田舎では味わえない貴重な経験【音声と文章】
山田ゆり
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のり子は食事も喉に通らないほどになっていた。
縁談を破談させてしまった人。
そのセルフイメージを自分で勝手に作ってしまい、その世界から抜け出せずにいたのり子は、ある日、温泉の体重計の数字を見て目が覚めた。
30kg台の自分。
大きな鏡に映る姿は頬がこけて目がくぼみ、骨と皮だけの貧相な体形の女性がいた。
自分の感情に流されていて、それが体中の雰囲気に溢れていた。
これではいけない。
自分はこんなことで駄目になってしまう人間ではない。
起きたことは事実と受け止めるがそれに囚われていてはいけない。
うしろを見てばかりではいけない。
前を見よう。
自分にはもっと素敵な未来があるはず。
やり直そうと思った。
**
(時が1~2年前に戻ります。)
のり子は事務職として誠実に仕事をし、信頼を重ねて行った。
大好きな先輩方は結婚などの理由で一人減り二人減り、気づいたらのり子が事務リーダーになっていた。
のり子の後に新卒が入ってくることは無かったからのり子の部下は売り場から異動してきた方ばかりだった。
当時の事務職は女子社員の憧れの的だった。
それは「楽そうにみえた」から。
売上計算や窓口両替の時は勿論、椅子に座って作業をしている。
一日中、立ち仕事の売り場の方よりは楽に見えた。
また、休日の面でも売り場の方から見ると魅力的だった。
当時としては珍しい完全週休二日制の勤務先は、お店だから元旦以外は年中無休で、
売り場は土曜・日曜・祝日は全員出勤だからその代わり、平日に何人も休むことになる。
しかし、事務係は毎日、最低3人はいないといけないため、平日に2人は休めない。
だから、土日祝日でも、事務職は誰か一人が休んでいた。
小さいお子さんがいる女子社員にとって、土日祝を公休日として休める事務職は「いつかは私もなりたい職場」だった。
のり子は休日に対して特に要望が無かったから、土日祝日は他の皆様に譲っていた。
新卒でのり子が入ってからは、事務職に新卒は入って来なくなった。だから事務職はのり子以外は売り場からの異動者の集まりになった。
それには時代の流れが関係していたと思う。
1970年代頃はまだ、「寿退社」が一般的だった。
女性は結婚する時に退職するもの。
または、妊娠したら退職するもの。
時代は新しい方向に向かっていたが、田舎はまだそういう時代だった。
しかし世の中の変化と共に、結婚しても、子どもが産まれても退職しない社員が増えてきた。
そうすると、生活の変化のために、「楽そうに見える」事務職へ既婚者を異動させる、そのような考えになったのだと思う。
だから、会社としては新卒の事務職をとることはなくなったのだとのり子は感じていた。
時代は変化しているのである。
諸行無常なのである。
「昔はこうだった」
「昔は良かった」と、現実を嘆いてばかりではいられない。
変化し続ける時代に対応していかなければいけないのだ。
自分が居心地の良い場所をコンフォートゾーンという。
こたつに入っているあの感覚である。
何もせずにのんびりとしている。
そこには向上心はない。
少しの間、そのこたつの中にいるのはいいが、ずっとそこに居続けてはいけない。
時代は常に動いている。
だから勇気を出してコンフォートゾーンから抜け出し次のフェーズを迎えよう。
のり子は年上の部下の教育を受け入れた。
その中でとても苦労した部下がいらっしゃった。
その方は数字に関しての感性が他の方に比べて少し違っていた。
例えば、50円玉が50枚入っている棒金は1本2,500円で、それが50本入っている棒金の箱は、ひと箱125,000円だと説明してもなかなか理解して下さらず苦労した思い出がある。
その方は何度もそれを唱えていらっしゃった。
この時の経験が、「人さまに教えるということは簡単なものではない。しかし、工夫次第で相手は分かって下さる」という、自分ができる事をお伝えすることで、誰かのお役に立てるという面白さを知った。
のり子は気長に年上の部下との人間関係に気を付けながらリーダーとしての役割をこなしていた。
のり子たちの事務室には身長よりも高い金庫が数台あった。
