覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(3)
著者 二宮俊博
東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲
太田玩鷗(延享2年[1745]~文化元年[1804])
『日本詩選』の作者姓名には「賀象 甲賀氏、字は伯魏、玩鷗と号し、栄助と称す。京師の人。嘗て伊勢に遊び、業を南宮喬卿に受く。後に京師に還り、江邨綬兄弟に従遊す」と。安永4年(1775)版・天明2年版『平安人物志』にその名が記載され、『東山寿宴集』『平安風雅』にも見える。東陽より11歳上。伊勢で南宮大湫(字は喬卿。享保13年[1728]~安永七年[1778])に学んだといえば、医術を学び庄屋を務めた東陽の父、山田房勝(享保17年[1732]~寛政十一年[1799])も宝暦3年(1753)大湫が尾張から伊勢にやってきた際に同好の士と相談してこれを隣村の卯川原(鵜河原。現在の菰野町下村)に招き、その講義を聴いたことがある(『文集』巻六、「先考節翁居士行状」)。こうした縁も、玩鷗との間にはあった。
さて、玩鷗は天明三年に江村北海の序を冠した『玩?先生詠物百首』を上梓。当時、広幡家に仕え従六位下近江介であったが、当主の前豊が亡くなった後、天明四年頃にはこれを辞し、塾を開いて漢学を講義・講釈すること、すなわち舌耕によって生計を立てていたらしい。そうした素浪人の暮らしぶりが、やはり同様の生活で何とか身過ぎ世過ぎをしていた東陽の共感を呼んだのであろう、『詩鈔』巻一に七言古詩として分類されている「舌耕歌、賀伯魏に贈る」があり、次のように詠じている。
吁嗟先生何其苦 吁嗟 先生何ぞ其れ苦しむ
蛟龍卻為魚黿侮 蛟龍却って魚黿の為に侮らる
結髪漫期稽古力 結髪 漫に期す稽古の力
功名直可唾手致」 功名 直に手に唾して致す可し」
螢窓雪案惜分陰 螢窓雪案 分陰を惜しみ
蓬蒿没人深閉戸 蓬蒿人を没して深く戸を閉づ
業成經學最紛綸 業成り経学最も紛綸
掞天才藻亦絶倫」 天を掞かす才藻も亦た絶倫」
勤哉吾道苦心務 勤むる哉吾が道 苦心務む
三十已見二毛新 三十にして已に見る二毛の新たなるを
千金虚費屠龍技 千金 虚しく費やす屠龍の技
逢掖終自誤斯身」 逢掖 終に自ら斯の身を誤る」
家徒四壁何所有 家は徒だ四壁 何の有する所ぞ
傫傫宛如喪家狗 儽儽として宛も喪家の狗の如し
更無負郭二頃田 更に負郭二頃の田無く
設帳舌耕聊餬口」 帳を設け舌耕して聊か口に餬す」
皐比坐盡朝又昏 皐比坐し尽くす朝又た昏
諄諄誨人良亦煩 諄諄として人を誨ふ良に亦た煩はし
雜沓烏集戸屨満 雑沓烏集し戸に屨満つ
輕薄動輒不酬恩」 軽薄動もすれば輒ち恩に酬いず」
家計况是桂玉地 家計况んや是れ桂玉の地
長安物貴居不易 長安物貴く居ること易からず
豈知天下大先生 豈に知らんや天下の大先生
進退維谷憑誰寄」 進退維れ谷まり誰に憑りて寄せん」
君不見自古才高反轗軻 君見ずや古自り才高きは反って轗軻
何物智力無奈何 何物ぞ智力 奈何するとも無く
郢曲由來和歌少 郢曲 由来歌に和するもの少なし
齊竽自是濫吹多」 斉竽 自づから是れ濫吹多し」
世事憒憒何乃然 世事の憒憒たる何ぞ乃ち然る
人生窮達命在天 人生の窮達 命は天に在り
行藏順時善自愛 行蔵 時に順ひ善く自愛せん
