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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(4)

著者 二宮俊博


江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか

我が江戸今日の詩、河寛斎これを唱し、柏如亭・窪詩仏・池五山これに和す。風流俊采、皆一代の選なり。因って時人之を概称して江戸四家とふ。以て南宋の范・陸・楊・尤の四大家にくらぶと云ふ。

 ここに示したのは、亀田鵬斎が文化十12年(1815)刊の『今四家絶句』に寄せた序文の冒頭部分である。天明7年(1787)、市河寛斎は江湖詩社を開き、柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山らがその門下に集まった。この四人は宋末元初の方回『瀛奎律髄』巻一、登覧類に載せる范石湖「鄂州南楼」詩の評に「乾淳(乾道・淳煕)の間、詩の巨擘きょはくを尤楊范陸と称す」とある尤袤ゆうぼう(号は遂初)・楊万里(字は廷秀)・范成大(号は石湖)・陸游(号は放翁)に擬えられていたのである。なお、江湖詩社というのも、もともと〈江湖〉は束縛の多い官界に対して自由な天地、民間をいう語で、直接的には南宋の陳起(字は宗之)が刊行した『江湖集』『江湖後集』などに基づいた命名であって、身近な日常風景や都市の風俗などを平淡に描写することに意を尽くした。
 江戸滞在中、東陽はこの「四家」と交流する機会に恵まれた。ここでは、その様子を東陽の詩から窺うことにする。

 市河寛斎(寛延2年[1749]~文政3年[1820])

 名は世寧、字は子静。寛斎は、その号。川越藩士の子として江戸で生まれた。関松窓に学び、林家に入門。昌平黌時代には前出の平井澹所とも交友があった。東陽より八歳上。その題下に「子静は昌平学の都講、仕へて富山侯の儒官と為る。致仕して詩酒の間に優游す。江湖社の盟主り」と自注を附した七律「河子静に贈る」詩(『詩鈔』巻五)がある。寛斎は、寛政2年(1790)42歳の時、異学の禁に抵触し昌平黌教授を辞したが、翌3年には富山藩主前田利謙に招聘され、藩校教授となり、文化8年(1811)63歳で致仕するまで、江戸と富山とを往還した。東陽が江戸にやって来たとき、寛斎は前年の7月から長崎奉行の牧野成傑しげたけに随行して当地に遊んでおり、江戸にもどったのは11月であった。東陽は12年春になって寛斎と顔を合わせたらしい。さて、「河子静に贈る」詩は、次のように詠じられている。

  男子功名宦始休  男子の功名 宦始めて
  天眞快活舊風流  天真快活 旧風流
  家傳經藝紛綸業  家は伝ふ経藝紛綸の業
  身逸江湖汗漫遊  身は逸す江湖汗漫の遊
  花月扁舟春水浦  花月扁舟 春水の浦
  絃歌綠酒夕陽樓  絃歌緑酒 夕陽の楼
  老夫安濯塵纓去  老夫いづくにか塵纓をあらって去らん
  樂託從君得自由  楽託 君に従って自由を得たり
◯男子功名 北宋・邵雍の七古「書に代へて王勝之学士が莱石の茶酒器を寄せらるるに謝す」詩(『撃壌集』巻七)に「男子の功名未だ成就せず」と。◯宦 仕官、宮仕え。◯天真 本性。生まれつき。杜甫の五排「李十二白に寄す二十韻」詩に「嗜酒天真を見る」と。◯快活 楽しいさま。双声語。白居易の七律「快活」詩(『白氏文集』巻五十六)に「誰か知らん将相王侯の外に、別に優游快活の人有るを」と。◯紛綸 学問が広くて広いこと。後漢の井丹(字は大春)は詩・書・易・礼・春秋の五経に通じていたので、都の洛陽で「五経紛綸井大春」と評されたいう(『後漢書』井丹伝)。『蒙求』巻上の標題に「井春五経」と。◯身逸 〈逸〉は、やすらか、気楽であること。◯江湖 官界とは無縁の自由な世界。◯汗漫遊 世俗を離れた遊び。杜甫の五古「王信州崟の北帰するを送り奉る」詩に「復た見ん陶唐の理、甘んじて汗漫の遊を為さん」と。◯緑酒 美酒。晋・陶潜「諸人と共に周家の墓柏の下に遊ぶ」詩に「清歌新声を散じ、緑酒芳顔を開く」と。◯老夫 東陽自らをいう。◯濯塵纓去 戦国楚・屈原の作とされる「漁父の辞」(『古文真宝』後集巻一)に「滄浪の水清すまば以て吾が纓を濯ふ可し」と。◯楽託 物事にこだわらないさま。〈落托〉と音通。畳韻語。『世説新語』賞誉篇に「王脩載(王耆之)の楽託の性は、其の門風り出づ」と。

