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金鉱の皇帝はどう生きるか『K.G.F: CHAPTER 1&2』

 インド映画を観る度に、好きな顔が増えていく。

 たとえば、以前『WAR!!』という映画を観て以来、私が思うこの世で最も美しい人間の顔面とは、リティク・ローシャンのそれになってしまっている。彼の美しさを表す言葉を、残念ながら持ち合わせていなかったボクは、途方に暮れ、ただただ宝石の如き輝きを秘めたその瞳に、恋い焦がれ続けている。

 というわけで、極東の国で最も惚れっぽいことに定評があるボクですが、今日もまた一目惚れをして映画館から帰宅しました。奥さん、今日はこの人の名前だけでも覚えて帰ってくださいね。Yashさんといいます。

 あえて言語化を試みるとするのなら、その魅力は野生の荒々しさ。ワイルドという言葉のウィキペディアに参考画像として載せられても違和感がないその顔、そして眼である。相手を射抜く視線の強さは敵であれば畏怖を、恋人であればトキメキを感じずにはいられない眼差しで、どういうわけだがずっとシャツの第二ボタンが開いているせいで色気が「ムンッ」と豊かな胸板からダダ漏れになってしまっている。歩き姿一つとっても、強烈な「オス」を感じてしまうような、セクシーモンスターのYashさん。

 そんな彼の主演作『K.G.F』を観て、今はただただ困惑している。前編後編合わせて322分という超大作に対し尻と膀胱が限界だったとか、そういう面も無きにしもあらずなわけだけれど、最大の原因は何より「面白かった」ということ、これに尽きる。いや、むしろ面白すぎたのが悪くないだろうか。まだ『RRR』もやってるのに、もうこのレベルの映画が来ちゃった。勘弁してほしい。もうちょっとこう、手心をさぁ……。

1951年、スーリヤワルダンはコーラーラ近郊で金鉱(KGF)を発見。全てを一族で管理して巨万の富を築くいっぽうで、労働者は外部から遮断され奴隷のように働かされていた。
同じ年にスラム街でひとりの少年が生まれる。少年は唯一の身内であった母を10歳のときに亡くし、生き残るためにマフィアの下で働き始める。ロッキーと名乗った少年は、マフィアの世界でのし上がっていく。やがて最強のマフィアとなったロッキーは、ボスからKGFの支配者であるスーリヤワルダンの息子を暗殺するよう指令を受けるのだが…。

公式サイトより

 少し前、「スラムのガキから王になれ!」のキャッチコピーが妙に頭に残る映画があったけれど、本作『K.G.F』も実はそういう話。インドの巨大な金鉱が発見され、それと同じ日に産まれた一人の少年。少年はすくすくと成長するも、たった一人で少年を育てていた母は病に倒れ、そのまま息を引き取ってしまう。母は、亡くなる前に少年にこう告げる。「どう生きてもいい。ただ死ぬ時は、巨万の富を携えて死になさい(意訳)」と。

 貧しさゆえに最愛の母を失った無念を抱え、その誓いを胸に秘めた少年は、ボンベイに移り住みマフィアの元で働き、名を挙げるために警官に暴力を振るう。追ってくる警官から逃げる少年だが、「逃げたら俺の名前が知れ渡らない」と、逃げてきた道を逆走し警官の元に再び現れる。この日、新たな悪のカリスマが産まれた。その名は、ロッキー……

 シビれるような遍歴を経て、ついにYashさん演じる、成人になったロッキーがスクリーンに顕現する。本作は、ロッキーという伝説の男を後世に語り継ぐ者の回想によって展開され、波乱万丈という言葉では言い表せないほどの人生を観客も一緒に追っていく、という構成をとっている。ロッキーはアウトローかつ犯罪者でもあり、高潔なヒーローとは言い難い。しかし、母との誓いに愚直に邁進し、数えきれない人々の勇気を鼓舞し、愛した女性には脇目を振らずアタックしてくる。そんな一人の人間の成り上がりストーリーが、いつしか「インドを敵に回す」レベルまで発展してしまう。スラムのガキが、一国家と対等に交渉する個人にまで這い上がってしまった。

 ロッキーという男の武器は、強大すぎるほどのカリスマ性である。高級スーツを難なく着こなし、いついかなる時も堂々と振る舞い、破天荒な行動で常に相手より一歩先を行く。女性へのアプローチがややヘンではあるが、その出自ゆえに「母親こそ最強の戦士」という思想を持ち、子持ちの女性にはとにかく優しく、尊敬を絶やさない。一流のビジネスマンであり、革命家であり、戦士でもあるロッキー。私はこの男に、方向性は違えどあのバーフバリのDNAを感じずにはいられなかった。