優游卒歳舊青氊」 優游して歳を卒へん旧青氈」
◯蛟龍 優れた人物の喩え。その反対が〈魚黿〉で、つまらぬ輩。〈黿〉は、大スッポン。◯結髪 成年に達すること。『薈瓉録』巻下に「結髪」の条あり、それには「其少小時ヲ云フナリ」と。◯稽古力 学問の力。〈稽古〉は、古のことを調べ考えること(『尚書』堯典)。後漢の桓栄が太子少傅となった時、門下生を集め、下賜された品をならべて、「今日の蒙る所、稽古の力なり」といったという(『後漢書』桓栄伝)。『故事必読成語考』巻下、文事には「文に因って銭を得る、乃ち稽古の力と曰ふ」と。◯唾手致 容易にできる意。*〈致〉字だと去声寘韻で、上声麌韻の〈苦〉〈侮〉と韻を踏まない。ここは同韻の(取〉字にすべきところである。
◯螢窓雪案 いわゆる蛍の光、窓の雪で勉学に励むこと。◯分陰 わずかな時間。寸暇。前出「明卿が夏夕読書に和す」詩の語釈参照。◯蓬蒿没人 庭が荒れ果て、人の背丈よりも高く伸びたヨモギの類が生い茂る。『蒙求』巻下の標題に「仲蔚蓬蒿」。◯紛綸 学問が広くて深いこと。『後漢書』井丹伝に井丹(字は大春)は詩・書・易・礼・春秋の五経に通じていたので、都で「五経紛綸井大春」との評判が立ったという。『蒙求』巻上の標題に「井春五経」。◯掞天才藻 輝かしい文才。西晋・左思「蜀都の賦」(『文選』巻四)に「藻を擒り天庭を掞かす」と。
◯吾道 孔子の教え。『論語』里仁篇に「吾が道は一以て之を貫く」と。◯三十云々 西晋の潘岳は三十二歳で白髪が生えたという。「秋興の賦の序」(『文選』巻十三)に「余、春秋三十有二、始めて二毛を見る」と。〈二毛〉は、黒い毛と白髪。なお、東陽30歳といえば、天明6年にあたる。七律「興を遣る」(『詩鈔』巻四)に「未だ年三十にならずして鬢蒼蒼たり」と。〈蒼蒼〉は、白髪まじりのさま。◯屠龍技 龍を殺す技。実際には使い道がないことから、役立たずの学問。『荘子』列禦寇篇に「朱泙漫、龍を屠ふることを支離益に学ぶ。千金の家を単す。三年にして技成る。而して其の巧を用ふる所無し」と。◯逢掖 儒者の着る服(『礼記』儒行篇)。◯誤斯身 杜甫の五古「韋左丞に贈り奉る」詩(『古文真宝』前集)に「儒冠多く身を誤る」と。
◯家徒四壁 家財道具が一つもないこと。前漢の司馬相如の故事。『書言故事』巻七、貧乏類に、この語を挙げる。◯儽儽 疲れはてたさま。◯喪家狗 宿なし犬。『史記』孔子世家に鄭国の人が弟子とはぐれて城郭の東門にひとり立つ孔子を評して「纍纍然として喪家の狗の若し」と。東陽の『薈瓉録』巻下に『孔子家語』困誓篇を挙げて「疲レテ痩セ衰ヘタル状ヲ浪人ノ龍鍾タル様ニ比シ、儽然如喪家狗ト云ヘルナリ」と。◯負郭二頃田 戦国の蘇秦が洛陽近くにそこそこの田地(負郭二頃田)を有していたら、六国の宰相の印を佩びることもなかったろうにと言った故事(『史記』蘇秦伝)。『薈瓉録』巻上、「負郭」の条に「負郭トハ、郭ノ背ナル処ナリ。スベテ城下近辺ノ田ハ何方ニテモ膏腴ナリ。且何物ヲ種テモ近ク売テ善價ヲ得ベシ」と。◯設帳 私塾を開く。◯餬口 (粥を啜る意から)暮らしを立てる。『故事必読成語考』巻十、師生に「教館を講するに口に餬すと曰ひ、又た舌耕と曰ふ」と。
◯皐比 虎の皮。敷物に用いる(『左氏伝』荘公十年)。転じて講義の席。◯諄諄 懇切丁寧に教えるさま。『詩経』大雅「抑」に「爾に誨ふる詢詢」と。◯誨人 『論語』述而篇に「人を誨へて倦まず」と。◯烏集 烏合と同じ。『漢書』谷永伝に「烏集雑会」の語がある。◯戸屨満 人が多く集まること。『荘子』列禦寇篇に「戸外の屨満てり矣」と。
