半世紀分生きた私へのプレゼント【音声と文章】
山田ゆり
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隣のベッドに寝ていた母がむくっと起き上がり、私の傍を通って部屋を出ていった。
シューーーー。
私の枕元でその音が始まる。
窓の外はうっすらと明るくなっていた。消音で鳴動するだけの時計を見るとあと数分後に起床の時間だった。
母が戻ってきた。
「お母さん、紙パンツ履いてきた?」
「…うん」
母はそしてベッドに入った。
仕方ない。
私は起き上がり枕もとの服を着て母のベッドの横に立った。
掛け布団がよれてかかっている。
私は思いっきり布団と毛布とタオルケットをはいだ。
やっぱり。
暦の上では春だが、雪国のこちらはまだ寒い。
だから母はズボン下を履いている。
認知症が進んだ母は尿意を感じる感覚が弱くなりお漏らしをするようになっていたから、母には紙パンツをはかせるようにしている。
母は昔から毎日往復30分位の畑を3~4往復するくらい健康な人で、脳以外はどこも悪くはなかったから、アルツハイマー型認知症がどんどん進んでいったが、トイレには自分で行くことができていた。
ベッドに横たわっている母を見る。
ズボン下の下には何も履いていない。
つまり、トイレでずっしり重くなった紙パンツの両脇を破いて紙パンツを脱ぐことはできる母だったが、そもそも、自分が紙パンツを必要とする人間だとは認識していないから、トイレに替えの紙パンツを目の前に置いているが、それを自分で履かなければいけないとは思っていなかった。
下着のパンツをはかない状態を我が家では「もふん」と言っていた。
私たちが小さい頃、お風呂上りに服を着ないでいると
「もふんでいるとお腹こわすよー」と母に言われたことを思い出す。
おしっこでタプタプになった紙パンツを破り捨てることを母は認識していたが、新しい紙パンツをはくことに母は頭が回らなかったから、トイレから戻ってきたら必ず母が紙パンツをはいているかどうかを確認する作業が待っていた。
私は母のお尻を軽くペチンと叩き、気持ちよさそうに寝ている母を起こす。そして、母に紙パンツを向けて履くように促す。
ぬくぬくした布団の中で寝ている親を叩き起こす鬼娘。
母は仕方なく起き上がりズボン下を脱ぎそれを履く。
新しいズボン下を引き出しの中から出し、母に向ける。
母はそれを受け取り黙って履く。
再びベッドに横になった母に、タオルケット、毛布、布団を一枚一枚掛けてあげる。
なぜかタオルケットが縦横反対になっていることが多いから、一枚ずつかけ直してあげないと足が出てしまい、母が冷えてしまうから。
いや、次の母のトイレまでの時間が短くなり、私のお世話の時間がすぐにやってくるから、が本心かもしれない。
冷え切った身体をベッドに戻したかった。
でも、今寝たらすぐに起きないといけない時間になる。
今日も会社に行かなければいけない。
皆の朝ごはんを作らなければいけない。
あぁ、もう少し寝ていたかった。
隣のベッドで寝ている母を見る。
小さく口を開けて寝ている母は、私の知っている母の顔だった。
お母さん、認知症になってしまったけれど、もっと長生きしてね。
いつも厳しい態度しかとらない私だけれど
お母さんがいてくれるだけで私は安心するの。
今日も明日もあさっても、まだまだずっと生きていてね。
私は布団のずれを直し母の部屋から出て台所に立った。
昨日もこんな朝だった。
今日も同じだった。
だから明日もあさっても同じ朝がやってくる。
母は脳以外はどこも悪くはない。
病院に行って検査をしても、血圧も正常だし歩く・走る・正座する。なんでも不自由ない。
介護は面倒だと思うこともあるけれども、それでも母がこの世にいることが私にはお守りのような存在だった。
いるだけでいい。
生きているだけでいい。
認知症の母を介護して10年が過ぎた。
自分の半世紀分の人生を振り返ってみる。
いじめを受けて寂しい学生生活を送っていたがそれでも、頑張れば世の中どうにでもなると分かってきた。
だから上へ上へと理想は高くなった。
自分の周りには常識人が多かったから自分は自由に動けることができた。
しかし、アルツハイマー型認知症になった母を介護するようになり、私の常識に合わせて生活することができなくなり、最初の数年間は泥沼を歩いている思いだった。
やがて自分のこれまでの常識に合わせようとするから自分が苦しむのだとだんだん分かってきた。
私の常識が正しくて母の認知症の状態が間違っていると思うから自分は苦しむのだと分かってきた。
母の状態を「そういうものだ」と受け止めていちいち、起こったことに一喜一憂しない。
嬉しいことは喜ぶが、予想外の事が起こっても「そんなものだ」と思えるようになった。
介護を必要とされる方への気持ちを理解できるようになったのは母のお陰である。
明日もあさっても、よろしくね。
その日もいつも通り朝の支度をして母に見送られながら私は車を発進させた。
バックミラーから見る母は、相変わらずボーっとしながら手を振っていた。
その夜、残業中に娘から会社に電話が入った。
私はたまたま自分の携帯電話を放置していて見ていなかった。
「山田さん、ご自宅からお電話です」
私はハッとした。
何かあったら携帯電話に連絡がくるのに会社に電話が来た。
すぐに携帯電話を見たら、おびただしい着信履歴があった。
これはただ事ではない!
