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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(6)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲


大江玄圃(享保14年[1729]~寛政6年[1794])

 『日本詩選』の姓名録に「大江資衡 字は稚圭、玄圃と号す。本姓某、久川靭負と称す、業を龍草廬に受く。京師に講説す」と。『東山寿宴集』にも見え、『平安風雅』には「大江資衡 字は穉圭、号は玄圃。久川靭負」。東陽より27歳上。伯祺(宝暦7年[1757]~天明8年[1788])は、その長子で、藍田と号した。『日本詩選続編』に「大江維翰 字は伯祺、久川玄蕃と称す。玄圃の長子」と。『東山寿宴集』『平安風雅』にも見える。伯祺は東陽の1歳下。
 「春日、大江伯祺に寄す」(『詩鈔』巻七)があって、次のように詠じている。

  烟霞佳興阿誰携  烟霞の佳興 阿誰携ふ
  芳艸池塘緑正齊  芳草の池塘 緑まさひと
  澹蕩東風春雨歇  澹蕩たんとうたる東風 春雨
  垂楊橋下鵓鳩啼  垂楊橋下 鵓鳩ぼつきう啼く
◯烟霞 山水の春景色。◯阿誰 俗語で、だれの意。〈阿〉は、接頭語。◯池塘 池のつつみ。南朝宋・謝霊運「池上の楼に登る」詩(『文選』巻二十二)に「池塘春草生じ、園柳鳴禽変ず」と。◯澹蕩 ゆったりとしてのどかなさま。駘蕩。双声語。李白の五古「相逢行」に「春風まさに澹蕩、暮雨来ること何ぞ遅き」と。◯垂楊 しだれ柳。◯鵓鳩 鳩の一種。曇れば連れを追い払い、晴れると呼び戻すために啼くという。

 また『詩鈔』巻四には七律「大江伯祺の江戸に宦遊するを送り、兼ねて大田公幹に寄す」詩、巻六には五絶「大江伯祺江戸に赴き過ぎりて草堂を訪ふ」詩があるが、ここでは前者を挙げておく。友人との別離や青春の放縦など、高揚した気分の非日常的世界を詠出する際には、唐詩それも『唐詩選』に選ばれるような感情の振幅の大きな表現がうまくあてはまるようだ。

  才子高名振洛陽  才子の高名 洛陽を振ふ
  風流十載結交場  風流十載 交はりを結びし場
  鉛刀一割猶能斷  鉛刀一割 ほ能く断つも
  鐡擿三摧豈可當  鉄擿三摧 に当たる可けんや
  世上升沉皆有數  世上の升沈 皆数有り
  人間離會自無常  人間じんかんの離会 自ら常無し
  想看燕市悲歌士  想い看よ燕市悲歌の士
  慷慨相逢醉且狂  慷慨相逢へば酔ひつ狂するを
◯鉛刀一割 鉛製の刀でも一度は用いることができる意(『後漢書』班超伝)。鈍才の喩え。◯鉄擿 竹簡に記録する際に用いた鉄筆。晋・葛洪『抱朴子』祛惑篇に孔子が晩年に易を好んで「韋編三たび絶え、鐡擿三たび折る」と。ここでは、伯祺の猛勉強ぶりをいう。◯数 命数。命運。◯燕市 戦国・燕の市場。太子丹に招かれた荊軻が高漸離らと毎日酒を飲み、高漸離が筑(琴の一種)を撃ち、荊軻がそれに合わせて歌ったという(『史記』刺客列伝)。中唐・李渉の七律「魏簡能の東遊するを送る」に「燕市悲歌又た君を送る、目は征雁に従って寒雲を過ぐ」と。◯悲歌士 中唐・銭起の五絶「侠者に逢ふ」詩(『唐詩選』巻六)に「燕趙悲歌の士」と。韓愈の「董邵南を送るの序」(『韓昌黎集』巻二十)に「燕趙古より感慨悲歌の士多しと称す」と。
 