◯桂玉地 京都をいう。『書言故事』巻十一、都邑類に「桂玉之地」を挙げ、『戦国策』楚策に蘇秦が威王に説いた言葉のなかに「食は玉より貴く、薪は桂より貴し」云々とあるのを引く。◯長安云々 中唐の白居易が初めて首都長安に出てきた時、先輩詩人の顧況が「長安は百物貴く、居ること大いに易からず」とからかったという(『唐摭言』巻七、『唐才子伝』巻六)。◯進退維谷 にっちもさっちもいかなくなる。『詩経』大雅「桑柔」に見える語。
◯君不見 楽府や歌行体に用られる、相手に呼びかけ同意を求める表現。◯轗軻 不遇なさま。双声語。◯郢曲 高雅な歌曲。戦国楚・宋玉の「楚王の問に対す」(『文選』巻四十五)に、国都の郢で、下里巴人という通俗な曲を歌うとそれに和する者が数千人いたが、高雅な曲になるとそれが減り、陽春白雪の曲だと数十人しかいなかったという。◯斉竽・濫吹 無能な者が才能あるごとく見せかけること。戦国斉の宣王は三百人編成で竽(笙の一種)を吹かせ、ある男ができもしないのにそれに加わり禄にありついたが、次の湣王が一人一人の演奏を好むと、逃げ出した(『韓非子』内儲説上)。
◯憒憒 乱れるさま。◯窮達 困窮と栄達。後漢の班彪「王命論」(『文選』巻五十二)に「窮達命有り、吉凶人に由る」と。◯命在天 運命は天にある。『尚書』西伯戡黎に「我が生、命天に在る有らざらんや」と。◯行蔵 世に出ることと隠れること。出処進退。『論語』述而篇に「之を用ふれば則ち行なひ、之を舎つれば則ち蔵る」と。
◯優游卒歳 のんびりと歳月を過ごす(『晋書』山簡伝)。なお、『左氏伝』襄公二十一年に叔向の語として「詩に曰く、優なる哉游なる哉、聊か以て歳を卒へんと」と。西晋の杜預は『詩経』小雅の句とするが、それには見えない。◯旧青氈 杜甫の五古「任城の許主簿と与に南池に遊ぶ」詩に「晨朝白露降る、遥かに憶ふ旧青氈」と見え、東晋の王献之が盗賊に家財道具一切ばかりか青氈まで奪われようとしたとき、それだけは勘弁してくれ「我が家の旧物、特に之を置く可し」といった故事(『晋書』王献之伝)を踏まえる。吉川幸次郎『杜甫詩注』第二冊(筑摩書房、昭和54年)に「ふるさとの家の古だたみ」と訳す。後年の伊賀上野での作「秋感二首」其一(『詩鈔』巻五)にも「吾が家の旧物独り青氈」と。
寸暇を惜しんでひたすら勉学に励んでいた若い頃は、儒者として功名を立てるなど容易だと思っていたが、今や三十、苦労のため白髪も交じり、これといった家産もないまま、塾を開いてしがない講師暮らし。京洛の地は物価が高く、生活も楽ではない、と訴えている。自らを〈先生〉〈天下の大先生〉と称するあたり多分に諧謔味を帯びた表現で、まだ精神的余裕のあるところを見せてはいるものの、舌耕生活の苦しさは、同様の暮らしをしている玩鷗がいちばんよく理解共感してくれるに違いない。さればこそ、このような歌を贈ったのであろう。あまりにも講師稼業が忙し過ぎると、心静かに硯に向かい筆を執って詩文を作る暇もない。これでは、文雅風流を敵視し、しかつめらしく道学を説く偏狭な老いぼれ儒者とまるで変わらないと、自嘲気味に詠じたこともあった。
七絶「講餘戯れに成る」(『詩鈔』巻七)
廢來筆硯自生塵 筆硯を廃し来たって自ら塵を生ず
日夜書堂挾筴人 日夜書堂 挾筴の人