それらの金庫の鍵は黒色のビニール製のキーホルダーにまとめられていて、普段は副店長がお持ちなのだが、副店長がおやすみの日は、男性社員が代行する。
そして、人員配置の関係で事務リーダーののり子が任さることもあった。
のり子はそのキーホルダーを制服のベルト通しにフックでとめ、それは歩くたびにジャラジャラと音がした。
そのキーホルダーは信頼されたものしか持たないものだったから、その音はちょっとしたステータスの証だった。
その頃、2か月に1回、東京の本社で事務リーダーの研修があり、のり子はそれに出席していた。
往復、寝台列車で上京し、電車を乗り継いで本社に向かった。
本社のエレベーターホールは広く、降りる階に合わせてエレベーターが数基あった。
以前、人事部に用があり、上層階まで行ったことがあるが、開いたドアの先は床に分厚い絨毯が敷かれていて、パンプスのヒールが床に埋まる感覚に心が躍ったことがある。
周りは田んぼが多い田舎に住んでいるのり子には絶対縁のない知らない世界である。
のり子は何度も東京を往復するようになり都会の雰囲気を肌で感じるようになった。
新店舗の応援出張も何度か経験させていただいた。
県内は勿論、仙台や、独特な訛りがある福島などの店舗にそれぞれ一週間くらいホテルに宿泊して、新店応援に尽力した。
のり子は新しい何かをみんなで作り上げてゆくその渦の中にいるのを感じ、自分が人さまのお役に立てているのが嬉しかった。
切符さえあれば、電車を乗り継いでどこでも一人で行ける。
田舎の企業に勤めていたら絶対経験できない貴重な経験をのり子はさせていただいていた。
長くなりましたので、続きは次回にいたします。
※今回はこちらのnoteの続きです。
↓
https://note.com/tukuda/n/n4ffe041d503b?from=notice
※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1793日目。
※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。
どちらでも数分で楽しめます。#ad
~田舎では味わえない貴重な経験~
ネガティブな過去を洗い出す
縁談を破談させてしまった人。
そのセルフイメージを自分で勝手に作ってしまい、その世界から抜け出せずにいたのり子は、ある日、温泉の体重計の数字を見て目が覚めた。
30kg台の自分。
大きな鏡に映る姿は頬がこけて目がくぼみ、骨と皮だけの貧相な体形の女性がいた。
自分の感情に流されていて、それが体中の雰囲気に溢れていた。
これではいけない。
自分はこんなことで駄目になってしまう人間ではない。
起きたことは事実と受け止めるがそれに囚われていてはいけない。
うしろを見てばかりではいけない。
前を見よう。
自分にはもっと素敵な未来があるはず。
やり直そうと思った。
**
(時が1~2年前に戻ります。)
のり子は事務職として誠実に仕事をし、信頼を重ねて行った。
大好きな先輩方は結婚などの理由で一人減り二人減り、気づいたらのり子が事務リーダーになっていた。
のり子の後に新卒が入ってくることは無かったからのり子の部下は売り場から異動してきた方ばかりだった。
当時の事務職は女子社員の憧れの的だった。
それは「楽そうにみえた」から。
売上計算や窓口両替の時は勿論、椅子に座って作業をしている。
一日中、立ち仕事の売り場の方よりは楽に見えた。
また、休日の面でも売り場の方から見ると魅力的だった。
当時としては珍しい完全週休二日制の勤務先は、お店だから元旦以外は年中無休で、
売り場は土曜・日曜・祝日は全員出勤だからその代わり、平日に何人も休むことになる。
しかし、事務係は毎日、最低3人はいないといけないため、平日に2人は休めない。
だから、土日祝日でも、事務職は誰か一人が休んでいた。
小さいお子さんがいる女子社員にとって、土日祝を公休日として休める事務職は「いつかは私もなりたい職場」だった。
のり子は休日に対して特に要望が無かったから、土日祝日は他の皆様に譲っていた。
新卒でのり子が入ってからは、事務職に新卒は入って来なくなった。だから事務職はのり子以外は売り場からの異動者の集まりになった。
