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芸術は剣よりも強し。『ジガルタンダ・ダブルX』

 有史以来、“X”と名がつく映画に傑作が多いことは『トリプルX:再起動』『HiGH&LOW THE WORST X』が証明したばかりであるが、それに並ぶ大傑作がインドからやってきた。名を『ジガルタンダ・ダブルX』という。Xがダブルで、これはとんでもないことである。

 警察官の採用試験を合格したばかりの青年キルバイは、大学で起こった殺人事件の犯人に仕立て上げられる。服役中の彼に復職のチャンスを与えたラトナ警視は、キルバイに「ジガルタンダ極悪連合」のリーダーであるギャング、シーザーの暗殺を命じる。ラトナの兄は映画スター兼政治家であり、自身の主演作を公開する妨げになっているシーザーを消そうとしていたのだ。

 キルバイはシーザーが自身を主役とした映画を撮る監督を募集していることを知り、立候補する。キルバイは映画監督サタジット・レイの弟子であると告げ、大胆不敵なプレゼンにより見事監督の座を射止めた。警察の手先だとバレたら自分が殺される……。暗殺の機会をうかがいながら続く偽映画の撮影はしかし、二人に予想できなかった変化をもたらすのであった。

 “shoot”が「撃つ」と「撮る」の意味を兼ね備えている、とは使い古された文言かもしれないが、本作の主人公キルバイとシーザーの関係性を表すとしたら、この言葉が最も相応しい。銃を持ち、いついかなる時も暴力と共にあるシーザーが前者なのは言うまでもないが、偽物の映画監督を演じることとなったキルバイの“武器”である8ミリカメラには、引き金のような機構がついている。この引き金を引く時にフィルムは回り、レンズが睨む先を撮ってshootいる。その矛先は、映画の主役ヒーローたるシーザーただ一人。お互いの生殺与奪を握る者同士が、相手に引き金を向け合うことで生じる物語。それが『ジガルタンダ・ダブルX』の基本構図だ。

 しかし奇妙なことに、当初はお互いを向いていた銃口/カメラは次第に、別の方向を向き始めることになる。最初は暗殺のための手段でしかなかった映画撮影に本気でのめり込んでいくキルバイと、カメラの前でヒーローを演じる内にいつしか本当に弱きを救う英雄への階段を昇っていくシーザー。物語は急展開を見せはじめ、クライマックスには思いもよらなかった展開が待ち構えている。本作のキモはここにあり、未見の方にそれを種明かしするのは忍びなく、ここからはネタバレが含まれることを予め注意した上で、感想を残していきたい。

※以下、本作のネタバレが含まれる。

 もう少し拳銃の例えを続けるのなら、驚くべきは本作が銃口を向ける射程の広さである。172分の上映時間を目一杯使い、本作はあらゆる世の不正や歪み、不当に虐げられてきた者の痛みなどを訴えかけ続けた。

 例えば、公権力の腐敗。森の神である象を殺し、根絶やしにせんとする悪魔シェッターニは一度はシーザーが捕まえ、部族には平和が戻ったように思えたが、悪の元凶はさらにその上の、政治の世界に潜んでいた。圧倒的な権力で他者を操り、自らは手を汚すことさえなく、兵士に虐殺を実行させる。そうした悪に対し、死を避けられなくともその理不尽にNOを宣言するシーザーと、その最期をフィルムに収め続けるキルバイ。芸術シネマとして自分たちの意思が後世に残り、その力が民衆を奮い立たせると信じた二人の主人公の決死の作戦は、クライマックスで実を結ぶ。

 例えば、生き物と自然環境に対する畏敬と保護、部族に対する不当な暴力への批判。象牙を売るために象を狩ることの暴力性はもちろんのこと、命への冒涜と自然環境の破壊は許されざることであり、神に背く行為である故にシーザーの故郷の部族たちは激しく怒りを見せる。シーザーがさながら西部劇の救世主ヒーローらしく暴力に支配された部族を救った展開の後、彼を「個」ではなく「群」の一人として闘い死なせたことは、英雄を待つだけではなく自分たちで立ち上がらなければならないと、本作が声高に叫んでいる証拠だろう。

 例えば、映画というものの在り方について。政治家の人気取りのために作られ、上映される映画と、それに熱狂し票を投じる民衆。あるいは、肌が白い者しか主役を張れない、ヒットしないという世間の常識。『ブラックパンサー』の到来までまだ遠く、日本で生活していると気付けない根深い問題が、そこには横たわっているのだろう。それを打破しようとするのも、シーザーが映画撮影に熱を上げる理由の一つなのだ。

 本作が極めて面白いのは、こうした世の不条理さ、正しくなさにメスを入れつつも、アクションや演者のスター性によってエンターテイメントであることにも徹した上で、「映画を撮ること」に言及し続ける構図を持っていることである。

 シーザーは映画の主役を演じるうちに、自らの行いが本当に英雄のそれに近づいていく。捕まっていた民衆を開放し、象を狙う狩人を捕まえることで村に神を称える祭りを取り戻し、最後は意思を託して死んでいく。役を演じること、銀幕の中だけで成立するはずだった「虚構」が、いつしか実像を上書きしていく。そんなシーザーの生き様が一本の映画となり、それが現実に影響を与え、彼の怒りと悲しみが名も無き民衆へ波及していく様に、私は映画版『桐島、部活やめるってよ』の前田少年を思い出していた。フィルムの力を信じる者が、世界を変えていくのだ。

 芸術シネマに心奪われていくキルバイも、カメラを通してシーザーという「物語」に惹かれ、目の前の凄惨な現実を伝えるというジャーナリズムに目覚めていく。彼の脳内からいつしか「暗殺」の二文字は消え失せ、手に持つカメラは腐敗した為政者に向ける銃として、全てを白日の下に晒すべく、危険地帯に自ら足を踏み入れていく。警察官になれると喜んでいた小心者の青年はいつしか、ライフルの代わりにカメラで悪を射抜く、すこし変わった正義の執行者へと変化を遂げていたのだ。

 キルバイとシーザー。命を狙う者と狙われる者であった両者の中にいつしか芽生えていた友情は、芸術シネマという触媒が発生させた奇跡であり、映画という媒体、あるいは文化に対する最大の敬意と愛が本作に込められていることは、本作を観た誰もが疑いようのないはずだ。そして、映画とはこの世の悪をなぎ倒す「正義」であって欲しいという願いは、観客に向けられた弾丸メッセージとして深く刻まれただろう。

 「支配者よ、なぜだ?」と問いかける眼差しは、決して他人事ではないし、闘う方法は銃に限らないことを、本作が示してくれた。シーザーとキルバイが命がけで届けてくれた想いは、生き残った人々に理不尽から抗う力を鼓舞していく。そうした物語を語り継いでいくのは、この世界を生き抜いていかねばならない私たちだ。彼らの意思を芸術シネマから現実へ広げていくことが、きっと求められている。

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