『仮面ライダークウガ』をまだご覧になっていない方に向けた文章
ありがたいことに、仮面ライダー作品を観た感想を綴っていると、noteなりX(Twitter)なりで、感想を頂戴することがある。好意的なものもそうでないものも、あるいは誤字脱字のご指摘も、素人の文章にリアクションをいただけるのは、モチベーションとして非常に大きくて、この場で感謝申し上げます。
その中で一つ、好意的かつ親切なものですよ、という前置きの上で(許可をいただき)掲載させていただくと、「『クウガ』がオススメですよ!」というコメントが目に留まった。そ、そうか、おれはいつの間にか「クウガをまだ観ていない人」にカウントされていたのか……。
ここで「いやいやチミィ、クウガを観てないなんてモグリだよモグリ!」と言い返すのは簡単だが、しかし立ち止まってみれば、『クウガ』の放送が2000年ということはかれこれ24年も経過していて、現行のメインターゲットである子どもたちは勿論、もう少し上の世代の中で『クウガ』を観ていない特撮ファンがいても、なにもおかしくないのである。同好の士が集うSNSにいると、ついそのことを忘れてしまう。
平成ライダーの始まりと人生を並走した直撃世代なら、そうでなくとも好事家であればその名を知らぬものはいない、本当の本当に伝説と化した『クウガ』を、改めて“人に薦めるなら”自分はどう書くだろうか。ネタバレを含まず、観ていて当然、ではなく、観てほしいという気持ちに立った時、自分は『クウガ』をどう語るのだろうか。
今回は、そういう回です。
『仮面ライダークウガ』の作風を説明するにあたり、最も近い雰囲気を有する比較的新しい作品を補助線として挙げるとするならば、『シン・ゴジラ(2016)』がある。
「ゴジラ」という存在を「巨大不明生物」と位置づけ、かの生物が引き起こす災害や破壊に対し、行政や政府をひっくるめた「社会」がどう対応するのかを描く、シミュレーション的構造を内包する『シン・ゴジラ』。過去の事例やマニュアルなど存在しない未曾有の国難を前に、この国はどのように立ち向かうのか。未だ風化せぬ3.11において矢面に立たれた一人である枝野幸男衆議院議員に取材をしたという本作のリアリティは、ゴジラファンのみならず多くの日本人の心に届き、大ヒットを記録した。
特撮史的には順序が逆転してしまうのだが、『クウガ』が内包するリアリズムを説明するには、『シン・ゴジラ』を経由するのがわかりやすいのでは、と考える。というのも、『クウガ』における仮面ライダーとは、ゴジラがかの作品でそうであったように、我々人類にとっては「得体の知れない生命体」として扱われるためである。
西暦1999年。長野県のとある遺跡にて発掘された石棺から目覚めた存在「グロンギ」は、遺跡の調査隊を全滅させた後、復活した200体余りのそれぞれが人間の姿で社会に潜伏し、「ゲゲル」と呼ばれる殺人ゲームを行っていた。この事件の捜査を担当する刑事の一条薫は、遺跡を訪れていた五代雄介と名乗る冒険家の青年と出会う。雄介を追い払おうとする一条だが、遺跡で発掘された謎のベルトと雄介が呼応し合い、人々を襲うグロンギを見て雄介はベルトを装着。かつてグロンギを封印した古代の戦士「クウガ」に変身し、雄介は人々の笑顔を守るためにクウガとして戦う決意をする。
本作も仮面ライダー作品である以上、ドラマのフォーマットとしては「ライダーが怪人を倒す」がメインとなる。ここでいうところの“ライダー”が「クウガ」であり、“怪人”が「グロンギ」で、以降登場する様々な特性を持ったグロンギを、クウガが殲滅していくことになる。だが、クウガもグロンギも人間からすれば等しく得体の知れない生命体であり、故に両者は同一の存在として「未確認生命体」と呼称され、確認されるごとに番号が付与されていく。