 詩題に見える大田元貞は、大田錦城(明和2年[1765]~文政8年[1825])。加賀大聖寺の人。かつて京で皆川淇園の門をたたいたことがあり、那波魯堂・柴野栗山にも教えを乞うたが、その学問にあきたらず江戸に出ていた。東陽はいう、「伯祺よ、この十年つきあってくれてありがとう。君の高名は都に鳴り響いており、勉強ぶりではかないっこないが、この世での浮き沈みには決まった定めがあり、人の出会いと別れとは常なきもの。それを思えば、悲歌慷慨の士が大いに飲みハメを外して騒ぐのもわかろうというものさ」。この時、伯祺は天明の大火で家産を失い、江戸で仕官の口を見つけようとしていたのである。ところが道中で流行性感冒に罹り、江戸に入って二日で亡くなってしまう。寛政4年(1792)刊の『藍田遺稿』に附された「藍田先生墓銘」に云う、「戊申の災に罹り、家貲すべく。ここに於いて先生貧の為に禄仕を乞ひ、既にして東都にく。たまたま羈途に就き、疫邪に感し、疾をつとめて東都に入る。居ること2日にして歿す。天明8年5月8日なり。年32」と。
 その父、玄圃は東陽が津藩に出仕することになった時に、祝意を述べてくれた。伯祺と年がほとんど変わらぬ東陽に息子の姿を見る思いがしたのであろうか。それに答えたのが、七律「和して京師の大江稚圭の予が筮仕するを賀して贈らるるに謝し、兼ねて岡崎師古・香山吉甫に寄す」(『詩鈔』巻四)。

  雲樹相望嘆別離  雲樹相望んで別離を嘆ず
  優游幾載在京師  優游幾載か京師に在る
  聊充薄宦從容職  いささか充てらる薄宦從容の職
  尚念窮途落魄時  ほ念ふ窮途落魄の時
  敢展經綸參政事  敢へて経綸をべて政事に参ぜんや
  徒將句讀授童兒  いたづらに句読をもつて童児に授く
  山城寂寞論文友  山城寂寞たり文を論ずるの友
  同社休慳寄近詩  同社 近詩を寄せるをしむをめよ
◯雲樹 杜甫の「春日李白を憶ふ」に「渭北春天の樹、江東日暮の雲」。◯優游 ゆったりと過ごす。古くは『詩経』大雅「巻阿」に見える語。◯薄宦 低い位階の軽微な勤め。◯従容職 のんびりとした閑職。〈従容〉は、畳韻語。◯窮途落魄 この表現は仕官後休暇を取って帰省した時の作、七古「解褐後、謁仮(休暇申請)して帰省す、途に在りて詠を成す」詩(『詩鈔』巻一)にも「窮途落魄十年来、艱難計尽き志摧けんと欲す」とある。〈落魄〉は、うらぶれて身を寄せるところもないありさま。畳韻語。◯経綸 天下国家を治める計略(『中庸』)。◯句読 韓愈の「師の説」(『韓昌黎集』巻十二、『古文真宝』後集)に「彼の童子の師は、之に書を授けて其の句読を習はす者なり。吾が所謂其の道を伝へ其の惑ひを解く者に非ず」と。◯山城 伊賀上野をさす。◯論文友 杜甫の五律「高式顔に贈る」詩に「文を論ずる友を失ひてより、空しく知る売酒の壚」と

