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“ふたり”からみんなへ、そして“ふたり”へ。『映画プリキュアオールスターズF』

 私がよく使う言葉で、「歴史で殴る」というタイプの作品がある。ある程度の年数を重ねたシリーズ作品が、自身の積み重ねそのものをエモーショナルという名の拳に変えて、観客の心を直接殴るような、そういう作品。登場するキャラクターや作品への思い入れが強ければ強いほどその威力は高まり、シリーズを追ってきた自分の歴史にもリンクして涙を誘われてしまう、集大成ならではの醍醐味。同じプリキュアであれば『映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』が真っ先に思い出されるし、東映であれば『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVERが、世界規模に広げたら『アベンジャーズ/エンドゲームがその最大手に挙げられるだろう。

 さて、プリキュア20周年を祝う祝祭にして「歴史で殴る」映画の最新作であるところの『映画プリキュアオールスターズF』、その最大威力を語るには全プリキュアを修める必要があり、私にはそれを語る域に達してはいないにせよ、これだけは言える。殴り/殴られという意味では、映画史上最大密度なのでは?と。

※以下、本作のネタバレが含まれます。

 まずは、個人的な「うれしくて」な要素を語ってしまいたい。

 私自身はプリキュア初心者で、TVシリーズを完走した作品が『プリンセス』『HUG』『トロピカル~ジュ!』に限られるため、今作に登場する大多数のプリキュアやその仲間たちの名前も知らない状態で臨んだわけだけれど、とりわけこの三作に与えられた時間や要素は大きかったように思える。

 キュアフローラ/春野はるかと遭遇するシーンでは「伝説の1話オマージュなファイトシーン」で度肝を抜かれ、間髪入れずに「ツバサにプリンセスと呼ばれ喜ぶはるか」をお出しされる。早い。“喜ばせ”の質と量が凄すぎないか?これ73分持つのか?と不安になってしまう。

 今作では『プリンセス』以降のキャラクターが複数のチームに分かれて行動し、謎の城で合流するというプロットで進行するが、その道中もおそらく“ファン垂涎”の連続だったに違いない。例えば、「夢」をテーマに春野はるかと薬師寺さあやが語り合うシーンがあって、そういえば両作ともなりたい自分に向かって前進する話だったな……という気づきに涙したし、キュアマカロン/琴爪ゆかりとのコミュニケーションに悩む羽衣ララはあの大傑作『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』を彷彿とさせる。もうね、めちゃくちゃ可愛いんですよ、羽衣ララさんが。

 そうした“あんなこといいな できたらいいな”的なファンサービスを散りばめ、しかしそれは単なる目配せでなく、ちゃんと作品の文脈を乗せた上で生じるプリキュアたちの世界観の垣根を超えた共演。わが道を往くローラはましろのギャグ顔を何度も引き出すことで誰でも『トロピカル~ジュ!』の世界観に引き込む強さを発揮し、まなつとゆいは「今やりたいこと」と「腹が減った」を直結させて異様な生命力を見せつける。一番唸ったのは、他者に触れることを恐れる今作のオリジナルキャラクターのプーカに手を差し伸べたのが、花寺のどかさんであったこと。他者の心に寄り添う優しさを持つ彼女が、自らが傷つく危険性すらも飛び越えて手を「繋ぐ」暖かさを教えたことが、プーカの決断に大きな作用をもたらしたのだと信じたい。

 クライマックスの決戦は、強大なエモーションのオンパレードである。プリキュアの「想い」こそが一度崩れた世界を元に戻す力なのだと説明されるが、その想いとは誰かと誰かの気持ちを「繋ぐ」瞬間で構成されていた。それはまさに、“ふたり”から始まったプリキュアというコンテンツが大事に大事に守り継いだ芯の部分であり、たとえどんなに人数や作品数が増えたとしても貫き通した要素であるからこそ、そのメッセージが強く強く刺さる。後述するが、決して一人の想いだけではプリキュアたり得ないのだ、ということが、本作の戦いのテーマとして提示されるのである。

 そうした合戦シーンの中で、「ローラとキュアマーメイドに特殊会話がある」とか「プーカを応援するキュアエール」でボロボロにされるわけなんですよ……。初心者でこの威力なら、プリキュア“全通”だったらどうなってしまうのか、恐ろしい。

 このように、観客が作品を追い続けてきたことそのものを肯定し、連作に連なる“幹”の部分にフォーカスを当てるという意味では前述したオールスター映画やMCUが成してきた手法と同じではあるし、それはもうどうしたってファンであればうれしくて、泣きもする。なれど本作の凄まじい点は、上映時間がたったの73分である、というところだ。

