【エッセイ】仏教は水の思想 ~釈迦は何を悟ったか~
仏教に好感を抱いている、ということは以前述べた。
私は、五木寛之をきっかけとして仏教と出会った。そして最近、これはもう少し真面目に勉強したい、という気になった。宗教としてでなく、思想としての仏教に強く興味を惹かれたのである。
というわけで、仏教を思想として掘り下げているちゃんとした本を読もう、ということで探し始めた。すると、1冊の本に出会った。
これだ。「仏教の思想」シリーズ。
仏教を思想体系として再定義して、キリスト教一強時代を終わらせ、もって世界的な平和に資する、というトンデモない野心から誕生したシリーズだ。かなり昔の本だが、名だたる仏教学者、哲学書が筆を合わせた全12巻の超大作である。
その第一巻にあたるのが、「知恵と慈悲」である。ズバリ、釈迦の思想について書かれてある。先日、やっと読み終えたので、あくまで自分のためにここにその記録を記しておく。きっと誰にとっても多少は、人生の何らかのヒントが見当たるのではないかと期待している。
〇仏教と釈迦仏教は違う
まず触れておかないといけないのは、仏教と釈迦仏教は異なる、ということだ。我々が仏教、と呼ぶとき、それはいわゆる日本の仏教を指している。空海のそれであり、親鸞のそれであり、日蓮のそれである。しかし、現在の日本の仏教の教えは、釈迦の教えとは異なっている。全然違う、と言ってもいいくらいである。実際、本書でも釈迦仏教に対するアンチテーゼが国内仏教だ、という風に解説されている。
釈迦が悟りを開いて、弟子たちがそれを経典として記した。その内容は、各所へ流布し、途中途中で才覚ある弟子の脚色を受け入れ、地域固有の解釈をなされ、そうして仏教は発展していった。釈迦仏教(原始仏教)と現代日本の仏教の差異でもっとも大きな点としては、大乗仏教と小乗仏教の差である。大乗仏教は、ナーガールジュナという才人が誕生させた。彼が現れるまで仏教と言えば、一般大衆を救うための教えではなく、個人が個人の人生をよりよく生きるための知恵だった。また、大乗仏教は中国の中でかなり大胆な翻訳をされ、改良を加えられた。中華思想になじむように生まれ変わった。そうしてやっと日本へ渡ってきたのである。ここまでいけば、原始仏教が姿かたちを留めていないのも無理ないだろう。
断っておくが、ここから述べるのは、釈迦仏教(原始仏教)についてである。ナーガールジュナも中国も空海や親鸞も影響していない原初の仏教である。ブッダその人が悟った開闢の始祖の教えである。私が興味を惹かれているのは、まさにそこなのだ。大乗も小乗もどうでもいい。史上初めて悟りを得た人間が悟った内容とは一体なんであったのか。ブッダの知恵、その核に迫ってみたい。
〇ブッダはなぜ出家したか
王家の良い生まれであったゴータマ・シッダールタ。彼は妻子も権力も放擲して出家する。このエピソードを指して、悟りを開くような人は、もともと心が強く選ばれた人間である、という説明をよく聞く。しかし、筆者の増谷文雄ははっきりとこう言っている。
ブッダは、あくまでも一人の人間として苦しんで出家したのだ、ということを忘れてはならない。何に苦しんだのか、と言えば「不変ではないこと」である。「私はいつか必ず病を得て老いて死んでいく」という有限性のリアルな実感こそ、彼を出家に向かわせた最大の理由である。仏教というのは死を想定する(有限性を想う)ことから始まった思想である。死というものは、あらゆる人間に付与される性質である。だから、仏教はすべての人にとって”我が事”なのだ。
〇ブッダは何を悟ったか?