 太田玩鷗に贈った「舌耕歌」にも見られるごとく、京都での生活が閑雅風流に終始したはずはないのだが、講師稼業の苦しさを含めて、今にしてこれを思えば輝かしい時間であったことには間違いない。たしかに京を離れ先が見えず行き詰まっていた時期のことを思えば、幸にも仕官できたのをとりあえずよしとしなければならないのだろうが、現状はといえば、大した職務でもなく安月給で子供相手の田舎教師。文学を語り合う友もおらず孤立している。最後は「かつての同人の諸先輩方、近作をぜひとも見せてください」と結ぶ。
 ここに名の挙がっている岡崎師古は、廬門のこと。『日本詩選』の作者姓名に「平信好 字は師古。廬門と号す。岡崎氏。平太と称す。龍草廬の門人。京師に授徒す」と。『東山寿宴集』にも見える。東陽より22歳上。その編になる『平安風雅』に東陽の作が収められたことについては、前に述べた。ただし、ここで一つ気になる点がある。というのは、諸書に拠れば廬門は天明7年3月26日に病没しており、この詩が作られた時には既にこの世の人ではなかったはずなのに、その名を挙げていることである。東陽は6年の冬に一時帰省し7年の初夏には京にもどっているから(『文集』巻七、「遊春巻に題す」)、その逝去はちょうど京を留守にしていた時期にあたるけれども、それからずっと廬門の消息を知らずにいたとは考えにくいのだが、やはり知らずにいたのだろうか。この間の事情については不明。
 香山吉甫は、香山適園(寛延2年[1749]~寛政7年[1795])のことで、北海門下。『日本詩選』の作者姓名には「香山彰 字は吉甫。文内と称す。京師の人。江邨綬の門人」と。『東山寿宴集』にも見え、『平安風雅』には「字は吉甫。適園と号し、又た三楽と号す。大学と称す」と。東陽より7歳上で、『詩鈔』巻三に五言排律「香山吉甫の漫興に和す」がある。それによれば、名利に囚われず酒好きで「烟霞の癖」を有した人物であったようだ。その家は綾小路烏丸西入町にあったが(天明二年版『平安人物志』)、東山に別荘を持っていたようで、七絶「東山にて雨にひ東隴菴を過ぎる」詩(『詩鈔』巻七)があり、その自注に「香山吉甫の別業」という。本宅か別荘か不明だが、適園を訪ねた作もある(『詩鈔』巻七、七絶「適園を訪ねて主人のたまたま出づるに遇ふ」)。この適園は玄圃や師古と詩社を結び、東陽もそこに顔を出していたらしい。

永田観鵞(元文3年[1738]~寛政4年[1792])

 その名は明和版の『平安人物志』から見えており、『日本詩選』の作者姓名には「永田忠原 字は俊平。東皐と号す。京師の人。初め服伯和に師事す。伯和没して業を江邨綬に受く。詩思清雅、最も臨池を以て称せらる」と。『東山寿宴集』『平安風雅』にも見える。服伯和は、服部蘇門(享保9年[1724]~明和6年[1769])。ちなみに、永田観鵞と同年生まれで、やはり当初、服部蘇門に師事し、その没後、北海に学んだ人物に三河出身の薩埵元雄(寛政8年[1796]没)がおり、東陽にはこの人に贈った詩も一首あるが、ここでは措く。観鵞は東陽の18歳上。
 天明8年、50を迎えた観鵞に寿詞を贈っている(『詩鈔』巻四、「永田俊平知命壽詞」)。

  結髪斯文惜寸陰  結髪して斯文 寸陰を惜しみ
  看君未有二毛侵  君を看るに未だ二毛の侵すこと有らず
  芝蘭香滿詩書室  芝蘭 香満つ詩書の室
  桃李花開翰墨林  桃李 花開く翰墨の林
  天下達尊稽古力  天下の達尊は稽古の力
  人間至樂育英心  人間じんかんの至楽は育英の心
  風流大筆臨池技  風流大筆 臨池の技
  五朶雲飄絶古今  五朶雲ひるがへり古今に絶す
◯斯文 この学問の意(『論語』子罕篇)。儒学をいう。◯未有二毛侵 白髪がないこと。前出「舌耕歌」の語釈参照。◯芝蘭 〈芝〉も〈蘭〉も香草の名。『孔子家語』六本篇に「善人と居れば、芝蘭の室に入るが如し。久しくして其の香を聞かず、即ち之と化す」と。善人による感化をいう。◯桃李 優秀な門下生の喩え。ちなみに、六如の「永観鵞を哭す十二韻」(『六如庵詩鈔』二編巻四)の自注に拠れば「晩年名は海内に聞こえ、門人は千を以て数ふ」という盛況ぶりであった。◯天下達尊 この世の中でこの上なく尊ばれるもの。『孟子』公孫丑下に「天下に達尊三有り。爵一、よはひ一、徳一」と。◯稽古力 前出「舌耕歌」の語釈参照。◯人間至楽 この世での最高の楽しみ。◯育英 英才を教育する。◯臨池 後漢の張芝が池に臨んで書を学び、筆や硯を洗うためその水を真っ黒にした故事(『晋書』衛恒伝)から習字、書道をいう。