面貌可憎皐比座 面貌憎む可し皐比の座
儼然道學老頭巾 儼然たる道学の老頭巾
◯書堂 講義室。◯挾筴 書籍をたばさむ。筴は策と同じ。もとは竹簡の意。『書言故事』巻三、学問類に挙げる。◯面貌可憎 『李卓吾批点世説新語補』言語篇に、北宋・黄山谷(庭堅)の語として「士大夫三日書を読まざれば、則ち理義胸中に交はらず、便ち面貌憎む可く、語言味無きを覚ゆ」を挙げる。〈面貌〉云々は、もとは中唐の韓愈「窮を送る文」(『韓昌黎集』巻三十六)に見える表現。◯皐比座 講義の席。◯儼然 いかめしいさま。◯道学老頭巾 山崎闇斎派の道学者を指していう。
なお、後年の話になるが、北海門下で『日本詩史』の序を書いた柚木綿山(名は太玄、字は仲素。天明八年没)の甥にあたる柚木南畝(字は孟穀)が、京で開塾したがっていると知って、東陽はこれを思いとどまるよう手紙を書いている。それには講師稼業のしんどさばかりでなく、京都での暮らしにくさ、具体的には都人の巧言令色なる一面やしみったれぶりを説き、自身の体験から発した深切な忠告をしている(『文集』巻十、「柚木南畝に与ふ」)【資料編③】。
なお、この「舌耕歌」は、『詩鈔』では天明六年作の「夜蓮華王院の試射を観る歌」の後に置かれているから、同年以後の作であろう。すると詩中にいう〈三十〉は実際の数字と見てよさそうである。
さらに同じような内容の作は他にもあり、七絶「戯れに伯魏に答ふ」詩(『詩鈔』巻七)には、次のように云う。
結髪勤渠便抱經 結髪 勤渠して便ち経を抱く
業成逢掖竟伶俜 業成なるも逢掖竟に伶俜
還應菜色充溝壑 還って応に菜色 溝壑に充つべし
誰意詩書恁不靈 誰か意はん詩書恁く不霊なるを
◯結髪 成年に達すること。「舌耕歌」に既出。◯勤渠 つとめる意。双声語。六如の『葛原詩話』巻一に「勤渠ノ義、東涯ノ蓋簪録ニ辨ズ」とした後、詩語に用いた例として南宋・陸游の例を二つ挙げ、「イズレモ務ノ意ナリ」と説く。◯抱経 〈経〉は、儒教の経典。◯逢掖 儒者の着る服。「舌耕歌」に既出。◯伶俜 うらぶれるさま。畳韻語。◯菜色 飢えた顔色。『薈瓉録』巻上「菜色」の条参照。◯溝壑 西晋・左思「詠史」詩八首其七(『文選』巻二十一)に「其の未だ時の遇はざるに当たりては、憂ひは溝壑に填まるに在り」と。◯恁 俗語で「カク」と訓じる。釈大典の『詩語解』『文語解』に見える。◯不霊 霊験がない、効き目がないこと。
学問はしたけれど、その甲斐もなく、どこまで続く泥濘ぞ、と泣き言を洩らしている。
京を離れて後、仕官がかなった伊賀上野での作に七律「懐を伯魏・公績に寄す」詩(『詩鈔』巻四)があって、後述の清田龍川(公績)と併せて二人に対して、日頃周囲の同僚には口にできない思いの丈を吐露したこともあった。
壯歳文華舊社盟 壮歳の文華 旧社盟
共將頭角競先鳴 共に頭角を将て先鳴を競ふ
獨憐寒霧投山國 独り憐れむ寒霧 山国に投じ
長恨春風別帝京 長く恨む春風 帝京に別るるを
花月芳樽一場夢 花月芳樽 一場の夢
萍蓬老淚各天情 萍蓬老涙 各天の情
皐比自媿頭巾氣 皐比自ら媿づ頭巾の気
辜負洛陽才子名 辜負す洛陽才子の名
