見出し画像

『トップガン マーヴェリック』トム・クルーズと映画は相思相愛。

 これは、懺悔である。私は、劇場が消灯し、パラマウントのロゴが大画面に映るその直前まで、『トップガン マーヴェリック』のことをナメていた。

 『トップガン』は80年代を代表する青春映画の金字塔の一つだが、裏を返せば「80年代だからこそ」の魅力に満ちていた。無鉄砲な若者の若さゆえの増長と大いなる喪失、奔放な恋愛模様、シンセの旋律が愛おしいヒットソングの濁流、無から湧いてきた敵国などから生じる時代相応の大らかさや牧歌的な雰囲気は、混迷極める現代にマッチしないのではと、いらぬ心配をしていたのである。

 こうして書き散らしてみて、いかに鑑賞前の自分が愚かで罰当たりなのかと、情けなくて涙が出る。短い人生、一瞬たりともトム・クルーズを疑う時間はない。あの日私が観たのは、真の【映画スタァ】であるトム兄貴の、映画に対する迸る愛と、青空を突き抜けるような浪漫だった。

 もう一度言う。これは懺悔だ。『トップガン』を時代遅れの産物だと一瞬でも侮った私が、頭を垂れて「マジ有難(あざ)っす」しただけの、ただの記録である。ネタバレはあるが、気にせず読んでいい。こんな文章では、『トップガン マーヴェリック』の輝きは一切損なわれないからだ。

マーヴェリックはあまりにトップガンすぎる。

 断言する。もしあなたが『トップガン マーヴェリック』に対して不安を抱いているのなら、それらは全て杞憂である。

 例えば私は、「ケニー・ロギンスが流れなかったらどうしよう」とずっと考えながら劇場に向かっていた。「Danger Zone」は当時を知る生き証人(おれのマミーだ)曰く「どのカーステレオからも流れていた」ほどに一世を風靡し、ドライブデートのお供として『フットルース』と肩を並べるヒットソングだったが、「原曲なんて古いよ。今バズってる歌手にカバーさせたバージョンを流そうよ」などという腰抜けが製作人にいたとしたら、私はその瞬間に劇場を退席していたかもしれない。

 ところが、本作がどういう作品であるかは、映画が始まった瞬間に宣言される。パラマウントのロゴと共に流れる、「Top Gun:Anthem」の鐘の音。大スクリーンに広がる空母と夕日。大写しになるキャスト&スタッフのテロップ。慌ただしく動き回るクルーがサムズアップで準備完了を伝播し、カタパルトにて待つパイロットがそれを受け敬礼、F-18のエンジンに火が灯り轟音が劇場を包み込む。すべてが頂点に高まった瞬間、空母を勢いよく飛び出す戦闘機!そして「Danger Zone」の原曲の勇壮でロックなイントロ!!!!う、うわぁぁぁあぁぁあああっぁあああああ~~~~~~!!!!!!!!

 この冒頭が示す通り、本作の作り手は「なにがトップガンをトップガンたらしめるのか」を研究し尽くし、それを余すところなくフィルムに焼き付けている。我々のDNAに染み付いたトップガンらしさを、照れ隠しも捻りも加えず、全力120%でブチこむ。あの少しザラついたフィルムの質感でさえ涙腺を刺激するほどに、ジョセフ・コシンスキー監督とトム・クルーズ(主演のみならずプロデューサーも兼ねている!)はこの1シークエンスで我々の「信頼」を勝ち取った。

 「トニー・スコット監督じゃない」だとか「現代向けにアレンジされたらどうしよう」だとか、そんな心配はご無用だ。なにせ『トップガン』をこの世で誰よりも理解している主演俳優が送り出した渾身の一作が、「トップガンらしくないわけがない」のだから。80年代の映画への憧れや愛着を強烈に喚起させるこのシーンを観れば、IMAXやドルビーシネマの追加料金ですら二束三文も同然である。

トム・クルーズを信じろ

 先程の内容と矛盾するようだが、本作は単なる懐古映画ではなく、ちゃんと現代向けにアップデートもされている。というよりは、作り手自身が一作目から36年も経過していることに誠実に向き合っている、という印象を受けた。