 メインターゲットである幼児(男女を問わない)の集中力などに配慮してのギリギリの最適解がこの70分台なのだとして、エンドゲームの約三分の一の時間でこれだけのオールスター興行を成立させる、奇跡としか言いようがないバランス感覚。あるいは、70分でオールスターをやらなければならないということから生じる、圧倒的にして現状考えうる最高密度。動体視力の限界を試すかのように矢継ぎ早に登場するキャラクターが、それぞれの想いを背負って作品に“介入”し、一つの余韻が冷めきる前に次がお出しされる。本作鑑賞後の疲労感は、初めて『LEGO® ムービー』を観た時のそれだった。スクリーンに広がる情報量を前に、脳の処理がまったく追いついていなかったからだ。

 私が本作を鑑賞した公開初日のレイトショーは、まさに老若男女といった具合でプリキュア現役世代からその親世代、お年を召された方まで駆けつけるお祭り騒ぎだったわけだが、エンドロール後に灯りが点いてからの、思わず一呼吸置いてしまったり、すすり泣きが聞こえてきたりといった、あの万感の思いに劇場が埋め尽くされた雰囲気。プリキュアというコンテンツの偉大さや盤石さを物語ると共に、こんな凄いものを見せられてはポジティブな意味で二の句が継げないというか、あの場にいた誰もが20年の集大成にノックアウトされた状態だった。本当に、プリキュアっていいものですね。

 このように、あそこが良かったとかここで泣いたとか、好きなシーンを箇条書きにするだけで楽しくて、プリキュア歴が長い人ほど語りが止まらなくなってしまうだろう本作。そのオールスターズと真正面から敵対する存在こそ、ゲストキャラクターであるキュアシュプリーム/プリムの存在である。彼はいわば「プリキュアって何?」を語るために配された、アンチプリキュアとしての強大な存在感を発揮する。

 自分が最強の存在であることを確かめたい、という動機だけで世界を破壊し、歪な形につなぎ合わせた上で自身もプリキュアに「なってみる」という異様さと、プリキュアが連れている妖精を象ってプーカを創造しながらも、その価値を強さでしか測れず、それを満たせぬのなら要らないと捨ててしまう残虐性。プリキュアが悪と闘う戦士である以上、強さを兼ね備えた存在であることは異論ないにせよ、その一点だけを抽出して肥大化させてしまうシュプリームは、穿った見方をすれば作品テーマやコンセプトに対する悪意ある切り取り方をする報道や書き込みを連想させ、当人の一人称が「ぼく」かつ男女の区別が曖昧に見えるデザインにも何らかの意図を感じてしまう。

 プリキュアの合わせ鏡として、一部分を切り取り強烈に肥大化させた、強さだけを追い求めた戦士としてのキュアシュプリーム。メタな言い方だけれど、舞台装置として完璧な強度を誇るし、マジでプリキュアを全滅させているという真相が明かされた際のショックたるや、劇場に少女の泣き声が響くほどだった。そんな存在が、「プリキュアって何?」と問いかけるように、シュプリームも何か満たされない、どれだけ強くなっても本質的には彼女たちのようになれない、という苦悩を抱えている。

 その回答としてプリキュアたちが提示するのは、何かを壊すのではなく守るために力を尽くす生き方であり、その強さの源として想いを「繋ぐ」という行為の尊さである。プリキュアが各々の作品でたくさんの人の想いを、この劇場に駆けつけた私達の愛を背負って、それを橋渡しして歴史と友達の輪を広げてきた20年の集積。まさに、紡いできた歴史が(コンテンツが続いてきたことが)強さであり、強度であり、力である、と。強いからプリキュアじゃなくて、強くて優しいからプリキュアなんだと、全員で投げかける。

 アンチプリキュアとして歪んだプリキュア像を体現してきたシュプリームが、プリキュアから想いを託されたプーカによってその空白が埋まり、白と黒のコスチュームに身を包む両者が手を繋いで「ふたり」になる。これ以上の美しい着地は、もう思いつかない。きっとここから、新しい「ふたりはプリキュア」が始まっていく、その予感を描くラストカット。ようやく「F」の意味が胸に染みてきたところで、映画は終わる。

 プリキュアとは何か。20周年の節目を迎え、改めてそれを問う映画が、「繋ぐ」をモチーフに置いたことに、素人目にもそれは美しいものだと、思ってしまう。偉大なる初代ことブラックとホワイトの変身シーンを見てみたら、二人が手を繋ぐカットがあり、本作は73分かけてそれを踏襲したものとも言える。繋ぐ想いこそがプリキュアであり、それが欠けたらただの破壊者である。アニバーサリーイヤーをただのお祭りにせず、シリーズを繋ぐ強い思想めいたテーマで一本の映画を走り抜けられるだけの強度を見せつけたという意味で、プリキュアは盤石であり、そのバトンが次へ繋がっていくことを心の底から祝福したくなる、そんなことを思ったりした。

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