この詩には、以下のような自注が附せられている。「俊平、書は李北海に学び、かつて筆力を試みて麟鳳の二大字を書す。画くこと広さ数尺、径二丈五尺、遒勁殊勝、余、これを稽古餘筆に詳かにす。五朶雲は、俊平創る所の筆名」と。李北海は、後漢の李邕。篆隷を善くした。観鵞が麟鳳の二文字を楷書で大筆したのは、当時有名な話柄で、森銑三「永田観鵞」に拠れば、安永3年(1774)のことであった。東陽の『稽古餘筆』は、現在伝わっていない。ちなみに、〈五朶雲〉の名は、『酉陽雑俎』続集巻三に唐の韋陟の書が五朶雲(五色の雲)のようであった旨記した話を載せており、それから取ったのであろう。
 なお、東陽には「永田周介遺金を拾ふの事を記す」(『文集』巻八)があり、森氏の文章にも紹介されている。これはまだ観鵞の暮らし向きが豊かでなかった頃の話である。―永田俊平は儒を業とし、家は貧しかった。子の周介が8歳の時、桶屋の子と北野天満に遊びに行って、方金(小粒金)一枚拾ったものの、それが何やらわからない。桶屋の子から金子だから大事にしまっておけよと言われたが、その子が玩具(原文は、轉輪戯糾索五綵者)を九文で買うと、それが欲しくてたまらなくなり、拾った方金と交換し、家にもどってからも嬉々として遊んでいた。しばらくすると桶屋の妻が申し訳なさそうに方金を返しにきたが、周介の母は受け取らない。今度は桶屋が来て返そうとすると俊平が断る。困った桶屋は町役に相談したところ、町役はその清廉ぶりに感嘆し、その金を等分することでまるくおさまったという話である。それに東陽の評が附せられており、「嗟乎ああ桶匠夫妻、生来半行の書も読まず、礼節義理、いづくにか斯れを取らん(どこからこうした徳を身につけたのだろう)。けだし俊平人と為り朴実、性、名利に恬たり、いにしへの君子の風有り。隣里の徳に化するなり。周介は即ち伯行の小字、はなはだ乃翁(その父)にて、家声を墜さず」という。〈斯焉取斯〉は、『論語』公冶長篇に見える言い方。その周介こと永田西河(字は伯行。宝暦11年[1761]~
文化6年[1809])については、七絶「春日永田伯行に贈る」詩(『詩鈔』巻七)がある。なお、先に挙げた東陽の評には続けて「余かつて此の事を質す。伯行時に成童、笑いて曰く、幼にして了了たらざる(ぼんやりしている)ことかくごとし。庶幾こひねがはくは長じて了了たらざるを免れん」とあり、成童(15歳)になった西河にその真偽を確かめた旨記しているが、そうすると東陽が20歳の時、すなわち安永5年には京に在住し、観鵞父子とはかなり親しかったことになる。
 さて、この永田観鵞も東陽が京都を発って帰郷する際には太田玩鷗とともに送別の宴を催してくれた。『詩鈔』巻八に七絶「俊平・伯魏に留別す」詩がある。