クウガは、未確認生命体第4号として認知され、警察から銃を向けられる。クウガもグロンギも、人類社会の平穏を脅かす存在として、排斥される。しかし、今の人類の力では、両者を殺傷することはできない。唯一、純たる人間の身体と心を持ち、人々のために闘う意思を持つクウガだけが、人間がグロンギに抗う手段となりうる。そのため、クウガ=五代雄介であることを知る一条刑事(以降、“一条さん”と呼ばせてほしい)が間に入ることで、クウガは警察との連携を密にし、グロンギを撃破していく。
恐るべきはこの「グロンギ」の存在で、後に『仮面ライダー鎧武(2013)』の脚本を手掛けた虚淵玄氏は、その恐怖を以下のように語っていた。
毎朝見かけるあの人が、職場や学校で会う人が、隣人が、人知れず誰かを殺しているかもしれない。日常に潜在的に在る他者への恐怖、揺らぎを体現するかのように社会に潜伏するグロンギは、ルールに沿って人々を殺戮する「ゲーム」に興じている。その理不尽な暴力に対し、人々は恐れおののくしかなく、雄介や一条さんらは数多の人々の悲しむ姿を見て、怒りに震える。その怒りを原動力に、日夜グロンギを追い詰めていく。
先に挙げた『シン・ゴジラ』同様に、『クウガ』の製作陣も「本当に怪人が現れたらどう対応するか」を警察に取材し、そこから登場人物の動きを組み立てたという。一条さんをはじめとする様々な協力者たちは、グロンギを分析し、クウガと連携し、雄介の闘いを支えていく。その一連の流れに、現在地と時刻を表すテロップがリアリティを付与していく。誰がどこで働き、何をしているのか。その一挙手一投足を緻密に、時系列順に組み上げていくパズルが、『クウガ』の“本物っぽさ”を醸成させていく。
その一方で、クウガとなって闘う五代雄介は、日々の闘いの中で心を摩耗していく。たとえ相手が許されざる殺人鬼とはいえ、相手を殴って蹴って、その命を奪った感触は雄介の身体と記憶に刻まれる。誰かの笑顔を守るために、その手を血で汚しながら進行するのが、『クウガ』の物語なのだ。
仮面ライダーが怪人を倒す。そんな「当たり前」にもメスを入れ、疲弊しながらも笑顔を絶やさない心優しき青年が、確かにその命をすり減らしていく様子を視聴者に提示する。その必死さと悲壮さに、誰もが胸を打たれるのである。「自己犠牲」とはヒーロー行為の裏返しともいえるが、その側面をやや過激に推していく「攻め」の姿勢が『クウガ』の熾烈さであり、後の平成ライダーの後輩たちもその影を大なり小なり受け継いでいく。
まとめると、『仮面ライダークウガ』とは、「言い訳のない」作品と呼べるのではないだろうか。
「怪人が出現したら警察はどう対処するのか」に始まり、「このグロンギを倒すにはどう戦うべきか」「周辺被害を最小限にするにはどうしたらよいか」「どのように連携の精度を高めるか」などが乗っかり、怪人と戦う仮面ライダーの物語に勝利へのロジックを積み重ねていく。ヒーローだから勝つ、というジャンルのお約束に、一つ一つ理由を付与していく。その生真面目な作風が、特撮番組史における新たな伝説となり、『クウガ』から始まったシリーズがいつしか「平成仮面ライダー」という屋号で結ばれる。
とはいえ、後の『仮面ライダージオウ(2018)』が結論付けたように、平成ライダーとは屋号だけを共有した、バラバラの世界観とテーマを描き続けた連作として歴史を築き上げてきた。その作品群には、無論『クウガ』のDNAを受け継いだ作品も多い。が、その作風や緻密な作りこみを再演する作品は、終ぞ現れなかった。いや、正しくは、再演など出来なかったのであろう。
後にも先にも、ここまでロジカルを突き詰め、「ヒーロー番組」のお約束に回答をし続ける作品は、作れなかった。前例がないからこそ何でもチャレンジできた、そんな作り手の精神と根性が成し遂げた一年間のドラマは、後継作品が現れなかったからこそ、伝説なのだ。『仮面ライダークウガ』とは、もう二度と実現することのない、手探りだったあの時代でしか生まれえない奇跡の一作として、これからも語り継がれていくのだろう。
以上。皆さんも観てみませんか?『仮面ライダークウガ』を。