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『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』はアニメと小説でようやく完結する。

 2022年7月26日、一冊の本が発売された。

 円城塔による、自ら脚本を手掛けたアニメの、ノベライズ。それだけでなんだか緊張感が増すというか、ただ事ではないぞ、という風格がハードカバーの本からにじみ出ていた。

 意を決して表紙を開く、1ページ、2ページ、3ページ……。どのあたりかはハッキリと覚えてはいないが、「あ、これはアニメを理解していないと無理だわ」と読書を中断し、本棚に戻してしまった。アニメ最終話が配信されてからちょうど一年、感想が「わからん」のまま止まっている自分の脳では、これを読み進めるのは「もったいない」と判断した。だからこその保留、戦略的撤退である。

 では、理解を踏まえるにはもう一度、基本となるアニメに立ち返るしかない。ゴジラと闘う以前に、自分の脳の処理速度と円城塔先生が並べ立てるSF考証とのVSが繰り広げられる、シリーズでも異色の内容となったあの【特異点】へと。

 『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』は、Netflix独占配信かつ地上波で放送された、国内制作としては初のTVアニメシリーズである。企画が発表された際、前回のアニメ版ゴジラが色んな意味で賛否を巻き起こす作品であったこと、「シリーズ構成・SF考証・脚本:円城塔」が大きく話題を呼んだことを覚えている。

 配信当時、ゴジラ×アニメの新しい企画に心躍らせ、更新日にすぐ観る程度には熱中していた。が、その時の印象は「難解だなぁ」という一点に尽きる。ラドンやクモンガが大暴れしたり、ジェットジャガーをフィーチャーした意外な人選には東宝特撮ファンとして喜びつつ、肝心の物語、というよりも作中におけるSF的なギミックしかり用語の意味であったり、要は「円城塔」という味付けを受け止めるだけの脳みそを、自分自身が持ち合わせていなかった。なぜか映像の中で登場人物だけが盛り上がっている、そんな疎外感の内に最終回を迎えてしまったような寂しさがあった。

 だからこそ、小説版をきっかけに見返してみて、新たな発見があった。週1に最新話を観るよりは、イッキ観の方が理解度が上がるのだ。何を当たり前のことを、と思われるだろうが、こと本作にとっては一週間空いてしまうことが致命的だったのだ。それこそ、最新話の前に前話を見返すとか、メモを取っておくなどしない限りは、置いていかれてしまう。前回までのあらすじを優しく振り返ってくれるような先生ではないのだ。必死に食らいついて、立ち向かうしかない。そういうアニメだったのだ。

※以下、アニメ『ゴジラS.P』の
ネタバレを含みます。

 前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』という作品とは何だったのか。身も蓋もない言い方をさせてもらうのなら、本作は「オキシジェン・デストロイヤーを使わずにどうやってゴジラを倒すのかという実験」だったのではないだろうか。

 ゴジラの死については、歴史上二度描かれている。悪魔の兵器オキシジェン・デストロイヤーで骨ごと溶かしてしまうか、メルトダウンによる自滅。60年を超える歴史の中で、明確に描かれたゴジラの死とはこの二例だけなのである(例外的にジュニアやフィリウスといった小型種、ゴジラになるはずだった恐竜が殺されたことがある)。直近の実写最新作『シン・ゴジラ』でも「凍結による共存」が精一杯で、ゴジラを生み出してしまった業を背負いつつ、人類はこの生物を超えることは芹沢博士以外成し遂げられなかった。

 そのことを踏まえての今作のキャッチコピーは、「抗えない未来<ゴジラ>を、覆せ」である。本作のゴジラとは、地球全土、あるいは宇宙全体をも破壊し尽くすとされる現象、通称「破局」をもたらすものとして立ちはだかる。放射能や核の象徴でもなく、宇宙怪獣と闘うヒーローでもない、いずれ必ず訪れる終末的な未来を運ぶ「システム」のようなものこそ、今作のゴジラなのだ。

 そんなゴジラ、及び破局を前に、二人の天才が己の頭脳で思考することでそれを回避せんとするサイエンス・フィクションこそが『ゴジラS.P』なのだ。ただし本作が導き出す結末は尋常ではなく、ゴジラを倒すために考え抜かれた答えに「ジェットジャガー!!!!!」と言い切ってしまう。

 ジェットジャガー。ゴジラファンには今さら説明不要だろうが、これほどにヘンな巨大ヒーローもいないだろう。日常生活の手助けをしたり子どもの相手をするロボットとして製作されたにも関わらず絶妙に厳つい顔、「良心回路が埋め込まれ」「奇跡的に自我に目覚め、巨大化してゴジラと共闘する」という、昭和特撮の牧歌的で呑気な作風の代名詞として数えられるほどの奇抜なデビューを果たし、復活の機会に恵まれずファイナルウォーズにも呼ばれなかった謎の存在。一度見たら忘れがたい顔面と活躍を見せ、「なんで巨大化したの?」と聞かれても長年のファンも答えに詰まるような、ぼくらのジャガー。