  梧窓淅瀝雨聲寒  梧窓淅瀝 雨声寒し
  共惜風流十載歡  共に惜しむ風流十載の歓
  杯酒慇勤永今夕  杯酒慇勤 今夕を永うす
  天涯一別夢中看  天涯一別 夢中に看ん
◯淅瀝 雨風や落ち葉の音。畳韻語。北宋の欧陽修「秋声の賦」(『古文真宝』後集)に「欧陽子、夜にあたって書を読む。……初め淅瀝として蕭颯たり」と。◯杯酒慇勤 前漢・司馬遷「任安に報ずる書」(『文選』巻四十一)に「僕、李陵とともに門下に居る、(中略)未だかつて盃酒をふくみ慇懃の餘に接せず」と。『書言故事』巻三、二)交情類、「接殷勤」の項にも引く。◯永今夕 前掲「士善に夜過ぎらる」詩に既出。

「この十年風流なおつきあい、愉しく過ごさせていただきました、今夜はゆっくり飲みましょう。ここでお別れしたら最後、二度とお目にかかる機会もありませんから、これからは夢で逢いましょう」。
 ところで、これまで再三述べたように、仕官はしたものの、東陽にとって伊賀上野での職務は決して満足できるものではなかった。その不本意な現状を折にふれ在京の詩友の一部に洩らしていたが、永田観鵞にも同様の心情を吐露している。七律「和して俊平に答ふ」詩(『詩鈔』巻四)に云う、

  休道榮官命運開  ふをめよ栄官命運開くと
  苦寒山國最堪哀  苦寒の山国 最も哀しむに堪ゆ
  安能鵬翼搏風去  いづくんぞ能く鵬翼 風をって去らん
  宛是胡孫入袋來  あたかも是れ胡孫 袋に入りて来たる
  陰嶺嚴凝經臘雪  陰嶺厳凝たり臘をし雪
  凍林蕭索待春梅  凍林蕭索たり春を待つ梅
  講堂畢竟村夫子  講堂 畢竟 村夫子
  閑殺梁苑授簡才  閑殺す梁苑授簡の才
◯休道 勿言(言ふ勿れ)の俗語的表現。◯鵬翼云々 『荘子』逍遥遊篇に見える鵬の故事。◯胡孫入袋 自由気ままにならぬこと。北宋・梅堯臣(聖兪)が唐書を修する勅命を受けた際、妻の刁氏に「吾の書を修するは、猢猻の布袋に入ると謂ふ可し」といったところ、「君の仕宦に於ける、亦た何ぞ鮎魚の竹竿を上るに異ならんや」と答えた故事による(北宋・欧陽修『帰田録』巻二)。〈胡孫〉は、サル。〈猢猻〉も同じ。〈鮎魚〉は、ナマズ。それが竹竿を上るとは、つるつる滑ってうまくいかないことをいう。栄達できない喩え。ちなみに、『薈瓉録』巻下に「胡孫入袋ノ譬ハ尻カケ猿ノ困リタルヲ言フナリ、清君錦日本詩選跋、胡孫入袋鮎魚上竿、ト云ヒシハ選ニ入ルマジキ者ヲ載セテ入ルベキ者ハ漏ルコトニ用ヰタリ、大ニ誤レリ」と。なお、清君錦は、清田儋叟のこと。『日本詩選』の跋に「鮎魚竹に上り、王孫袋に入る、是れ何ぞ選に取らん」と見える。◯厳凝 厳寒の意。『礼記』郷飲酒義に「天地厳凝の気、西南に始まりて、西北に盛んなり」と。双声語。◯蕭索 ひっそりとしたさま。双声語。◯閑殺 ひどく暇なこと。〈殺〉は、程度の甚だしいことを示す。◯梁苑授簡 前掲「明卿を哭す」詩の語釈参照。