 トム演じるピート・“マーヴェリック”・ミッチェルは相も変わらず度胸と操縦能力は群を抜いているが、上官の命令を無視するやんちゃな一面も確かに残っている。マーヴェリックは前人未踏の「マッハ10.0」をたたき出すものの、時代はドローンに傾きつつあって、有人飛行の戦闘機やパイロットはいずれお払い箱になる。マーヴェリックはその後トップガンに舞い戻ることになるのだが、そこでも「最後の任務」と上官から釘を刺されてしまう。彼は英雄であり最高のパイロットなのだが、同時に過去の人扱いをされている。

 これは、『トップガン』に対する私の態度そのものだ。名作だし、愛しているものの、それを当時劇場で目撃したわけでもなく、円盤や配信でしか触れられなかった身として、『トップガン』とは記録でしかなかった。トム・クルーズとトニー・スコットの代表作。デンジャーゾーンが流れるアレ。そんなふうにしかトップガンを説明できなかった私は、マーヴェリックの才能を勲章や報告書でしか測れなかった作中の上官とも重なる。

 だからこそ、マーヴェリックが「現役」であることを証明するシーンが、痛快でたまらない。冒頭のマッハ10もそうだが、白眉はやっぱり「奇跡」を証明するあのシーンだろう。低速で岩地を縫うように飛び、背面飛行で崖を飛び越え、爆撃対象に素早く攻撃して急上昇し、敵機とミサイルの追撃を逃れる。このやり方で無ければ戦死者は免れないものの、飛行そのものが危険すぎて、いくらエース中のエースが集結しても成功率は上がらない。もう絶望的か……と思わせておいて、マーヴェリックは自ら証明してみせるのだ。不可能なんてないのだ、と。

 作戦を成功させ、全員で生還する。そんな無茶を現実のものにするために、まずはマーヴェリックが(トムが)身体を張る。それはマーヴェリックがパイロットとして生きる誇りを示し、そしてトム・クルーズが最高のアクションスタァであることを高らかに宣言する。リスクを避けたい業界の人々は、「もうトムさんも還暦なんでネ!もうそろそろ落ち着いてスタントさんに任せるのもネ!いいんじゃないですかネ!」と言いたくもなるのだろう。トムが危険なアクションを買って出て、もし大ケガでもすれば、万が一死亡でもすれば、どれだけの企画が頓挫して、どれだけの損失が生じるのか。それを思えば、飛行シーンはセットとCGで撮りましょう、と進言する人間がいても、責めることはできない。

 だが、この映画の主演はトム・クルーズであり、トム・クルーズはいつだってトム・クルーズである。たとえ死の危険があっても、本物を飛ばすことに意味があり、自分が演じることで生じる迫力が観客の胸を打つことを、彼が一番理解している。その頑張りは、現実でもドローンに取って代わられる戦闘機パイロットや、配信優先に代わっていくことへの違和感を抱く業界人や映画ファン、それらをひっくるめて映画を観たすべての人に勇気を与えるはずだ。だって、トムが最前線で頑張ってるんだから。エンドクレジットのパイロット欄に燦然と輝く「Tom Cruise」の名を観て、打ち震えたはずだ。

背中を預ける、ということ。

 『トップガン マーヴェリック』はトム・クルーズが現役であることを堂々と宣言している。が、後進を育てることにも手を抜かないところがマジで推せるし、最高である。ウチの上司もこうなってほしい。

 トップガンに集う若手パイロットたち。このnoteにたどり着いた各位のタイムラインは、彼らが口々にトムを絶賛するエピソードが席巻しているはずだが、彼らも「トム兄ぃのために」過酷な撮影を耐えてきたに違ない。トムの人徳が無ければ、誰が好き好んでGを耐え忍びながら演技して、訓練後にゲロまみれになる映画になんて映りたいものか。全ては、トム・クルーズ無しでは成立しないフィルムなのである。

「僕にとってのヒーローであるトム・クルーズとジェリー・ブラッカイマーが、僕のための役を作り上げていきたいと言ってくれたんだよ。まさに夢のようだった」と、パウエルは語る。

『トップガン』続編で新鮮な魅力を放つ若手キャストたち 
トム・クルーズとのオーディション秘話

 中でも外せないトピックは、あのグースの息子であるブラッドリー・“ルースター”・ブラッドショウがいることだ。マイルズ・テラーがアンソニー・エドワーズに瓜二つなヴィジュアルで演じきったルースターは、当然ながらマーヴェリックに好ましくない感情を抱いている。自分の父を、(訓練学校に通えなかったため)4年間を奪った憎き相手が教官とになる運命の巡りあわせに、彼の心中は穏やかではなかった。

