感想『小説 仮面ライダーディケイド 門矢士の世界~レンズの中の箱庭~』
先日、こんなテキストを投稿した。
当時放送開始直前だった『仮面ライダージオウ』の予想を兼ねた、平成ライダーお祭りタイトルの大先輩こと『仮面ライダーディケイド』の総括。今思えば、『ジオウ』本編が常にこちらの予想を超えるクロスオーバーを展開してくれており、事前の想像のなんと浅はかなことか。時折読み返しては、恥ずかしくなってしまう。
そんな『ジオウ』にとうとうディケイド先輩が「通りすがる」ことが発表され、ライダーファンに衝撃が走った。しかも変身ベルトがアップデートされるという凄まじいオマケ付きで、次回放送が待ちきれないファンの期待の声がSNS上で溢れかえっている。
そして偶然にも、そんなニュースが駆け巡った2018年11月25日に、小説版『ディケイド』を読破した。発売から5年、読もう読もうと思いつつも買いそびれていた一冊と、こんな喜ばしいタイミングで再会しようとは、夢にも思わなかった。勝手に運命じみたものを感じつつ、読み進めていくことができた。
講談社キャラクター文庫より発売された「小説 仮面ライダー」シリーズは、本編から派生した番外編や正統続編、あるいはパラレルな世界観など作品や著者によってアプローチは様々だが、どれも原作のスタッフが執筆・監修を担当しているため、いろんな角度から作品を読み解くことのできる、ファンにとってはたまらないコンテンツとなっている。
『小説 仮面ライダーディケイド 門矢士の世界~レンズの中の箱庭~』は、原典となる『仮面ライダーディケイド』が並行世界、パラレルワールドを扱った作品ということもあり、本小説も本編(TVシリーズや劇場版を指す)から派生したパラレル的な位置に治まっている。とはいえ、キャラクター設定や世界観などが大幅に変更されており、単にTVシリーズを書き起こしたノベライズではない、小説版ならではの『ディケイド」というわけだ。
そんな本作最大の特徴は、各平成ライダーのオリジナルキャラクターが登場する、という点にある。ディケイド=門矢士と旅の仲間が9つの平成ライダーの世界を巡るという枠組みを受け継ぎつつ、「クウガの世界」なら五代雄介と、「カブトの世界」なら天道総司と共闘する、というのが原典との相違点となっている。
上記は前述した総括テキストからの引用になるが、ディケイドが辿る世界はあくまで「二次創作」された世界であり、必ずしも原典のキャラクターとクロスオーバーをするとは限らなかった。その点、演者の都合度外視でオリジナルキャラクターを登場させることができる、小説という媒体の強みを本作はいかんなく発揮している。しかも本作で通りすがるのは『クウガ』『電王』『カブト』の世界であり、穿った見方をするのならキャストを呼ぶのが難しい作品をあえてチョイスしたのではないかと、邪推したくなってしまう。
そうした世界を旅する我らがディケイド=門矢士も、原典とは違った味付けのキャラクターに生まれ変わっている。不遜な態度と尊大な物言いがトレードマークな点は据え置きだが、その裏に秘めた「弱さ」が強調された性格付けがなされているのだ。
以下、本作のネタバレを含みます。
このように、ディケイドとして異世界を旅するという行為は、士にとって現実逃避としての意味を持つ。自身が生きる現実世界に居場所を見いだせない彼は、謎の戦士「ディケイド」として怪人と闘うことで、日々感じている空しさや不安から解き放たれていくことを実感し、「仮面ライダーとして戦う事」そのものを楽しむようになっていく。士らしさの象徴でもある尊大な言動は、ディケイドであることの全能感より生じるものであり、ひとたび現実世界に戻ればまるで別人のようにネガティブな本性が表れる。