私はすぐに会社の電話の受話器をとった。
「お母さん、何度電話しても出ないなんてどうしたの!おばあちゃんがトイレで倒れていて、救急車で運ばれたから!」
娘のなじる声が聞こえた。
私はもしかして明日は入院の手続きなどで休まなければいけないかもしれないと感じた。だから明日の資金繰りの事がすぐに脳内で駆け巡り資金繰り表を確認した。
残高は大丈夫だ。
私はすぐに机の上を片付けてPCを消し上司に事情を話して会社を出た。
私は娘から聞いた病院へ車で直行した。
救急処置室で母は横たわっていた。
母の目は再び開くことはなく、その日、母は85歳の生涯を閉じた。
明日もあさっても、紙パンツのお世話をするつもりだったのに。
今日は母の7回忌。
母の介護は、「常識」で凝り固まった私の鎧を脱がせてくれた。
介護の経験がなかったら、きっと
「私は偉い人」と勘違いして生きていたと思う。
母の介護は、半世紀分生きた私へのプレゼントになった。
介護する人もされる人も
共存できる世界があることを母の介護から私は学んだのである。
※note毎日連続投稿1900日をコミット中!
1807日目。
※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。
どちらでも数分で楽しめます。#ad
半世紀分生きた私へのプレゼント
シューーーー。
私の枕元でその音が始まる。
窓の外はうっすらと明るくなっていた。消音で鳴動するだけの時計を見るとあと数分後に起床の時間だった。
母が戻ってきた。
「お母さん、紙パンツ履いてきた?」
「…うん」
母はそしてベッドに入った。
仕方ない。
私は起き上がり枕もとの服を着て母のベッドの横に立った。
掛け布団がよれてかかっている。
私は思いっきり布団と毛布とタオルケットをはいだ。
やっぱり。
暦の上では春だが、雪国のこちらはまだ寒い。
だから母はズボン下を履いている。
認知症が進んだ母は尿意を感じる感覚が弱くなりお漏らしをするようになっていたから、母には紙パンツをはかせるようにしている。
母は昔から毎日往復30分位の畑を3~4往復するくらい健康な人で、脳以外はどこも悪くはなかったから、アルツハイマー型認知症がどんどん進んでいったが、トイレには自分で行くことができていた。
ベッドに横たわっている母を見る。
ズボン下の下には何も履いていない。
つまり、トイレでずっしり重くなった紙パンツの両脇を破いて紙パンツを脱ぐことはできる母だったが、そもそも、自分が紙パンツを必要とする人間だとは認識していないから、トイレに替えの紙パンツを目の前に置いているが、それを自分で履かなければいけないとは思っていなかった。
下着のパンツをはかない状態を我が家では「もふん」と言っていた。
私たちが小さい頃、お風呂上りに服を着ないでいると
「もふんでいるとお腹こわすよー」と母に言われたことを思い出す。
おしっこでタプタプになった紙パンツを破り捨てることを母は認識していたが、新しい紙パンツをはくことに母は頭が回らなかったから、トイレから戻ってきたら必ず母が紙パンツをはいているかどうかを確認する作業が待っていた。
私は母のお尻を軽くペチンと叩き、気持ちよさそうに寝ている母を起こす。そして、母に紙パンツを向けて履くように促す。
ぬくぬくした布団の中で寝ている親を叩き起こす鬼娘。
母は仕方なく起き上がりズボン下を脱ぎそれを履く。
新しいズボン下を引き出しの中から出し、母に向ける。
母はそれを受け取り黙って履く。
再びベッドに横になった母に、タオルケット、毛布、布団を一枚一枚掛けてあげる。
なぜかタオルケットが縦横反対になっていることが多いから、一枚ずつかけ直してあげないと足が出てしまい、母が冷えてしまうから。
いや、次の母のトイレまでの時間が短くなり、私のお世話の時間がすぐにやってくるから、が本心かもしれない。