 これはマーヴェリックが教官として、あるいは父変わりとして乗り越えるべき課題であり、ルースターにとっても払拭しなければならない呪いであった。憎しみでフライトすれば、生きては帰れない。だが、ルースターの命を託されたマーヴェリックにとって、彼の死は再起不能の重症となるだろう。出来ることなら、飛ばせたくない。そんな想いに苛まれた夜もあるはずだ。

 だが、パイロットというのは、飛ばなければ生きられない生き物だ。自分がそうであるように、マーヴェリックはルースターを生かすために、彼を前線に送り込む決断をする。取り返しのつかない結末を招く危険性を孕みつつ、「それでも」を貫き通す。誰か一人でもミスをすれば成功はありえないミッション、その最終工程である爆撃を託したのも、彼を信じてのことだ。お前なら飛べる。Don't think,do it.の精神だ。

 映画前半、作戦を開示するためのブリーフィングにて、敵の基地にF-14があることをさらっと提示しており、予感はしていた。が、実際に画で観て、想像以上の感動が襲い掛かってきた。F-14にマーヴェリックとルースターが乗り込む。言うまでもなく、かつてのマーヴェリック&グースの在り方そのままだ。前述の「なにがトップガンをトップガンたらしめるのか」の尺度で言えば、F-14は『007/スカイフォール』におけるアストンマーチンの役割を果たしているし、互いが互いの命を握る状況でのドッグファイトをすることで二人が「相棒」になる展開も納得度の高いものになっている。

 本来であればマーヴェリックが前線に出ること自体がイレギュラーであり、「継承」の純度を損なっている一面がないわけでもないが、それでも完成された映画は完璧だったと思う。パイロットという職業、あるいは映画人としての矜持を示すにはトム本人が手本を見せる必要があったわけで、主演兼プロデューサーとして譲れない一線がここにあったはずだ。作中なら全員生還という無謀にも思えるミッションを、現実であれば『トップガン』の続編を製作しヒットさせるという偉業を、我々に信じさせる希望を鼓舞するには、トム・クルーズという存在が不可欠だからだ。

 『サーホー』がプラバース抜きでは成立しないように、本作もまたトム・クルーズなくしての完成はありえなかった。そして、彼の人徳と若手をスタァダムに押し上げようとする気概が、作品作り全体の士気を上げ、フィルムの完成度に繋がったはずだと確信を得ている。高い志と熱い情熱が焼き付けられたフィルムは、観る者の心を震わせる。これを今、劇場で体感できることの幸せを、ずっとずっと噛みしめていたい。

いいから行け。今すぐに。

 で、だ。元より映画ファンであればすでにマーヴェリックは当然観に行っているだろうし、二回目三回目、次は4DやScreenXなどのフォーマットを試している最中の人も多いだろう。なので、この文章に意味はない。だが、もしあなたが『トップガン マーヴェリック』のことが気になっていて、でもレビュー読んでみないと不安だな……と弱気になっているのだとしたら、案ずることはない。座席を予約して劇場に向かい、後は二時間座席に身体を預け、極上の映画体験を楽しんでほしい。

 トム・クルーズが本作の劇場公開にこだわった理由は、映画の原初の喜びである「体感性」を重視したからだ。スマホやPCといった外部の情報から隔絶され、目の前のスクリーンと音響に没頭する贅沢な時間。まるでその世界に入り込んだような息をのむ感覚。そして何より、映画を映画館で観るという「当たり前」が崩壊しつつあるパンデミック後の世界において、そのワンダーを取り戻そうと最前線で戦い続ける男を、私は【映画スタァ】と呼びたくなってしまう。

 「一作目を観てないから……」などはもうどうでもよい。トップガンを円盤や配信で観るのはいつだってできるが、『トップガン マーヴェリック』を劇場で浴びることができるのは今、今しかできない体験なのだ。お願いだ、『トップガン マーヴェリック』を劇場で観てくれ。映画を映画館で観る喜びを味わってくれるのなら、それ以上に嬉しいことはない。


この記事が参加している募集

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。