 そんなジェットジャガーが、ラドンやクモンガと闘い、日々学習するAIによって対話が可能となり、そしてCV:釘宮理恵になるなんて、誰が予想しただろうか。ジェットジャガーとの別れに涙する日が来るなんて、思いもしなかったはずだ。それが『ゴジラS.P』という作品なのだ。

 ジェットジャガー巨大化という胡乱奇跡を本物にしてしまう。本作の複雑な用語やSF的な考察も、全てはこの結末に沿って用意されたのでは、と思ってしまうほどに、あらゆる種が1話から最終話に至るまで丁寧に蒔かれているのである。

【用語】
アーキタイプ・・・紅塵を原料とする謎の物質。光を閉じ込め増幅するなど既存の法則を破る性質を持っているが、その実態は投射した光や物質などを過去に送り込みそれを時間を超えて折り重ねることでエネルギーを増幅させることを実現させている。
⇛ジェットジャガー巨大化に必要とするエネルギーを賄う

紅塵・・・アーキタイプの原料にして、ゴジラや怪獣たちが纏っている紅い砂のような物体。電波障害を引き起こし、怪獣たちの生命の源とも呼べるほどの重要な未知の物質。
⇛ジェットジャガー巨大化に伴う質量の増加問題を解決

超時間計算機
・・・入力に対し過去と未来に計算を仮託することで「瞬時に答えを導き出す」ことができる計算機。
⇛「ジェットジャガー最強プロトコル」を計算

【ペロ2/ジェットジャガーの対ゴジラプロセス】
1.超時間計算機に残された葦原のタスクを元にオーソゴナル・ダイアゴナライザーが破局を回避するコードを探すも、コードは見つからなかった。

2.銘が「歌」にメッセージが隠されている可能性を示唆

3.ユンから事前に送られていた「ジェットジャガー最強プロトコル」を発見し、超時間計算機による解析を行う。

4.紅塵によって通信が遮断されているため、現在のジェットジャガー(ユン)にプロトコルを届ける手段がない。⇛子守唄に「MD5ハッシュ」とプロトコルのコードを埋め込み「特異点」を用いて過去に飛ばした。

5.ジェットジャガーが子守唄からプロトコルを受け取り、再起動とアップデートを繰り返す。幼児化=ジェットジャガーとペロ2の「末裔」と呼ばれるほどの途方も無い誕生の繰り返し。

6.最強プロトコルの内容とは、「アーキタイプの異なる時間軸の物質を折り重ねて増幅する性質をもって紅塵を取り込み巨大化、自身がオーソゴナル・ダイアゴナライザーとなってゴジラを消失?させる」ことだった。

 『ゴジラS.P』の第1話は、ペロ2とジェットジャガーのモノローグによって幕を開ける。それは、破局=ゴジラを打ち倒すという結果、すなわち彼らにとっての現在であり(ユンたちにとっての)未来から過去(はじまり)の時間軸のユンと銘、そして自分たちに宛てられたメッセージでもあったわけだ。ゴジラを倒すために特異点と歌を介して“それが情報とわからないと情報だと認識できない”情報を送り続け、それが"正解がわからないと解けない問い”として1話の段階で提示されていた……。

 ゴジラを倒すたった一つの冴えたやり方。それはこの宇宙におけるオキシジェン・デストロイヤー、すなわちオーソゴナル・ダイアゴナライザーを用いてゴジラとその源となる紅塵ごと無効化する、というものだった。人間の頭脳が特異点という与えられたオーパーツを理解し、利用することでゴジラを超える。それは人類の知恵と科学を肯定した人間讃歌であり、開発者の命と共に消し去るしかなかったオキシジェン・デストロイヤーとは異なるオーソゴナル・ダイアゴナライザーによる勝利は、芹沢博士のような犠牲を出さない勝利という意味で1954年の『ゴジラ』を越えようとしている。ユンと銘が満を持して出会う本作のラストシーンは、ペロ2とジェットジャガーの祝福で幕を閉じるのだ。

 本作の面白いポイントは、ある意味で視聴者もこのギミックに巻き込まれた点だと思う。

 "正解がわからないと解けない問い”ことMD5ハッシュがゴジラ打開のキーとなるのだが、その計算の答えが「ジェットジャガーの巨大化」というのは実に痛快だ。なにせゴジラファンは「ジェットジャガーが巨大化することなど当然知っている」のであり、私たちはアニメを鑑賞し始めた瞬間からすでに”答え”を知っているのである。後は、それにたどり着く道標を登場人物が辿る、その奇跡を見守ることが我々の役目なのだ。ハードディスクに記憶されたデータに参照するかのように、私たちは『ゴジラ対メガロ』の記憶に手を伸ばし、ゴジラに立ち向かう。

