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絵とエッセイ㉔空が描けなかった自分に、今だから言いたいこと

執筆後の振り返り音声

「空は描かないんですか?」


そう問われたことがある。
10年ペン画で展示活動をしてきて、ブランクはあるが油絵も描いていた事がある。
独学ではあるが、結構な枚数を描いてきたつもりだ。
空と言えば〈風景画〉
都会が苦手なので自然が良い。
木の多い場所に行くとなぜか落ち着く。
自然が好きなのだが「空」はあまり見たことが無いように思う。
見たことがあまりないので、描ける気がしない。
木々と空は〈自然〉と言う括りでセットだと思うのだが、私は「空」の印象がすっぽり抜けていた。

なので、風景画はあまり得意ではない。
遠近法は何度か挑戦したが挫折した。
学生の頃に漫画の投稿を少ししていたのだが、背景が全く欠けない。描き方の本を何度も読んで勉強したが最後まで描けることがなかった。
森や林、川や海はなんとか描けた気がする。
油絵でも「蝶」や「花」はよく描いていた様に振り返る。
ペン画で描くようになってから、人物が多く、数年前から木々を描くようになった。
人と木が融合した「木霊」「倒木」「流木」という作品。
ゲームに出てくる木の精霊やドライアドなど、幻想世界を描きたいと思っていたわけではなく、描き出したきっかけは〈自身の痛み〉を表す為だった。
「木霊」は季節や日々の生活で感じる痛み
「倒木」は孤独感や虚無感
「流木」は人生に流される自分を嘆きながら諦める
私の心情を表した作品だった。

「私の絵は、日記の様なもの」
自分の絵の事で問われると必ず、そのように答えている。
首を傾げられることが多いのだが、そのまま、自身の体調を表している作品もあるのだ。

春になると体調が悪くなる。
花が咲く頃は絶不調になる。
背中の中心が痛みだし、指先もジンジンする。
頭もボーとして、時に訳が分からずイライラすることが多い。
これは普通の事なのか?自分だけの事なのか?
桜満開の木の下で、自分だけ取り残されているような気がする。
桜が綺麗だと感動している陰で苦痛に耐えていた日々を何年か過ごした。
内科的な不調ではなく、物事に過敏に反応してしまう気質のせいだと気が付いたのはほんの数年前の事だった。
「君は自分以外のストレスを感じ取ってしまう」
心療内科の医師に言われた時は全く意味が分からなかった。

「隣で人が泣いていたら、同じように悲しくなってしまう」
「イライラしている人の近くにいたら、同じようにイライラしてしまう」
「季節の変わり目や、天候の変化を過敏に感じてしまう」
自分はそんなことを思っていないのに近くの人の感情に、空や季節の変化のストレスを心身共に感じやすい人間だと説明された。

病気ではない気質。

「物事に繊細過ぎる」
その事は幼少期から生活や考え方に影響を与えてきたようだ。
出来事すべてを上げると人生分の量になるので、簡潔に〈過敏な感覚〉と思ってもらえばいいだろう。
冬から春にかけて、木の樹皮を突き抜けて芽が出る頃に、鈍痛を感じやすくなる。
眠っていたものが春の暖かさで動き出す力は、自然にとって相当なストレスの様だ。
「春になって身体が痛い」
きっと、すぐ理解できる人はいないだろう。
「感受性が豊か、繊細な神経」
最近では〈繊細さん〉と言う言葉で、その気質を理解できるように書籍が出ている。
しかし、私が幼い頃はそんな事を理解できる訳はないし、納得されることは先ず無い。
「何を言っているか分からない」と親は何かの病気かと心配する。
しかし、内科では異常が無いので「仮病」や「心の弱い子供」と思われた事が多かったように思う。
病気ではないので薬は無い。
たった一人で痛みに耐え、理解されない孤独に耐える。

「誰に話しても理解されない。だから、この痛みを絵に表す」
春先の背中の鈍痛を血管から突き破って伸びる枝として、理解されない孤独感は折れた倒木として刻み付ける。
自分はこんなに苦しいのだと
生き辛いのだと
声に出せない声を絵にしたのが〈木霊〉という身体から枝が伸びて生い茂る作品になった。

ちなみに春先には体調を崩す人が多いのも最近知った。

〈春〉は寒暖差が大きくなる時期で、自律神経の交感神経と副交感神経が入れ替わる時期なので、メンタルの不調を引き起こすことがあるようだ。
体温調整機能の長い稼働で疲れやだるさや倦怠感を感じたり、新年度という事で不慣れな仕事や人間関係でイライラが募り症状が現れる。
春先に限らずストレスは怖いものだ。
人にとって些細な気分の不快感が、私には不調になるまで自律神経に影響するので、春は毎日具合が悪かった。
「季節には抗えない」
そう理解した時、春が来るのが嫌になった。
しかし、慣れると「仕方ない」と受け入れる事が出来た。
〈そうなる事が分かっている〉から気を付ければ過剰に影響を受ける事は無いし、寝込んでも仕方ないと自分を責める事はもうなくなった。

思えば、昔は生きてる日常が全てストレスだった。

良く分からない不調に「理解されない虚しさやイライラ」から自分自身でストレスを作ってしまい、その上で他人のストレスももらってしまうので、憂鬱な春を過ごしていた。
理解されないという事は〈自分自身〉を否定されたような気分になる。
何もしていないのに、罪悪感に捕らわれる。
自分が悪い人間だと思うと、肩身が狭く、意識して日陰を歩くようになった。
「何処かへ消えてしまいたい」
晴天の日は憂鬱でしかたなかった。
体調的にも太陽が苦手だった。
強い光にも敏感なので、20代はサングラスを掛けて外にでるしかなかった。
なので、ほぼ自分の視界はモノトーン。
彩り何て全くない。

「空は眩しいから見る事が無い」だから「描けない」と思っていたけれど、精神的に「上を向く事が出来ない」から「描けない」のではなかった?
そんな事を最近、考える。

「空を見なくても生きてはいける」しかし、「上を向くだけで救われる」出来事で私は空を見る事が好きになった。
自分の限界を知った時、涙と共に空を見ると果てしない蒼天だった。
ちょうど季節は秋。
補色である銀杏の黄色が鮮やかで空の青が果てしなく深かった。
息をする事さえ苦しかったのに、上を向くと深呼吸が自然にできる。
頭を上げると自然と喉が開き、空気が身体を回り脳が晴れる。
空の青さと相まって、自分の悩みの小ささを実感し、限界に達していた事に気が付いた。
その出来事から、よく空を見るようになった。

思うに「空を描けない事」と建物が並ぶ都会を描けないのは、見たことがあまりないからではないのかな?と考える。

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