 また五律「河士静に和す」詩(『詩鈔』巻三)がある。

  養志閑居樂、風流一逸人  志を養ひ閑居して楽しむ、風流の一逸人
  罷官無長物、有子作名臣  官を罷めて長物無く、子有り名臣と
  槁木形骸外、虚舟寂寞濱  槁木形骸の外、虚舟寂寞の濱
  詩盟花月宴、好伴醉鄕春  詩盟花月の宴、し酔郷の春に伴はん
◯養志・閑居 後漢・梁竦の言として、大丈夫たるもの生きては諸侯に封じられ、死しては廟に祭らるるべきだが、それがかなわぬなら、「閑居して以て志を養ふ可く、詩書は以て娯しむに足る」という(『後漢書』梁竦伝)。◯逸人 逸民と同じ。隠者。晩唐・杜荀鶴の七律「自ら敘す」詩に「白髪吾が唐の一逸人」と。◯長物 余計な物。白居易の五律「長物無し」詩(『白氏文集』巻六十六)に「只だ長物無きにって、始めて閑人とることを得たり」と。◯子 市河米庵(名は三亥、字は孔陽。安永8年[1779]~安政5年[1858])のこと。◯槁木 枯れ木。『荘子』斉物論篇に「形はもとより槁木の如くならしむ可く、而して心は死灰の如くならしむ可きか」と。◯虚舟 からっぽの舟。虚心の喩え。『荘子』山木篇に「舟をならベて河をわたるに、虚船の来たりて舟に触るる有れば、心(気短か)の人有りと雖も怒らず」と。◯寂寞浜 ひっそりとした浜辺。中唐・韓愈「崔立之に答ふる書」(『韓昌黎集』巻十六)に「まさに寛閑の野に耕し、寂寞の浜に釣し」云々と。北宋・王安石の五古「張康に贈る」詩に「逝将して桑を収め、子を寂寞の濱にむかふ」と。◯詩盟 詩人の会合。北宋・蘇軾の七律「仲屯田の次韻するに答ふ」詩に「千里の詩盟忽ち重ねて尋ねん」と。

 さらに五絶に「士静が夏夜の作に和す」(『詩鈔』巻六)があるが、詩の配列からすると、これは津に帰任した後の作。夏の夜にホトトギスの声を追いかける「風流の一逸人」の姿を詠じたもの。

  南吹夏天靜、江城樹色迷  南吹 夏天静かに、江城 樹色
  月中追杜宇、半夜過橋西  月中 杜宇を追ひ、半夜 橋西を過ぐ
◯南吹 南風。『詩経』邶風「凱風」の「凱風南りし、彼の棘心を吹く」から出た語。◯江城 江戸を指す。◯樹色迷 〈迷〉は、弥と音通で、満の意であろう。◯杜宇 ホトトギス。杜鵑、子規。『薈瓉録』巻上に「此方ニテ杜鵑ヲ賞スル鶯ヨリモ猶甚シ。漢人ハ其声ヲ厭フ、初音ヲ聞クコトヲ最モ忌ムナリ。益州記ニ、子規聞初声者、主別離トアリ」云々と。我が国では、夜にも啼く鳥として、その初音が珍重された。◯半夜 深夜。

※市河寛斎の生涯については、市河三陽『市河寛斎先生』(あかぎ出版、平成4年)に詳叙されている。また今関天彭「市河寛斎」(「雅友」第48号、昭和35年8月。『江戸詩人評伝1』に収録)がある。詩の注釈に揖斐高『江戸漢詩選5市河寛斎・大窪詩仏』(岩波書店、平成2年)および蔡毅・西岡淳『日本漢詩人選集9市河寛斎』(研文出版、平成19年)がある。

 柏木如亭(宝暦13年[1763]~文政2年[1819])

 名は昶、字は永日。如亭は、その号。江戸の人で、家は幕府の小普請方大工棟梁。弱齢のころ平沢旭山に入門して文章を、ついで市河寛斎に詩を学んだ。東陽より6歳下。この漂泊の詩人は、文化4年(1807)江戸を発って西上し、京を中心に備前の庭瀬・讃岐の高松に遊び、文化11年の歳暮ようやく江戸にもどったものの、翌年の4月初旬には信越遊歴に赴くことになるのである。この間、大窪詩仏の詩聖堂に身を寄せていた(後掲、揖斐高『遊人の抒情』による)。
 詩の配列から清明節を過ぎて以降の作とみられる詩で、題下に「時に西州り帰り、又たまさに北越に遊ばんとす」と自注を附した七絶「柏如亭に贈る」詩(『詩鈔』巻九)がある。

