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“Say, do you remember?”『ロボット・ドリームズ』

 映画『ロボット・ドリームズ』を観た。気の利いた序文なんて思いつかないし、率直に結果から言わせていただくと、ガボ泣きした。

 より具体的に言えば、「映画が17:30に終わるので前々から気になっていた飲み屋に行って独り飲みしてから帰ろう」と思っていたのに、泣きすぎて誰にも顔を合わせられない状態になったので急いで帰って今これ書いてる、ということになる。キラキラした週末の最後、日曜日の夜に、顔面グッズグズになった成人男性が一人。イヤホンから流れるのはもちろん「September」。

 この映画のことを、どう話すべきか、迷っている。なぜ泣けたのかを言葉で説明したって、何の意味も持たない。出会いと別れ。人生の中で幾度となく訪れるそれを、102分に凝縮したと言えばそれまでだ。あるいは、「孤独」の恐ろしさであったり、勇気を出してみれば人生が少し明るい方向に進むことだったり、そばにいるだけでは収まらない「他者を想う」ということだったりと、この映画が教えてくれることは究極に普遍的であり、だからこそ万人の胸に刺さるのだと思う。

 『September』に始まり、『September』で終わる。あの涙腺崩壊間違いなしのラストシーンに向けて、本作は着実に積み重ねていく。ロボットが健気に口笛を奏でるあの曲は、二人が二人でいられた思い出の一曲で、彼に心があるとすれば(あるとしか言いようがないが)『September』は「希望」だった。ロボットはとある鳥の家族と出会うのだが、不安にかられ泣きじゃくる幼鳥に聴かせたのも、『September』。手足も動かせない、ただただ待つしかできない日々の中で、ロボットは幾度となくこの楽曲を口ずさんだであろう。それを思うと、胸が締め付けられて上手く文章が打てない。

 クライマックス、積もり積もった『September』という爆弾がついに爆発して、感情のメーターが振り切れてしまった。この曲にまつわる思い出も、想いも、二者は共有している。されど、画面中央に線引きがされることで、ドッグとロボットは夢やイメージの中で再会することもなく、もう会えないということをはっきりと明示している。ロボットは新しい身体を得て、自分で人生を選べるようになった。ドッグは新しいロボットとの関係で、傷を癒やして生きることを選んだ。そのすれ違いが、どうしようもなく切なくて、観客だけが二人が手を取り踊る風景を幻視する。

 過去はこうして思い出になり、傷はかさぶたになる。これが大人になるということならば、痛くて苦しいけれど、孤独を埋められる方法をなんとかこうにか見つけ出して、毎日をサバイバルしていく。思い返せば、私とドッグは似ている。だから、あの方法に至った彼に、私は石を投げることなんて出来ない。成長って、映画やアニメみたいに劇的なものじゃないんですよ。

 生きることの痛みを知る皆さんへ、『ロボット・ドリームズ』を観てください。もう、これ以上文章が打てない。

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