本編と異なり記憶を喪失したわけではないものの、自分の世界=居場所がわからない、という不安を抱えている点では共通しており、むしろ小説版は門矢士の「弱さ」に焦点を当てている。ディケイドという「仮面」をひとたび剥がしてしまえば、不確かな自己を肯定できない弱さに向き合えず、ファインダー越しの世界に逃避することでしか自分を守れない。門矢士というキャラクターが持つ「アイデンティティーの不確かさ」という要素を色濃く抽出した存在こそ、小説版の門矢士である。
そんな士を異世界に誘う「光写真館」とは、今いる世界を忌み嫌い、ここではないどこかを求める者だけが辿り着く廃墟。士と共に並行世界を旅してきたナツミカンこと光夏海、仮面ライダーディエンド=海東大樹も、自分の世界を捨て別天地を求める旅人であり、士同様に現実逃避を続けてきた者たちであった。その逃避行の慣れの果てとして、元いた現実社会を忘れ去ったがゆえに怪人と化した鳴滝が士の行く先々に現れ、彼を「悪魔」と罵る。
本作における鳴滝は、士にとっても悪しき未来の象徴である。このまま異世界への逃避を続ければ、己も醜い怪人と化してしまう。鳴滝との対決とは、士自身が現実から目を背けてきた自分と対峙することを意味していた。
そうした対立軸から逆算すると、本作で通りすがった世界のチョイスにも納得がいく。4体のイマジンと共生しながらも確固たる自己を失わなかった野上良太郎、「自分の行いに納得している者」である五代雄介、唯我独尊を体現する天道総司。強すぎる個性と出会い、彼らに成長を促された士は、いつの間にか芽生えた、旅の仲間を失いたくないという想いに気づく。己の自尊心を満たすためでなく、夏海を守るために変身することを選ぶ最終決戦において、ディケイド=士は真のヒーローとなるのだ。
かつての弱い自分である鳴滝を倒した後に訪れる、ささやかなエピローグ。光写真館の性質を思えば、様々な解釈が可能なラストになっており、最後の一文が複雑な余韻を残す。劇場版『MOVIE大戦2010』では旅を続けることこそディケイドの物語であるとしてレゾンデートルを確立するわけだが、本作は「旅を終える」ことが成長の証として描かれる。そして士同様に旅人である夏海の終着駅はどこなのか。その答えは読者に委ねられているのだろう。
『ディケイド』のお祭り作品としての陽性の部分を排除し、キャラクターの心理を深く追求した小説版。本編と地続きというわけではないが、心の闇を増幅した結果としてのIFな小説版のキャラクター像を通して、門矢士という人物の掘り下げに挑戦した意欲作である。
一方、描きこみ不足な点が目立つ、惜しい作品にも仕上がっている。とくに、夏海や鳴滝が現世を厭うきっかけが描かれず、その切迫感が伝わりづらいのは致命的だ。悪役の動機に関わる部分であり、TV的な表現規制からも解き放たれたメディアなのだから、しっかりと描写が欲しかったところ。
また、肝心のキャラクター描写にもリサーチ不足な点が散見される。キャラクターの一人称や呼称、変身アイテムの名称など、改変なのかミスなのか判断に迷う塩梅で原作と異なっているのだ。「剣を使う赤いクウガ」「マントを付けたキバ(エンペラーではなくキバフォーム)」といった描写は、とくに違和感を抱きやすい。天道総司は本編と謙遜ない完成度を誇る一方で、五代雄介はもはや別人レベルで天然寄りに描かれているのも、ファンの神経を逆なでするだろう。小説版と各作品の原典は地続きでないという言い訳もできるが、オリジナルキャラクターを登場させるのだから、監修に手抜きを感じられるのは無視できぬ問題点である。
そういった意味でも波紋を呼ぶのも、異端児たる『ディケイド』らしさでもあるわけで、小説版単体で完結する本作は、最もコンパクトなディケイドの物語だ。平成ライダー10周年を祝うコンセプトから解き放たれた、人間・門矢士の物語としての本作も、無数に広がるパラレルワールドの可能性の一つ。あったかもしれない未来の一つとして、「本編とは別物!」という前置き付きで、興味深い一冊だった。