◯壮歳 『礼記』曲礼上に「二十を弱と曰ひ、冠す。三十を壮と曰ひ、室有り」と。◯文華 文才。◯旧社盟 前掲「明卿を哭す二首」其二の語釈参照。◯頭角 中唐・韓愈「柳子厚墓誌銘」(『韓昌黎集』巻三十二)に「嶄然頭角を見《あらは》す」と。『薈瓉録』巻上「見頭角」の条に「頭角トハ頭形角状(アタマツキツノフリ)ノ稜稜ト竦エテ、リリシク際ダチタルコトナリ」とし、用例を挙げて「年少ノ才ヲ称ス、才気面貌ニ見ハレテ際ダチテ抜群ナル勢ナリ」という。◯先鳴 敵の城に先登して大呼すること。一番乗り。古くは『左氏伝』襄公21年に見える語。◯萍蓬 浮草(萍)のように漂いムカシヨモギ(蓬)のように風に吹かれてさすらう。◯一場夢 はかない春の夜の夢。◯各天情 離ればなれでいることによって抱く感情。「古詩十九首」其一(『文選』巻二十九)に「相去ること万里餘、各おの天の一涯に在り」と。◯皐比 講席。◯頭巾気 こちたき道学者の臭気。『薈瓉録』巻上、「頭巾気」の条に「道学家ヲ頭巾気ト言ハ俗ニシャラクサイト言フコトナリ、モノモノシゲニ子細ラシキヲ謂フナリ」云々と説くのを参照。◯辜負 そむく。◯洛陽才子 西晋・潘岳「西征の賦」(『文選』巻十)に前漢の賈誼について「賈生は洛陽の才子」と。
京都にいた時は、頭角をあらわし文才ある新進だと目されていたものだが、今ではしかつめらしい教師稼業。あれほど嫌っていた「頭巾の気」に染まりそうで、我ながら全くいやになる。離群索居の身で不如意な現状に対する苛立ちが自嘲の度合いを深めてゆくのである。
さらに伊賀上野での作に七絶「京師の旧社を懐ひ、公績・伯魏の諸友に寄す六首」(『詩鈔』巻八)があって、春夏秋冬それぞれに愉しく過ごした詩社の集まりを懐かしむとともに、やるせない心情を訴えているが、玩鷗に対しては七律「遥かに伯魏が感遇の作に同ず二首」(『詩鈔』巻五)を寄せている。
窮鬼胡為到處隨 窮鬼胡為ぞ到る処随ふ
賢才多見不逢時 賢才多く見る 時に逢はざるを
歎餘欲擲班生筆 歎餘 擲たんと欲す班生の筆
老去猶埀董子帷 老い去きて猶ほ垂る董子の帷
伏櫪安堪覉驥足 櫪に伏して安んぞ驥足を羈するに堪えんや
入宮無奈妬蛾眉 宮に入って蛾眉を妬むを奈ともする無し
倦游吾亦龍鍾甚 倦游 吾れも亦た龍鍾甚だし
同病相憐更自悲 同病相憐れみ更に自ら悲しむ
*覉は羈の誤字。
◯感遇 自らの境遇に対する感慨を詠じた詩。初唐の陳子昂に五古「感遇三十八首」、張九齢に「感遇十二首」がある。◯窮鬼 貧乏神、疫病神。韓愈「窮を送る文」(『韓昌黎集』巻三十六)に見え、智窮・学窮・文窮・命窮・交窮の五鬼を挙げる。◯擲班生筆 〈班生〉は、後漢の班超。『書言故事』巻六、志気類に「投筆」の語を挙げ、「班超嘗て筆を投げ、嘆じて曰く、大丈夫当に功を異域に立て、以て侯に封ぜらるるを取るべし。安んぞ能く筆硯を事とせんや」と。◯垂董子帷 〈董子〉は、前漢の儒者、董仲舒。『蒙求』巻中の標題に「董生下帷」がある。○伏櫪 馬が櫪(厩舎の飼馬桶)に頭を垂れる。三国魏・曹操「歩出夏門行」に「老驥櫪に伏すも、志は千里に在り」と。◯羈 繋ぐ。束縛。◯驥足 駿馬の脚。優れた才能の喩え。◯蛾眉 美しい女性の眉。美女をいう。後宮に入れば周囲から嫉妬される。仕官の身とて同じこと。『楚辞』離騒に「衆女余の蛾眉を嫉み、謡諑して余以て善く淫せりと謂ふ」と。◯倦游 他鄕での仕官にあきあきする。西晋・陸機「長安有狭斜行」(『文選』巻二十六)に「本と倦遊の客」と。◯龍鍾 病み疲れるさま。畳韻語。◯同病相憐 同じような不幸な目にあった者同士が互いに同情する。『呉越春秋』闔閭内伝に「同病相憐れみ、同憂相救ふ」と見える。
其二
老來豪氣盡消磨 老来 豪気尽く消磨し