 しかし裏を返せば、本作の弱点はゴジラファン向けすぎる、ということになるだろう。ジェットジャガーが巨大化する理屈を考案したアニメなど、事情を知らない人がどう受け取るのか、私には想像すらつかない。ロボットが現存のエネルギー保存の法則などを無視し未知の物質による効能で巨大化し、ゴジラを倒す。これに納得を抱けるかどうかはSF的ギミックに興味を持つ者かアニメの外で自主的に調べ物をする程度に関心を抱いてもらうしかなく、そのハードルはとても高い。私にとっての本作の「面白い」は、きっと狭い層にしか通用しないのでは、という恐怖と表裏一体なのだ。

 こうして、ゴジラと人類の闘いは、保留でも共存でもない、勝利という形でエンドマークを打つことが出来た。だが、残された謎も多い。その最たるものは、ゴジラとは何だったのか、ということだ。

 破局というシステムのようだ、と前述した通り、本作のゴジラにはどこか意思を感じない。核や放射能の象徴だった一作目は人類への怒りをもって上陸し、敵怪獣がいればそれに立ち向かう。ところが本作のゴジラはマンダやラドンを倒す描写こそあれ、東京に上陸してからは変体を繰り返し、熱線で首都を焼き尽くすくらいの働きで、何の動機を持っているのかがわからない。まさか、牧悟郎教授のように、人類の挑戦を受けて立つかのようにそびえ立つことが彼の役割なのだろうか。

 ゴジラとは、時代の写し鏡だった。恐怖の対象から子どもたちのヒーローへ、あるいは破壊と福音をもたらす驚異として、あるいは戦没者の怨霊として、時には地球自然そのものとして。その都度在り方を変え君臨し続けた怪獣王、彼が今回至った特異点とは何だったのか。その答えが空白のまま、アニメは最終回を迎えた。

 ではここで、円城塔先生からの"正解がわからないと解けない問い”へ、小説『ゴジラS.P』へと再び向き合っていくことにしよう。

※以下、小説『ゴジラS.P』の
ネタバレを含みます。

 ……と自信満々に豪語したはいいが、以下の文章は筆者の受け取った所感である、ということは改めて強調させていただきたい。なぜこのような「逃げ」の姿勢を取っているのかと言えば、円城塔氏が描こうとしたものを100%咀嚼できた自信を得られていないからだ。当然、間違いが含まれるかもしれない。それをご承知の上、お読みいただけると幸いだ。

 本書には、大きく分けて二つの視点から物語が進行する。一つはペロ2やジェットジャガー(に内包されるユング)、ナラタケといったAIによる視点。彼らは人間サイドの物語を、自分たちが端末ごしに眺めた情景を描写し、その記録が本の体裁を取っている。銘のPCやジェットジャガーの目、あるいは特異点(シヴァ)そのものにも入り込んだことのある愛しの人工知能たちは、今回起こった怪獣騒動における内情と、周辺人物のありとあらゆる情報を取り込んでいたようだ。

 したがって、小説版はアニメでは描ききれなかったものを補完する役割を担ってもいる。アニメが様々な事象の考察と現場応対に時間とセリフを割かねばならず(それが魅力でもあるのだが)、どうしても描写しきれなかった彼らの人間としての背景がようやく明かされる形になるのだ。銘やユンはどんな幼少期を過ごしていたのか、シヴァ陣営や鹿子―佐藤ら外務省組の思惑、父子でありながら肌の色が異なるBBとリーナの関係等など、アニメ版ではあえて削ぎ落としたであろう「人間ドラマ」の部分が、しかし場面の緊張感を霞ませることなく点在している。

 ではもう一つの視点とは誰のものか、と言われれば、必然それは「怪獣」そのものになってしまう。文中、ラドンやアンギラスの視点が挟み込まれ、彼らがどのような動機で行動していたのかが明かされると、見え方も大きく変わってくる。

 先程、本作のゴジラは「システムのようだ」という話をした。それは当たらずとも遠からずといったところで、小説版ではラドンやアンギラスといった怪獣たちもゴジラの意思によって活動しており、彼らはゴジラが世界を見る《目》として扱われていることが判明した。また、ゴジラは特異点であり、長時間計算機の性質を持つ、「未来を見る」能力を持つ生物である。その目的はミサキオク地下に眠るゴジラの骨を消し去ることであり、例の《歌》を手がかりにユンたちの前に現れたのがラドンやアンギラスだった。ところが、ゴジラにとって観測できないイレギュラーが存在し、それこそがあのジェットジャガーだった。ゴジラはこれを障害として判断、その排除のため動き出したことが、小説版で明らかになった。