「仕官できて君も運が開けてきたね、なんて言わないでください。しょせん山の学校の田舎教師、かつて都で鳴らした詩才を発揮する場もありませんから」。
 この永田観鵞は、三熊花顚原著・伴蒿渓補の『続近世畸人伝』(寛政10年[1798])にも取り上げられているが、後述する六如上人に哭詩(『六如庵詩鈔』二篇巻四)があり、それを引いている。東陽の交友圏には今ひとりやはり畸人伝中の人物がいる。それが次に挙げる端文仲である。

※永田観鵞については、『森銑三著作集』第四巻「人物篇四」(中央公論社、昭和46年)に見える。服部蘇門との関係については、中野三敏『江戸狂者伝』(中央公論社、平成19年)の「第七 蘇門狂狷」に詳しい。また『続近世畸人伝』については、宗政五十緒校注『近世畸人伝・続近世畸人伝』(平凡社東洋文庫、昭和47年)参照。

端文仲(享保12年[1732]~寛政二年[1790])

 『日本詩選』の姓名録に「端隆 字は文中。東都の人。家を京師に遷す。賈に隠る。詩才巧妙、但だ人と為り卑謙、名に遠ざかる。ゆゑを以て世人知る無し」と。天明二年版の『平安人物志』にその名が見え、『東山寿宴集』『平安風雅集』にも採録。東陽より24歳上。
 東陽に安永8年以前の作とおぼしき七律「端文仲の越にくを送る」詩(『詩鈔』巻四)があるのだが、どういう理由で暑い盛りに一人で越前へ赴くのか、この詩だけからはわからないものの、とりあえず次に挙げておく。

  班馬蕭蕭曉色新  班馬蕭蕭として暁色新たなり
  浮雲流水旅行身  浮雲流水 旅行の身
  夷猶累顧都門月  夷猶してしきりに顧る都門の月
  炎熱能衝驛路塵  炎熱能くく駅路の塵
  湖上勝遊張樂地  湖上の勝遊 楽を張る地
  郢中雅興知歌人  郢中の雅興 歌を知る人
  休嘆孤客無知己  嘆くをめよ孤客 知己無きを
  吾道由來德有隣  吾が道 由来徳に隣有り
◯班馬蕭蕭 李白の五律「友人を送る」詩(『唐詩選』巻三)に「手を揮ってここり去れば、蕭蕭として班馬いななく」と〈班馬〉は、前に進まぬ馬。◯暁色新 夜が白々と明け始める。◯浮雲流水 行雲流水と同じ。◯夷猶は、ためらってぐずぐずするさま。双声語。◯湖上 琵琶湖のほとり。◯勝遊 よき旅。◯張楽地 李白の五排「儲邕の武昌にくを送る」詩(『唐詩選』巻四)に「湖は連なる楽を張る地」とあり、『荘子』天運篇の「黄帝、咸池の楽を洞庭に張る」をふまえる。◯郢中 「舌耕歌」の〈郢曲〉の語釈参照。◯吾道 孔子の教え、儒学。「舌耕歌」の語釈参照。◯徳有隣 『論語』里仁篇に「徳は孤ならず、必ず隣有り」と。

 この時、文仲は初めての越前行きであったらしい。それ故「御心配めさるな、かの地できっとよき出会いがありましょうから」と結ぶ。
 また前詩よりは後の作になるが、同じく七律に「居を移し、和して端文仲に答ふ」(『詩鈔』巻四)がある。