堪嘆此生愁裡過 嘆くに堪ゆ此の生 愁裡に過ぐるを
人事變遷驚夢幻 人事の変遷 夢幻に驚き
世途艱險困風波 世途の艱険 風波に困ず
壯年袛道青雲志 壮年祇だ道ふ青雲の志
長夜空悲白石歌 長夜空しく悲しむ白石の歌
誰念為儒身自誤 誰か念はん儒と為って身自ら誤るを
悠悠踪跡竟如何 悠悠たる踪跡 竟に如何
◯豪気 他に屈しない盛んな意気。元・趙孟頫の七律「秋に驚く」(『松雪斎文集』巻四)に「向来豪気消磨して尽き、空しく年光に対して浪自に驚く」と。◯夢幻 『金剛般若経』に「一切有為の法は、夢幻泡影の如し」と。◯青雲志 栄達せんとする志。初唐・張九齢の五絶「鏡に照らして白髪を見る」(『唐詩選』巻六)に「宿昔青雲の志、蹉跎す白髪の年」と。◯白石歌 時運に恵まれない隠者の歌。春秋・寧戚の「飯牛歌」に「南山研たり、白石爛たり。生きて堯と舜の禅りに逢はず(中略)昏従り牛を飯いて夜に薄る、長夜漫漫として何れの時にか旦けん」とあるのに拠る。◯身自誤 「舌耕歌」の「逢掖終に斯の身を誤る」と同じ意味。その語釈参照。◯悠悠 とりとめもないさま。◯踪跡 足跡。
最後にもう一首、『詩鈔』巻五の七律「賀伯魏に答ふ」を紹介しておく。
清福元知造物慳 清福 元と知る造物の慳しむを
塵泥➊➋宦途間 塵泥 齷齪す宦途の間
詩稱作者聊衝口 詩は作者と称し聊か口を衝き
官列儒曹且抗顔 官は儒曹に列し且く顔を抗ぐ
與世迂疎多忤俗 世と迂疎して多く俗に忤ひ
及身彊健好登山 身の強健なるに及んで好く山に登る
老來豪氣銷磨盡 老来 豪気銷磨し尽き
不似當年酒膽豩 似ず当年酒膽の豩なるに
* ➊➋は齷齪の誤字。
◯清福 俗事に煩わされず閑雅な時間を過ごす至福の時。それは〈造物〉、この世界を造った自然の神様が出し惜しみして、容易には与えてくれぬもの。◯齷齪 こせこせする。畳韻語。◯宦途 官界。役所勤め。◯抗顔 厳めしい顔つきをして教えること。中唐・柳宗元「韋中立に答へて師道を論ずる書」(『柳河東集』巻三十四)に「顔を抗げて師と為る」と。◯迂疎 世事にうとく実務に適しない。◯豪気 前詩の語釈参照。◯酒膽豩 明・陳耀文撰『天中記』巻四十四に『漢皐詩話』を引いて「酒膽豩 豩字、(反切による字音表示で)呼関の切(クァン)。当に山字の韻に在るべし。劉夢得に盃前膽不豩、趙勰に呑舡酒膽豩の句有り。礼部韻に収めず、唐韻も亦た無し」と。なお、同様の記事は南宋・姚寛の『西渓叢語』巻上にも見える。〈豩〉は、怯まぬ意。
「今では豪気がすっかり消え失せ、かつては酒を前にして怯むことなく幾らでも飲んだのに、酒量がめっきり落ちました。」
玩鷗は、寛政6年(1794)頃、江戸で淀藩主稲葉正諶に招かれ、藩儒となったというが、上野でのこれら東陽の作は、その頃のものであろうか。「同病相憐れむ」という言葉が同じ仕官の身の上、似たような境遇を物語っているように思われる。
※太田玩鷗については、堀川貴司氏に「太田玩鷗の詠物詩―十八世紀後半京都詩壇一斑―」(「国語と国文学」平成3年7月号)、「太田玩鷗伝資料片々」(「太平詩文」第6号、平成9年)がある。また停雲会同人(青木隆・杉下元明・杉田昌彦・鈴木健一・日原傳・堀川貴司・堀口育男)による『玩鷗先生詠物百首注解』(太平書屋、平成3年)も参照。
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