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善意は断絶を越える。『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

 映画を観た感想が「鶏を貪りたい」とは何事か。いえ別に狂ったわけではなく、いっぱい泣いてお腹が空いて、タンドリーチキンをたらふく食べたくなるような、そんな映画を観たからなんです。俺は正気だ。

声を発することが出来ない6歳の少女シャヒーダーは、パキスタンの小さな村から願掛けのためにインドを訪れる。しかし、その帰り道で母親とはぐれてしまい、彼女はたった一人でインドに取り残されてしまう。そんなシャヒーダーが出会ったのは、ハヌマーン神の熱烈な信者である青年パワン。正直者でお人好しなパワンはシャヒーダーを預かることにするが、彼女がパキスタンのイスラム教徒だと分かり驚愕する。長い対立の歴史を持つインドとパキスタン。しかし、パワンはシャヒーダーを家に送り届けることを決意し、パキスタンへの二人旅が始まる。

 本作を観る前に知っておきたいのは、インドとパキスタンの二国間における緊張関係のこと。かつてイギリスの占領地であったインドは、ヒンドゥーとムスリム、二つの民族と宗教に分かれ、パキスタンが英領インドから分離独立した。その後、領地を巡っての武力衝突が起こり、第三次に及ぶ印パ戦争が繰り返された。略奪と殺戮、暴行が発生し、二国の敵対関係は強まっていく。お互いが核保有国であることを踏まえていれば、宗教対立やテロによって核戦争勃発の可能性すら在り得る。劇中、パワンが「インドのスパイ」としてパキスタン警察から疑われ、非道な暴力を受けるのも、そうした背景があるからだ。

 だからこそ、ビザもパスポートも無い状態でパキスタンに行くというのは自殺行為に近いものかもしれない。シャヒーダーがパキスタン人だと知った時の周りの反応を踏まえると、両国には大きな断絶の歴史があり、国境に建てられた大きなバリケードがそれを物語っている。

 そうした歴史を持つ国から、宗教・文化に及ぶメッセージが込められた本作のような映画が製作されるのは、手を取り合い世界を変えようと発し続ける人がいるからだ。その発起人こそ、ご存じ『バーフバリ』シリーズの監督であるS・S・ラージャマウリの実父であるK・V・ヴィジャエーンドラ・プラサード氏。彼は本作の監督であるカビール・カーンに作品のアイデアを話し、監督も映画化を即座に決断したという(劇場パンフレットより)。その結果、本作はインド映画世界興収歴代3位(※2018年10月現在)を記録する大ヒット。正直者で信心深い青年と口のきけない少女の旅が、作中同様にたくさんの人の心を動かしたのだ。

 本作は、底抜けに明るく陽性の作品だ。主人公のパワンは自他共に認めるハヌマーン神への熱心な信者で、その教えに従い嘘をつかず正直に生きてきた誠実な男。彼は母親とはぐれた少女を見捨てることができず、居候先の家に連れ帰るのだが、口をきけないシャヒーダーとのコミュニケーションに戸惑いつつも、彼女を守る父性にも似た心に目覚めていく。

 そんなパワンの人柄を示すのが、仲の良い親子を見て母を思い出し落ち込むシャヒーダーに向かって、「チキンを食べよう」と励ますダンスシーン。インド映画ならではの愉快なダンス、滑稽な振付とこちらの食欲を煽る歌詞・映像がとにかく楽しい名場面だが、宗派の都合上菜食主義であるパワンとその恋人であるラスィカーは、シャヒーダーと一緒に食卓を囲むことができない。それでも、シャヒーダーを励ますために宗教という枠組みを取っ払って、彼女を元気づけるために一生懸命歌って踊る。その優しさがあってこそ、国境を超えるという命がけの決意にも説得力が生まれるのだ。

 一度はシャヒーダーを手放し、怖ろしい現実を見せてしまった後悔と、自責の念から流れたであろう涙。強い信念と神の教えを胸に、シャヒーダーを親元まで送り届ける決心をするパワン。嘘がつけない融通の利かなさ故に、異国パキスタンで幾度となくピンチに会うのだが、偶然出会った記者のチャーンド・ナワーブ(a.k.a. 最高の男)の機転や、パキスタンの人々に助けられ、少しずつシャヒーダーの故郷への手がかりをつかんでいく。

 (不法入国者という前提はあれど)インド人というだけでパキスタン警察から追われるパワンだが、一方で、彼らに暖かい言葉をかけ、助けてくれる人たちだっている。バスの係員やモスク(イスラム教の礼拝堂)の人たちのように、国家間の対立に囚われず、目の前の困っている人を助けようとする心の持ち主もいることを、本作は公平に描いている。そしてそれは、この現実世界でも同じ事なのだ。シャヒーダーを想うパワンが国境を越えたように、目の前の誰かに対する小さな優しさだって、宗教や国が違えどその行いは正しく、尊いはずだ。本作が伝えたいものは、そうした細部に宿っているのだろう。

 作中、ナワーブはYouTubeを用いて、人々の良心に訴えかける。パワンがなぜ危険を冒してでもパキスタンへやってきたのか。我々が今何をすべきなのか。国境を飛び越えて発信できるインターネットを通じて、画面の前にいる二つの国に生きる者たちへ、そしてスクリーンの前に座る観客へ、語りかける。国や宗教、人種が違えど、想いは一つになるはずだ、と。国境を隔てる河、二つに分かたれた国の人々が成し遂げた奇跡は、どうしたって感動してしまう。パキスタンで学びを得たパワンが行うとある仕草も、胸を打つ。その瞬間確かに二つの国の人々は、分かり合えたのだから。

 これは、実際の本編ではカットされてしまった、エンディングのダンスシーン。インド人とパキスタン人を演じたキャストたちが抱き合い、笑いあう姿が描かれる。「この映画の感動的な余韻を削いでしまうのではないか?」という意見によりお蔵入りになったものの、実際の映像は喜びと笑みに満ちている。これが”理想”だとしても、そうありたいと願う作り手の気持ちは、報われて欲しい。一人の青年と少女の旅路を通じて歴史を知り、平和を願う気持ちに涙が止まらない。これほどに「観て良かった」と清々しい気持ちにさせてくれるのだから、映画とは素晴らしいものだ。

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