それには時代の流れが関係していたと思う。
1970年代頃はまだ、「寿退社」が一般的だった。
女性は結婚する時に退職するもの。
または、妊娠したら退職するもの。
時代は新しい方向に向かっていたが、田舎はまだそういう時代だった。
しかし世の中の変化と共に、結婚しても、子どもが産まれても退職しない社員が増えてきた。
そうすると、生活の変化のために、「楽そうに見える」事務職へ既婚者を異動させる、そのような考えになったのだと思う。
だから、会社としては新卒の事務職をとることはなくなったのだとのり子は感じていた。
時代は変化しているのである。
諸行無常なのである。
「昔はこうだった」
「昔は良かった」と、現実を嘆いてばかりではいられない。
変化し続ける時代に対応していかなければいけないのだ。
自分が居心地の良い場所をコンフォートゾーンという。
こたつに入っているあの感覚である。
何もせずにのんびりとしている。
そこには向上心はない。
少しの間、そのこたつの中にいるのはいいが、ずっとそこに居続けてはいけない。
時代は常に動いている。
だから勇気を出してコンフォートゾーンから抜け出し次のフェーズを迎えよう。
のり子は年上の部下の教育を受け入れた。
その中でとても苦労した部下がいらっしゃった。
その方は数字に関しての感性が他の方に比べて少し違っていた。
例えば、50円玉が50枚入っている棒金は1本2,500円で、それが50本入っている棒金の箱は、ひと箱125,000円だと説明してもなかなか理解して下さらず苦労した思い出がある。
その方は何度もそれを唱えていらっしゃった。
この時の経験が、「人さまに教えるということは簡単なものではない。しかし、工夫次第で相手は分かって下さる」という、自分ができる事をお伝えすることで、誰かのお役に立てるという面白さを知った。
のり子は気長に年上の部下との人間関係に気を付けながらリーダーとしての役割をこなしていた。
のり子たちの事務室には身長よりも高い金庫が数台あった。
それらの金庫の鍵は黒色のビニール製のキーホルダーにまとめられていて、普段は副店長がお持ちなのだが、副店長がおやすみの日は、男性社員が代行する。
そして、人員配置の関係で事務リーダーののり子が任さることもあった。
のり子はそのキーホルダーを制服のベルト通しにフックでとめ、それは歩くたびにジャラジャラと音がした。
そのキーホルダーは信頼されたものしか持たないものだったから、その音はちょっとしたステータスの証だった。
その頃、2か月に1回、東京の本社で事務リーダーの研修があり、のり子はそれに出席していた。
往復、寝台列車で上京し、電車を乗り継いで本社に向かった。
本社のエレベーターホールは広く、降りる階に合わせてエレベーターが数基あった。
以前、人事部に用があり、上層階まで行ったことがあるが、開いたドアの先は床に分厚い絨毯が敷かれていて、パンプスのヒールが床に埋まる感覚に心が躍ったことがある。
周りは田んぼが多い田舎に住んでいるのり子には絶対縁のない知らない世界である。
のり子は何度も東京を往復するようになり都会の雰囲気を肌で感じるようになった。
新店舗の応援出張も何度か経験させていただいた。
県内は勿論、仙台や、独特な訛りがある福島などの店舗にそれぞれ一週間くらいホテルに宿泊して、新店応援に尽力した。
のり子は新しい何かをみんなで作り上げてゆくその渦の中にいるのを感じ、自分が人さまのお役に立てているのが嬉しかった。
切符さえあれば、電車を乗り継いでどこでも一人で行ける。
田舎の企業に勤めていたら絶対経験できない貴重な経験をのり子はさせていただいていた。
長くなりましたので、続きは次回にいたします。
※今回はこちらのnoteの続きです。
↓
https://note.com/tukuda/n/n4ffe041d503b?from=notice
※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1793日目。
※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。
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