  詩酒風流樂託魂  詩酒風流 楽託の魂
  漫遊玩世信乾坤  漫遊玩世 乾坤にまか
  箇身到處青山土  の身 到るところ青山の土
  卻笑劉伶畚鍤煩  却って笑ふ劉伶が畚鍤ほんさふの煩を
◯詩酒風流 金・范墀の七律「高子初梅に和す」詩(『中州集』巻八)に「詩酒風流に忘れ易からんや」と。◯楽託 物事にこだわらないさま。前掲「河子静に贈る」詩の語釈参照。◯漫遊玩世 東陽の七絶「芭蕉翁賛」(『詩鈔』巻九)にも「漫遊玩世滑稽の辞」と。〈漫遊〉は、気ままに旅する。〈玩世〉は、世間の事をはすにみる。この語、『漢書』東方朔伝贊に「隠に依って世をもてあそび、時にたがひて逢はず」と。◯信乾坤 (旅人として)天地の間に身をゆだねる。杜甫の七律「稲を刈りをはりて懐を詠す」詩に「家の消息を問ふ無く、客とって乾坤に信す」と。◯青山 北宋・蘇軾の七律「予、事を以て御史台の獄に繋がる。……故に二詩を作り獄卒梁成に授け、以て子由に遺す、二首」其一に「是のところ青山骨を埋む可し」と。◯劉伶 いわゆる「竹林七賢」の一人。いつも酒壷を抱えて鹿車(小さな車)に乗り、すきを担がせた従者をつれ、「わしが死んだらすぐ埋めろ」と言っていたという(『晋書』劉伶伝)。◯畚鍤 (土を入れて運ぶ)もっこと(穴をほるための)すき。

 もう一首、五律に「如亭山人の春興」詩(『詩鈔』巻三)がある。これは、東陽が江戸からの帰途、届を出さずに無断で鎌倉遊覧した一件がとがめられ減給等の処分を受けていた時の作であろう。そのせいか、如亭の自由気ままな境涯を羨むような気分が感じられなくもない。

  行樂一瓢飲、春風御袷天  行楽一瓢の飲、春風御袷の天
  泥花紅處醉、藉艸緑中眠  花に泥して紅処に酔ひ、草をいて緑中に
               眠る
  片雨殘虹外、冥鴻落日邊  片雨残虹の外、冥鴻落日の辺
  獨往無何境、逍遥地上仙  ひとり無何の境に往き、逍遥す地上の仙
◯行楽 前漢の楊惲「孫会宗に報ずる書」(『文選』巻四十一)に「人生行楽せんのみ、富貴をつはいづれの時ぞ」と。◯一瓢飲 語は『論語』雍也篇に見える。◯御袷 綿なしの袷(あわせ)を着る。西晋・潘岳「秋興の賦」(『文選』巻十三)に「莞蒻をき、袷衣を御す」と。◯片雨残虹 〈片雨〉は、局地的に降る雨。明・何景明の五律「雨後、馬君卿をむかふ」詩(『大復集』巻十五)に「青山片雨過ぎ、白日残虹を抱く」と。◯冥鴻 空高く飛ぶ水鳥。◯無何境 何もないところ。『荘子』逍遥遊篇に説く理想境、「無何有郷」。◯逍遥地上仙 悠悠自適の境地を楽しみ俗世間で暮らす仙人。白居易の七律「龍潭寺り少林寺に至る、題して同遊の者に贈る」詩(『白氏文集』巻五十七)に「始めて知る鶴駕乗雲の外、別に逍遥たる地上の仙有るを」と。

 如亭はまったくの下戸で、自ら「余が量は蕉葉にえず」(『如亭山人遺藳』巻二)というように、ほとんど飲める口ではなかったものの、それでも『詩本草』(文政5年[1822]刊)に「酒は天地間の第一韵事にして、詩家缺く可からざるの政なり。吾が飲、器を尽くすこと能はず。花時雪天、しくは山秀水麗の境に逢へば、乃ち一盃をる」と述べるごとく、詩興を引き出す「釣詩鉤」(蘇軾の五古「洞庭春色」詩)としての酒の魅力についてはよくわかっていた詩人である。とはいえ、「一瓢の飲」を携え花間に泥酔し草を枕に眠る姿を詠じられては、あまりに実像と違いすぎ苦笑するよりほかなかったのではあるまいか。
 なお餘談ながら、如亭が文化5年(1808)冬、入洛早々、親交を結び「七友歌」を贈った小栗十洲は、若狭小浜の出で、東陽の在京時代の親友小栗明卿の弟である。このことは前稿で言及した。

※柏木如亭を初めて本格的に論じたのは今関天彭「柏木如亭」(「雅友」第49号、昭和35年10月。『江戸詩人評伝集1』に収録)。年譜として揖斐高編『柏木如亭集』(三樹書房、昭和56年)に「改訂柏木如亭年譜」が附され、詩の注釈に日野龍夫・揖斐高・水田紀久校注『蘐園録稿 如亭山人遺稾 梅墩詩鈔』(新日本古典文学大系64、岩波書店、平成9年)および入谷仙介『日本漢詩人選集8柏木如亭』(研文出版、平成11年)がある。また論考に揖斐高『遊人の抒情―柏木如亭』(岩波書店、平成12年)があり、如亭に関する参考文献を網羅されている。なお、『詩本草』は、揖斐氏による校注本が岩波文庫に収められている(平成18年刊)。


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