S.T.
轟音と共に魚の腑が引き裂かれる。 回遊魚の群れを真っ二つに割るように海底から衝撃波が走った。この比較的若い群れにはおよそ経験のない惨事だ。そこかしこに数秒前まで同胞だったものが揺蕩っている。 * 深川三尉 26歳 東大単位取得中退、防衛大次席卒業 その人は、1日24時間あるなかで、姿を見せることがあまりない。部屋に閉じこもって、想うがままにヴィオラを弾いたり、本来禁止されている電子タバコを吸いながらロックを聴いたりしているらしい。当然伝聞でしかない。本来であれば艦
「ヒノトリ」は無事ジャワ海を抜け、バリ島北部沖のバリ海にアプローチしていた。南シナ海を縦断せず迂回することによりクルーズ日程は以前と比べて数日程度伸びてしまっていたのだが、その代わり乗客にはバリやフィリピンの楽園的な海や、コモドやカリマンタンなどの豊かな大自然を余すところなく乗客に見せることができる。南シナ海のほぼ全域が係争海域のため気の抜けない操船が続いてきたが、もう大丈夫だ。航海の最終盤を迎え、小夜の心は内海のように穏やかだった。 小夜は外の空気にあたるため、ブリッ
深川三尉はずっと遠い目をしている。つい数か月前の出来事ではあるが遥か昔の、いやむしろ違う世界のことを思い浮かべているように。 「急に艦全体が持ち上がるような感覚を覚えました。そう、高層ビルのエレベーターで急上昇したような、重力がキツくなる感覚です。何かが起こっているのは確実でした。」 「艦長はしばらく一音も発しませんでした。そのうち誰かが『艦長ッ』と叫びました。それでも艦長の反応はありませんでした。次いで副長の神木香織3等海佐に低く呼びかける声が聞こえました。多分航
ステイシーは、船内のスポーツエリアに居た。南シナ海の海風が清々しい。ラウンジやプールサイドは気分がどうしても合わなかった。今は出来るだけ一人で黙々と何かをしている方が良い。ヒノトリのスポーツエリアはメインデッキを1フロア上がった船尾に位置する。外のデッキでは3世代の家族がシャッフルボードに興じていた。今はその歓声でさえ心にさざ波が立つ。 ゴルフは元上司のロバートの奨めで本格的に始めた。ステイシーが高校まで過ごしたテキサスでも他州よろしくゴルフ場は星の数ほどあったが、幼少
時田健 30歳 プロダイバー 大ごとやな。頭のなかのシンさんがそう嘯いた。俺は無言でうなずいた。 いつからだろう、自分の脳内に人を飼うようになったのは。シンさんのほかにはユウタ、ケン、坊の4人格が棲んでいる。今じゃ立派な小隊規模だ。別に多重人格なわけじゃない。仕事柄何が起こっても冷静でいられるように色々試した結果行き着いた帰結だ。これ以上は俺の手に余るので、今後は隊員の入れ替えはあっても追加はないと思う。何なら「坊」は戦死した前任者の補充だ。このポジションはよく変わる
弘田あき 32歳 紛争ジャーナリスト 私は薄暗い雑居ビルの一室で、iPhoneの録音ボタンをタップした。目の前には長身で肌が透けるように白い、アスリートがそのままスーツを着たような青年が、目を閉じたままもの悲しげに座っている。数ヶ月前に会ったときとはまるで違う印象だ。およそ生きた人間の存在感ではない。 「自分はそのとき発令所にいました。」 青年は語り出した。 「突然ソナー員でなくても分かる低く不気味な轟音が海底から聞こえてきました。ちょうどロンボク島西端から南
田中ギラード小夜 45歳 クルーズ船「ヒノトリ」船長 その船は夕日に照らされながら、ちょうどモルッカ海峡の出口を南東へ航行していた。ブリッジで小夜は、幼い頃のかすかな記憶を辿っていた。2004年の暮れに発災したスマトラ島沖地震は右手に見える大陸かのような島の反対側で破壊的な津波を引き起こし、遠くはタイのシミラン諸島方面の海底まで多大な影響を及ぼした。 インドネシア・バンダアチェ州における情勢不安は数年前に沈静化した。かつては逃げ場のない危険水域として知られていたこの海