冷え切った身体をベッドに戻したかった。
でも、今寝たらすぐに起きないといけない時間になる。
今日も会社に行かなければいけない。
皆の朝ごはんを作らなければいけない。
あぁ、もう少し寝ていたかった。
隣のベッドで寝ている母を見る。
小さく口を開けて寝ている母は、私の知っている母の顔だった。
お母さん、認知症になってしまったけれど、もっと長生きしてね。
いつも厳しい態度しかとらない私だけれど
お母さんがいてくれるだけで私は安心するの。
今日も明日もあさっても、まだまだずっと生きていてね。
私は布団のずれを直し母の部屋から出て台所に立った。
昨日もこんな朝だった。
今日も同じだった。
だから明日もあさっても同じ朝がやってくる。
母は脳以外はどこも悪くはない。
病院に行って検査をしても、血圧も正常だし歩く・走る・正座する。なんでも不自由ない。
介護は面倒だと思うこともあるけれども、それでも母がこの世にいることが私にはお守りのような存在だった。
いるだけでいい。
生きているだけでいい。
認知症の母を介護して10年が過ぎた。
自分の半世紀分の人生を振り返ってみる。
いじめを受けて寂しい学生生活を送っていたがそれでも、頑張れば世の中どうにでもなると分かってきた。
だから上へ上へと理想は高くなった。
自分の周りには常識人が多かったから自分は自由に動けることができた。
しかし、アルツハイマー型認知症になった母を介護するようになり、私の常識に合わせて生活することができなくなり、最初の数年間は泥沼を歩いている思いだった。
やがて自分のこれまでの常識に合わせようとするから自分が苦しむのだとだんだん分かってきた。
私の常識が正しくて母の認知症の状態が間違っていると思うから自分は苦しむのだと分かってきた。
母の状態を「そういうものだ」と受け止めていちいち、起こったことに一喜一憂しない。
嬉しいことは喜ぶが、予想外の事が起こっても「そんなものだ」と思えるようになった。
介護を必要とされる方への気持ちを理解できるようになったのは母のお陰である。
明日もあさっても、よろしくね。
その日もいつも通り朝の支度をして母に見送られながら私は車を発進させた。
バックミラーから見る母は、相変わらずボーっとしながら手を振っていた。
その夜、残業中に娘から会社に電話が入った。
私はたまたま自分の携帯電話を放置していて見ていなかった。
「山田さん、ご自宅からお電話です」
私はハッとした。
何かあったら携帯電話に連絡がくるのに会社に電話が来た。
すぐに携帯電話を見たら、おびただしい着信履歴があった。
これはただ事ではない!
私はすぐに会社の電話の受話器をとった。
「お母さん、何度電話しても出ないなんてどうしたの!おばあちゃんがトイレで倒れていて、救急車で運ばれたから!」
娘のなじる声が聞こえた。
私はもしかして明日は入院の手続きなどで休まなければいけないかもしれないと感じた。だから明日の資金繰りの事がすぐに脳内で駆け巡り資金繰り表を確認した。
残高は大丈夫だ。
私はすぐに机の上を片付けてPCを消し上司に事情を話して会社を出た。
私は娘から聞いた病院へ車で直行した。
救急処置室で母は横たわっていた。
母の目は再び開くことはなく、その日、母は85歳の生涯を閉じた。
明日もあさっても、紙パンツのお世話をするつもりだったのに。
今日は母の7回忌。
母の介護は、「常識」で凝り固まった私の鎧を脱がせてくれた。
介護の経験がなかったら、きっと
「私は偉い人」と勘違いして生きていたと思う。
母の介護は、半世紀分生きた私へのプレゼントになった。
介護する人もされる人も
共存できる世界があることを母の介護から私は学んだのである。
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