桂洲(正徳4年[1714]~寛政6年[1794])

 『日本詩選続編』の作者姓名に「僧桂洲 閑雲と号す。洛西天龍寺大和尚。西山延慶菴に卓錫す」と。『東山寿宴集』には見えないが、北海とは親交があった。『平安風雅集』に採録。臨済宗の高僧で、安永6年(1777)天龍寺二百二十一世となった。東陽より4

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(6)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(6)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

大江玄圃(享保14年[1729]~寛政6年[1794])

 『日本詩選』の姓名録に「大江資衡 字は稚圭、玄圃と号す。本姓某、久川靭負と称す、業を龍草廬に受く。京師に講説す」と。『東山寿宴集』にも見え、『平安風雅』には「大江資衡 字は穉圭、号は玄圃。久川靭負」。東陽より27歳上。

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(5)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(5)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

清田龍川(寛延3年[1750]~文化5年[1808])

 『日本詩選』の作者姓名には、「清勲 字は公績。江邨綬の弟[第]三子。嬰咳[孩]他家に撫養さる。兄秉死するに迨んで、復た綬家に帰る。年已に弱冠、始めて学に就き、日夜読書、頗る天授有り。居ること二年、渉猟粗ぼ遍く、最も辞才有

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(4)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(4)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

巌垣龍渓(寛保元年[1741]~文化5年[1808])

 『日本詩選』の作者姓名には、「巖垣彦明 字は亮卿。号は君水。大舎人、長門介。資性学を好み、奉職の外、日夜筆硯に従事す。京師の人」と。『東山寿宴集』にも見え、『平安風雅』には「岩垣彦明 字は孟厚、号は龍溪、又た松蘿館。長門

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(3)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(3)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

太田玩鷗(延享2年[1745]~文化元年[1804])

 『日本詩選』の作者姓名には「賀象 甲賀氏、字は伯魏、玩鷗と号し、栄助と称す。京師の人。嘗て伊勢に遊び、業を南宮喬卿に受く。後に京師に還り、江邨綬兄弟に従遊す」と。安永4年(1775)版・天明2年版『平安人物志』にその名が

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