さて、本題である。一言だけ覚えればいい。菩提樹の下でブッダが悟ったのはなにか。
それは、、、「縁起」である。
「縁起」、間違いなく釈迦仏教において最も重要なキーワードだ。これだけでも釈迦の教えの核は理解できる。
縁起には、公式がある。
これが悟りの正体だ。
彼は弟子たちにこの縁起を説く際に、次のようにも言っている。
ブッダは、すべて対象を因果の法則で捉えた。すべての事象・現象には原因がある。そして、その事象・現象(結果)は必ず将来の原因になる。上の例で言えば、生があるので老死があり、老死と生は、お互いの原因と結果なのである。
〇存在の捉え方
この「縁起」という思想は、哲学体系の中でもひときわ異質を放った。哲学の分野に「存在論」というものがある。この世に存在するすべてのものはどのように存在するか、ということを考える学問である。
西洋哲学における存在論は、以下の2つが主流であった。
①存在一般を「造られしもの」として取り扱う
これは、キリスト教やイスラム教など一神教の宗教がわかりやすい典型だ。神のような超越絶対のものが、全てのものを創造する、という考え方である。
②存在一般を「有るもの」として取り扱う
いわゆる唯物論である。物質を世界の本源的な実在と捉える。簡単に言うと、なんという成分、どのような原理でこの物は存在しているのか、と問う考え方である。すべての根源は○○である、といった初期ギリシア哲学が典型である。
③存在一般を「なるもの」として取り扱う。
これが仏教の縁起の思想である。すべての対象を原因と結果で捉える。すべてのものは消滅し、生成する、ということに焦点を当てて、いわば、存在を一連の運動(流れ)として捉えようとする。すべての事象は、何らかの原因によるものだし、何らかの結果を生む、そういう価値観である。
〇もう一つの重要な教え
ブッダにはもう二つほど重要な教えがあるので紹介したい。
まずは、「中道」である。これは本当にライフハックに役に立つ。実感として本当に有用である。ブッダは、繰り返し繰り返し言う、
極端を避けよ。
なんてしみる・・・(この歳になってしみじみ)
昔、剣道7段の知り合い(監督)が言っていた。
妙に頭に残っていた言葉だが、ここで繋がった。これは、ブッダの教えそのものであったらしい。ちなみに誤解されることも多いが、ブッダは実は禁欲を説いてはいない。次に述べる「渇愛」という激しい欲求のいとなみを否定しただけで、欲望充足もバランスをとるためには大事だ、と言っているのである。ブッダは、禁欲主義も快楽主義も否定しているのだ。極端は害である、ただ、中道を求めよ、と言っているのである。深すぎるだろ。
〇渇愛を回避せよ
ブッダも抱えていた人間の共通の悩み、苦しみ。それは人間の有限性(死に老い病を得る)の問題であった。そういった普遍的な苦しみは何から生まれるか。ブッダはその根本原因を「渇愛」だといった。渇愛とは、激しいのどの渇きにも似た燃えるような欲求・欲望である。
その渇愛を目の当たりにしたときどうすればよいか。ブッダは、こう言う、「その炎を消そうとするな、厭い、離れよ」と。
気持ち悪いものだと思って、冷静にそこから距離を取れ、という。ここでポイントとなるのが、俯瞰と客観性である。欲望を諦めることは「明らかにすること」である。冷静に分析して、計算して、ろくなことがないな、と理解してその場を去れ、ということだ。なんてオトナな思想だろうと思う。私は仏教のこういうところが好きなのだ。
〇仏教は水の思想
仏教は、論理的・客観的な宗教だ、とよく言われる。この一冊を読んで、その意味がよく分かった。そして、なんとく私は仏教に対して”水の思想”というイメージを持つ。
存在は流れるものであり、我々が日々目の当たりにしている現実というやつは、上流の結果であり、また下流の原因である。そういう縁起の思想による存在の流動性。
中道の概念という何にも染まらない、どちらにも振れない中性的な性質。
渇愛の炎を客観的分析力と冷静さで対処するなんとなく”クールな感じ”。
仏教は、水の思想だ。今、私はそう言ってしまいたい。なぜなら、そう言ってしまうことで、いつまでもこの読書体験が自分の滋養として、あるいは糧として息づきそうな気配がするからである。
仏教についてはこれで筆を止めるが、もう一言。
〇書くに限るね
読書後は、やはりなんでも書いてみる方がいい。書くことで上層を浮遊していた感覚や知識が何らかの形をもって身体の深いところに沈着していく感じがする。その沈着物が、ある瞬間に別の体験を伴って結晶化し、知恵と呼ばれるようになるのではないか、そんな風に思った。
仏教は水の思想、これ、沈着物としてちょっと気に入っている。
でも、たぶんこれは縁起のところで「老死、老死」と出てきたときに、脳内変換が起きて、「老子」に行きつき、その中の第八章の名文句「上善は水のごとし」と繋がったんだと思う。
読者を触媒として、化学変化が起きるのも読書のすごい面白いところだと思う今日この頃です。