  數椽茅屋俯青郊  数椽の茅屋 青郊に俯す
  境靜更無塵俗淆  境静かにして更に塵俗のまじふ無し
  詭計肎營三兎窟  詭計肯へて営まんや三兎の窟
  僑居姑占一鳩巢  僑居しばらく占む一鳩巣
  庭池點水新荷葉  庭池 水に点す新荷の葉
  隣苑過墻嫩筍梢  隣苑 墻を過ぐ嫩筍の梢
  散帙書窓消永日  帙を散じて書窓 永日を消し
  柴門只恐有人敲  柴門只だ恐る人のたたく有らんことを
◯数椽茅屋 小さく粗末な家をいう。〈椽〉は、たるき。〈茅屋〉は、茅葺の家。◯俯青郊 杜甫の七律「堂成る」詩に「江に縁《よ》って路熟し青郊に俯す」と。〈青郊〉は、春の郊外。〈俯〉は、「ミオロス」。◯詭計 人をだますはかりごと。◯三兎窟 三つの家。『戦国策』斉策四に「狡兎三窟有り。僅かに死を免るるのみ」と。六律「卜居二首」其二(『詩鈔』巻三)にも「計はづ狡兎の三窟、すみかは定む鷦鷯の一枝」と。◯鳩巣 他人の家を借りて住む。『詩経』周南「鵲巣」に「れ鵲巣有れば、維れ鳩之《これ》に居る」と。〈鳩〉は、カッコウ。◯散帙 書物を開いて読む。〈帙〉は、線装本を包む覆い。六朝宋・謝霊運「従弟恵連に酬ゆ」(『文選』巻二十五)に「帙を散じて知る所を問ふ」と。◯柴門 柴折戸、粗末な門。あるいは、ここは門を閉ざす意か。『後漢書』楊震伝に「門を柴して賓客を絶つ」と。

「三軒、家を借りているのではなく、三度めの引っ越しをしただけで、今度も借家住まいです。前と違って市内の端っこ、閑静なところで庭には池あり、ハスの葉が大きくなり、隣庭の竹林の筍が垣根を越えるほどに伸びています」。この時の引っ越し先が、前に出てきた巌垣龍渓の住まいに隣接した借家であるかどうかは不明だが、小栗明卿がよく訪ねて来たというところとは、おそらく異なっているだろう。
 なお、寛政12年(1800)刊の『春莊賞韻』には、これまで言及した江村北海・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・岡崎廬門・香山適園それに後述の桂洲・六如らに交じって東陽の「端文仲詞伯の春荘」と題する五律が収められている。

  蝸廬市塵裏、怪得號春莊  蝸廬市塵の裏、怪しみ得たり春荘と
               号するを
  好是煙霞疾、豈夫泉石塲  好し是れ煙霞の疾、れ泉石の
               場のみならんや
  心閑自山野、興至便壺觴  心閑にして自ら山野、興至って便すなはち壺觴
  詩思堪長日、臥遊何有郷  詩思 長日に堪え、臥遊 何有の郷
◯蝸廬 蝸牛廬。狭く小さな家をいう。◯煙霞疾 極度の自然愛好癖。『旧唐書』隠逸伝の田遊岩伝に「泉石膏肓、煙霞痼疾」と。◯心閑云々 陶淵明の「飲酒二十首」其五(『古文真宝』前集に『雑詩』として収載)に「心遠ければ地も自ら偏なり」と。◯何有郷 何もないところ。『荘子』逍遥遊篇に説く理想郷、「無何有之郷」。

「失礼ながら市中の陋屋にお住まいなのに、春荘と名づけられているのはとても異なことと訝しく思っておりましたが、病膏肓に入るほどの自然好きのあなたには、心のどかであればそこは山や野にいるのと同じで、興が湧くと酒徳利を傾けられる。日がな一日詩を考え、荘子のいう無何有郷にのんびり寝そべっておられる」。天明2年版の『平安人物志』に拠れば、「間之町二条上ル町」にその住まいがあった。
 ちなみに、『続近世畸人伝』巻二の端文中の条には「書林なりしかど、隠操ある人にて、詩を能して名あり。天明の火にあひて大に零落す。しかれども、春荘帖と名付る書画帖を懐にして、知己の諸名家に乞てしるさしめ、此帖はおのが別荘なりとたのしめり」云々とあり、文末に六如の「端文仲を哭し、其の絶筆詩の韻に和す」詩(『六如庵詩鈔』二篇巻二)を挙げている。

※『春莊賞韻』については、その影印が堀川貴司氏の解説を附して『太平詩文・別冊・一』として刊行されている(太平書屋刊、平成10年)。


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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(7)


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