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海逅(6)

 「ヒノトリ」は無事ジャワ海を抜け、バリ島北部沖のバリ海にアプローチしていた。南シナ海を縦断せず迂回することによりクルーズ日程は以前と比べて数日程度伸びてしまっていたのだが、その代わり乗客にはバリやフィリピンの楽園的な海や、コモドやカリマンタンなどの豊かな大自然を余すところなく乗客に見せることができる。南シナ海のほぼ全域が係争海域のため気の抜けない操船が続いてきたが、もう大丈夫だ。航海の最終盤を迎え、小夜の心は内海のように穏やかだった。

 小夜は外の空気にあたるため、ブリッジの上部に出た。船の右舷には南十字星が輝いていた。大航海時代以降南の方角を知るうえで欠かせなかったこの「サザンクロス」も、GPSが発達した現代においては南国の雰囲気を飾り立てるロマンチックな存在となっている。赤道域や南半球を航海することの多い小夜にとっては、北極星よりも身近で思い入れがある。大好きな父が生まれたオーストラリアの国旗にも南十字星が描かれているし、一人娘の星南の名前もここから取った。
 彼女がまだ5歳だった15年前に夫と別れたときには、船乗りが1人で子供を育てられるわけがないと方々から言われたがむしろ星南がいたから私は頑張れた。航海中はいつも両親に預けているものの、当然寂しいことも多かっただろうと思う。私のエゴで孤独を感じさせてごめんねと、遠い海から何度想ったか。そんな星南も今年で成人だ。本当に優しい人間に育ってくれた。もう1ヶ月も過ぎてしまったが、日本に帰ったら真っ先に20歳のお祝いを渡しに行こう。

 しばらくして小夜は穏やかな気持ちのままブリッジに戻った。

 「船長!地震です!」

 小夜がブリッジに戻るやいなや、今夜の当直である一等航海士の夏目が目の前に現れ小声で叫んだ。小夜は一瞬たじろいだ。ただの地震ならこんな切迫した報告になるはずがない。

 「状況は?」

 「バリ南方沖でマグニチュード7.9の速報が出てます。津波の恐れがあるとのことです。」

 小夜は戦慄した。もしこの船の航行が半日早まっていたら完全に巻き込まれていた。震源との間にバリ島があるので「ヒノトリ」に直接の被害は生じないだろうというのが不幸中の幸いだ。ただ予定通りのバリ入港は難しいかもしれない。小夜の頭は再び急速に回転し始めた。

 「まずは確実な情報の収集に努めましょう。念のため船はロンボク島方向、西南西に向けてから両舷停止。ただいつでも全速が出せるようにしておいてください。お客様へのアナウンスは私からします。」


 夏目は指示を受けてすぐ諸々の手配を始めた。彼は初動の指示さえこの粒度で与えておけば完璧以上の結果を出す。船長である小夜はここから続々と入ってくる情報を精査し、状況に応じた柔軟かつ速やかな意思決定をしていかなければならない。小夜は浮き足立ちかけた自分を落ち着かせるように、先ほど風に当たって乱れた制服の襟を両手で正した。


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