 ただし、その覇道は血に塗れきっている。警官を殴って名を挙げたロッキーの人生は、暴力とは無縁ではいられないのだ。その手法も多種多様で、敵から奪ったパイプだったり採掘用のハンマーだったり、カラシニコフからバイク(!?)まで武器にして、多数の敵を振り払う。当初の予想を遥かに超えるバイオレンス描写が連発し、その有様を「俺は暴力が嫌いなんだが……暴力が俺を愛してくる(Violence loves me)」とのたまい、全編暴力が発動するハードルだけが異様に低いので、ロッキーを敵に回した者や老人を虐める輩がいつの間にか宙を待っているシーンが連発する。

 ロッキーはあまりに強く、その暴力性は作中で「」と表現され、災害に例えられるという点で『ジョン・ウィック』を思い出す映画ファンも多いと察するが、コイツが暴れるとマフィアが壊滅するという意味では両者に共通点は多い。ジョン・ウィックがスマートかつコンバットに敵を制圧する強さなら、ロッキーは暴れ馬の如き猪突猛進で向かってくるハリケーン。その渦に絡め取られた者に命の保証はなく、敵の返り血で汚れたスーツでさえも何だか色っぽいロッキーは、常に他者から恐れられているのだ。

 『バーフバリ』シリーズとも共通するのだが、本作はロッキーの生き様をその眼で目撃した者が、その体験談を語る、というテイストを取っている。インドから恐れられ、記録を残すことも禁じられたというこの男の伝説は、公式な記録ではなく人の口から語られなければならないのだ。

 一国家を相手取り、巨大な金鉱を「街」にまで発展させてしまった、一人の人間が行ったとはにわかに信じだがたい偉業を成し遂げた男。彼の物語は後世に神格化され、英雄譚として語り継がれる。ロッキーが民(金鉱で働かされている奴隷たち)のヒーローになるまでを、儀式性と神への信仰を踏まえた印象的なシチュエーションが飾り立てていく。名もなき奴隷たちは、いつしかロッキーを命がけで守る兵士と化していき、記者はその物語を語り継ごうと必死に抗っていく。

 そんな形式を取る本作だが、少なくとも前編に相当するCHAPTER 1 では、語り手の気が早まって時系列が入り乱れたり、「語りたいところだけを先に語る」みたいなことをするため、正直に言えば観客に優しい映画とは言い難かった。登場人物が多く相関図もどんどん複雑化していき、上映時間の長さがそれを後押しするせいで、鑑賞中は常に難解なパズルを組み合わせなければならない。ロッキーを目で追っていれば充分に楽しめるが、時折「今何を争ってるんだっけ?」「この人はどっちの陣営だっけ?」が頻発したことは告白しておきたい。

 しかし、後編のCHAPTER 2 では、この問題は一気に解決する。なんと敵対するマフィアのキャラクターが序盤でわりとたくさん退場するので、相関図が見違えるようにスッキリ。その上でいかにもラスボスでございと言わんばかりの宿敵アディーラ(中世みたいな剣使い!)と、インド首相ラミカ・センとの対立に物語が整理され、見違えるように見やすくなるのだ。バイオレンスなアクション、ラブロマンス、マフィアもの、強い女性たち……。エンタメのあらゆる要素を詰めれるだけ詰め込んだ娯楽性の高さは、インド映画の豊かさに改めて嬉しくなってしまう。

なお、本作は「サンダルウッド」と呼ばれるカンナダ語映画。

 圧倒的なカリスマを振りまき、立ちはだかる全てをなぎ倒し、安寧と生きる希望を与えてくれる。目上の男性を兄貴と呼ぶのはインド映画ではよく見る風習だが、この映画は「兄貴」と呼ばれ、崇められる人間とはどういうものであるかを、鮮明に描き出している。ロッキーという男はあまりにアナーキーで危険で、同時に目が離せないくらい魅力的で、いつだって格好良かった。人の上に立つべき人間の生き様とはかくあるべしと、昇進試験に落ちたばかりの私なんかはロッキーから学ぶことばっかりだ。

 ロッキーに影響されてハンマーを持って出社しそうになったら誰か止めてほしいものだが、この映画を観た後は肩で風を切って歩きたくなる、そんなエンパワーメントに満ちた傑作だ。1の時点でエンタメの幕の内弁当的な面白さを有しているのに、ありとあらゆる要素がパワーアップし、スケールも数字の桁も映像もとにかく全てがデカくなったCHAPTER 2 の圧倒的な面白さに、ぜひ打ち震えてほしい。このnoteを読んでもまだ座席を予約していないのであれば椅子に縛り付けてでも観ていただくしかないわけだが、観た後あなたは私に感謝するはずだ。

 こんなに顔のいい人を紹介してくれてありがとう、と。

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