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海逅(5)

 深川三尉はずっと遠い目をしている。つい数か月前の出来事ではあるが遥か昔の、いやむしろ違う世界のことを思い浮かべているように。

 「急に艦全体が持ち上がるような感覚を覚えました。そう、高層ビルのエレベーターで急上昇したような、重力がキツくなる感覚です。何かが起こっているのは確実でした。」

 「艦長はしばらく一音も発しませんでした。そのうち誰かが『艦長ッ』と叫びました。それでも艦長の反応はありませんでした。次いで副長の神木香織3等海佐に低く呼びかける声が聞こえました。多分航海長だったと思います。」

 神木副長も押し黙ったままだ。発令所にいる尉官以下のメンバーの顔には例外なく焦燥感と恐怖心がにじみ出ていた。同期で神木副長の直属の部下になる掌水雷士の柊タケル3尉なんかは冷や汗がすごい。色黒で筋肉質の副長と対象的な柊のいわゆるわがままボディが小刻みに揺れていた。

 「艦長」

 しばらくして副長が艦長に短く声をかけた。そのときはもうすでに何かに捕まっていないと姿勢を保持できないくらい艦が左前方に傾いていた。艦長がようやく静かに口を開いた。

 「後進半速。被害状況知らせ。」

 極めて低い。でも発令所全体が緩やかに振動するような、いつも通りの号令だ。間髪なく航海長を介して指揮が伝達されていく。艦内や艦体にこれといった被害はなかったようだ。ただ一人、掌航海士の都留友里3尉の表情だけ強張ったままだった。

 「艦長!!!後進が効きません!!!」

 都留3尉の叫びからは、いつも周囲を和ませている彼女の明るさなど全く失われていた。後進を掛けているのに効かないということはスクリューに何らかの異常が発生したということになる。神木副長が間髪入れずに機械室に照会をかけた。この艦ではいわゆるフローティング・デッキ(浮き甲板)方式を採用しているので先ほどの衝撃は発令所にいたる際に相当程度減衰されているはずだから、よく考えれば艦体に何も異常がないことの方がおかしい。

 「機械室より発令所へ!スクリューが破断しているかもしれません!!」

 機関長の服部翔真1尉の切迫した声が、スピーカーから発令所全体に響いた。

 弘田は深川3尉の顔にわずかながら赤みが差してきたことに気付いた。血の気の引くような記憶とはいえアドレナリンが出てきたのだろう。弘田もこの深川という青年の語る世界観に完全に引き込まれていた。おそらく操艦に直接は携わらない掌船務士の深川3尉だからこそ、ここまで明確に状況を記憶できている。弘田がこれまで取材してきた紛争の当事者で冷静な回顧ができるのは大抵通信兵や衛生兵などの戦場では補助的な役割を担う人たちだった。

 「窓を開けますね。」

 そういって弘田は取材場所として利用させてもらっているホテルの一室の窓に手をかけた。当然全開にはならないものの換気には十分な程度には開けることができた。空いた隙間からは潮の香りのする新鮮な空気が一気に部屋のなかに滑り込んできた。

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