海逅(4)
ステイシーは、船内のスポーツエリアに居た。南シナ海の海風が清々しい。ラウンジやプールサイドは気分がどうしても合わなかった。今は出来るだけ一人で黙々と何かをしている方が良い。ヒノトリのスポーツエリアはメインデッキを1フロア上がった船尾に位置する。外のデッキでは3世代の家族がシャッフルボードに興じていた。今はその歓声でさえ心にさざ波が立つ。
ゴルフは元上司のロバートの奨めで本格的に始めた。ステイシーが高校まで過ごしたテキサスでも他州よろしくゴルフ場は星の数ほどあったが、幼少期に父親と何回か一緒にいった記憶があるくらいでテレビで観戦することすらほとんどなかった。ロバート・ウィンストンは生粋の英国紳士だった。英国人であることを心から誇りとしていたし、紳士のたしなみは須らく心得ていた。ゴルフなんかはプロ級に上手い。
そのロバートにクビにされたのに、傷心のまま船上でゴルフクラブを振っている自分自身をステイシーは心の中で静かに嗤った。
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小一時間休みなく打ち込んだあと、ステイシーは同じフロアにあるスモーキングラウンジに向かおうとした。船内に入ると今は人のいないダンスホールが横目に見えた。冷房が効いている。そのとき初めてステイシーは自分が汗だくだということに気づいた。数秒立ち尽くしたあと、彼女は踵を返した。とりあえずデッキでこの汗を乾かそう。部屋に戻るのは面倒だった。
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スポーツエリアでは、また別の家族がシャッフルボードで遊んでいた。気にも留めずに右舷側にある半楕円状の階段に向かうと、その家族を少年のような笑顔で眺めている青年が階段に腰かけていた。「もっと他にやることはないの?」そう内心毒づきながら脇を通り抜けようとすると、彼がおもむろに立ち上がった。
「やあ、おはよう」
その屈託のない笑顔は、今のステイシーには凶器でしかなかった。挨拶もそこそこにやり過ごそう。汗なんか気にせずそのままスモーキングラウンジに行けばよかったと強烈に後悔した。愛想笑いを浮かべながら青年をよけて階段に足をかけた。今鏡をみたら、愛想笑い崩れの、多分ものすごく複雑な表情になっているだろう。
「ごめん、ごめん!!突然声をかけて失礼だったね!!」
後ろから青年の声が聞こえた。彼も階段を登ってくる。失礼だったって思うなら付いてこないでよ。そんなセリフが喉から出かかった。
「僕はアンドレア。君は?」
ステイシーは半楕円の折り返しの踊り場で振り返った。1メートル先に青年の笑顔があった。
「この船はお見合いクラブじゃないのよ。私は一人でいたいの。邪魔しないで。」
相手がおそらく年下とはいえ、よくもこんな失礼な言葉が出てくるもんだと、ステイシーは自分で驚いた。青年は少したじろいだように見えたが彼も強かった。
「ごめんね!!君がゴルフをしているあいだ、ずっと声をかけようと思ってたんだ。終わったあとすぐ中に入っちゃったから、何でもっと早く声掛けなかったんだって後悔してた。」
声掛けたことを後悔してほしいわ。ステイシーはそう口に出そうとしたが何とか思いとどまった。何より一心不乱にクラブを振っていた姿をずっと見られていたことが恥ずかしかった。
「人のストレス発散をずっと見てるのは感心しないわね。暇なの?」
「この船に乗っている人はみんな暇なんじゃないかな?」
一本取られた。それはそうだ。私も暇だからここにいる。でもそういう意味じゃないわ。その笑顔早くしまいなさいよ。
「一人なの?」
「そうだよ。ローマから乗ってる。昔から日本に行きたかったんだ。」
「そう、じゃあ楽しんでね。」
ステイシーは青年の脇をすり抜けて、今度は階段を降りようとした。もう汗なんてどうでもよかった。早くスモーキングラウンジに逃げ込みたい。
「ちょっと待ってよ。名前だけでも聞かせてよ。」
階段の踊り場がこの世で一番たちが悪い場所なんじゃないかと思った。狭い部屋のなかの方がよっぽど立ち去りやすい。それより何より、このアンドレアという青年はあきらめが悪そうだ。
「ステイシーよ。じゃあね。」
「ありがとう!!またね!!」
振り返って顔を見なくても声色だけでアンドレアがどんな表情をしているか分かる。このクルーズがあと何日で終わるか、煙草を吸いながら確認しよう。ステイシーは再び船内に入っていった。
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