 して、本当に恐ろしいことに、ここでいうところの「ゴジラ」とは、ユンや銘が立ち向かった“あの”個体を指すのではない。本書のプロローグ、《それ》と称される存在はいったい何者だったのか。それは、作品世界の外側に存在する神と等しき存在と化したゴジラ、とでも呼ぶべきだろうか。

《それ》は幾度も打ち倒され、叩きのめされ、立ちはだかるものを打ち倒し、叩きのめし、圧倒してきたが、それすらも、《それ》にとってはほとんどどうでもよい事柄だった。《それ》は何度でも似たような相手とまみえ、何度でも新たな相手と出会い、何度でも戦いを繰り返し、自らが完全に勝利するまで、勝利してからのちも、永遠に闘争を繰り返していた。永遠なるものさえすでに打ち倒していた。自らの敗北までも打ち倒し、自らが敗北する世界の全てを滅ぼしてきた。

【試し読み】ゴジラ S.P<シンギュラポイント> | 円城塔

 もはやどこが原初かはわからないが、仮にどこかの宇宙に《ゴジラ》という生命体が生まれ、ゴジラが立ちはだかる敵……人間や怪獣といった他の種を全て打ち倒し、やがては永遠なるもの、すなわち《神》に等しい概念でさえ滅ぼしてしまった。そのゴジラは神を超え宇宙を統べる存在となり、彼はあらゆる宇宙を知覚できるようになる。恐怖の対象から子どもたちのヒーローへ、あるいは破壊と福音をもたらす驚異として、あるいは戦没者の怨霊として、時には地球自然そのものとして。ゴジラは、「我々が映画として見てきた光景」すらもあらゆる過去や未来の一つのビジョンとして知覚する存在へと、一個体の生命としては尋常ではない成長を遂げてしまった。

 破壊の化身となったゴジラの目的は、自身の敗北の可能性を抹消すること。そのため、神に等しきゴジラは複数の多次元宇宙に介入し、宿敵を打ち倒していったことだろう。その旅の次の目的地となったのが、かつて葦原という男によってゴジラが殺され、唯一未来視が及ばないイレギュラー=ジェットジャガーが存在する、ユンや銘がいる宇宙。ゴジラは、その世界に介入する。紅塵とアーキタイプによって索敵端末としての《目》=アンギラスやラドンといった生命体を構築し、自身の分身たるゴジラ=ゴジラ・ウルティマを送り込む。宇宙の物理法則を破る特異点こそが“この”ゴジラであり、ヤツは破局という現象を持って自身の敗北の未来の可能性を打ち消さんとした、というのがアニメでは描かれなかった事の真相だったのである。

 ここにきて、アニメで描かれた人類とゴジラ・ウルティマとの闘いは、また別の意味を帯びてくる。ユンと銘の才能は、ジェットジャガーに宿るユングやペロ2といった人工知能たちの奮闘は、紅塵と怪獣による絶望から地球を救った。のみならず、彼らが認知する宇宙の外側に存在するゴジラに「敗北」という可能性を提示したのである。神に等しい存在からの理不尽な選別と破壊を退けた彼らの姿は人間讃歌という側面をより強くし、裏を返せばさらなるゴジラの介入による恐怖を予感させる。まるで、シリーズ2作目にして外宇宙からの侵略が多く描かれた『ウルトラセブン』のように。

 だとすると、小説版でもついぞ明かされることのなかった「ロボゴジラ」製造の真意とは、いずれ訪れる神との闘いを意識してのことだろうか。かつてゴジラを殺した男・葦原は、長時間計算機で破局を見たという。彼が見た破局の光景とは、最終話における対ゴジラ東京決戦のものではなく、より大きな存在との闘いの未来だったとしたら……。何にせよ、その真実は今の我々には知覚できない未来にあるらしい。

 こうして、『ゴジラS.P』の物語は終わる。だが、アニメ版のサブタイトルが円環構造を成していることを思えば、これは始まりでもあるのかもしれない。ゴジラと人類の闘いは終わらない。だとしても、その勝敗を分かつのは人間の叡智であり、間違っても原水爆やオキシジェン・デストロイヤーの再来のような、地球環境を乱すような手段であってほしくない、というのが私個人の届くはずもない祈りである。

 と同時に、宇宙をも圧倒する神としてのゴジラVS人類の技術の最高到達点としてのロボゴジラ、なんて続編があったら、私は喜んで再生ボタンを押すだろう。願わくば、ゴジラと相対するのは映画やアニメの中だけで、今この私が住む宇宙には、介入してこないでほしいものだ。

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