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【エッセイ】大学入学共通テストに想うこと ~レ・ミゼラブルを読む女学生の話~

1.18.19に大学入学共通テストがあった。普段ゆるゆるフワフワ働いている、しがない地方大学の事務員といえども、やはり大学共通テストの運営となると、かなり緊張する。共通テストで会場大学のミスが出れば、即、ニュース行き、なのである。緊張、というのはそういうことだ。

初日の1科目目は、地歴公民だ。配付物が多いため、監督官の教員に同行し、問題冊子等の配付を補助する。

教室に入るとムッとした熱気の中に、異様な冷たさが同居している。学生の緊張、運営側の緊張が交差して混ざり、濃い霧のようだ。それが足元に重く沈殿し、フロアに留まっている。

教卓の前で慌ただしく、冊子や解答用紙の袋を開封し、列ごとの数に仕分けていく。迅速かつ正確な配布が求められる。全ては受験生が不利益を被らないようにするためだ。

8時50分。ほとんどの学生が入室完了している。エアコンのファンの音の中に受験生の生活音がまぎれる。緊張のためか咳払いが多い。皆が監督者の「これから地歴公民の試験を開始します」という宣言を待っている。

私は、冊子等の仕分けを終え、受験生の挙動に注目し始める。トイレに行きたそうな人はいないか、カバンを通路の邪魔にならないところに避けているか、机上に変なものを出していないか。

この間、受験生は黙ってテキストを読んでいるか、イヤフォンをして何か自分にとって特別な音楽を聴いているか、目を閉じて精神統一しているか、だいたいこの3パターンに分かれる。

今、何を考えているんだろうな、と思いを馳せながら自分が配布を担当する列の受験生を特にしっかり見ていく。その時だった。

私はハッとして、稲妻に打たれたようにある言葉を思い出した。またその次の瞬間、柔らかな感動を覚えた。

今からまさに共通テストを受けようという1人の女子学生が、食い入るように「レ・ミゼラブル」を読んでいたのである。まるで、その空間だけ、足元にある冷たい緊張が氷解しているようだった——


——今からちょうど10年前。まだ大学入学共通テストがセンター試験と呼ばれていた頃。私は、とある高等学校で国語の教員をしていた。県内でもまずまずの進学校であったから、センター試験といえば、実質的に最も重要なイベントであり、成果指標であった。

その高校では、センター試験の本番週に3年生を集めて激励集会をするのが恒例であった。そしてその会では、時の学年主任(学年を取り仕切る、いわば私の上司である)が、学生たちへ向けて魂の激励をするのである。

——頑張るのは当たり前です。君たちが頑張れる人間だということは、よく知っています。

今でも鮮明に思い返せる。主任のS先生の激励は、こう始まった。

——後悔がないように全てをぶつけて、自分の欲しいものを掴んできてください!

ここまで言って、彼女はフッと肩の力を抜いた。

——でもね、私にはもう一つ、言っておきたいことがあります。いや、これから言うことこそ、ずっと覚えておいてほしい。

あたりがシーンとする。

——センター試験会場へ行く電車の中で、席を譲れる人間になりなさい。


私は思わず顔を上げた。
S先生は続けた。

——そういう人間になってほしいと思って、私は3年間君たちと接してきました。大変な時に大変な顔をしないで、周りを気にかける余裕を持ちなさい。じゃあ、行ってらっしゃい!

生徒の顔を見ると、照れとたくましさの混在した瑞々しい表情をしていた。この3年間をかけてS先生が彼らの心に蒔きづつけてきた教育の種が、芽を出し、根を張り、今まさに咲き誇らんとしていることが、私にはわかった。

私は、もう今では教員ではないので、そんな可能性はないのだ。だが仮に、”教育とは何か”という難しい問いを向けられれば、私は迷わず、センター試験の日に電車で席を譲る学生を育てることだ、と答えるだろう。

会場でレ・ミゼラブルを読み耽る女学生を目の当たりにした時、思い出していたのは、この言葉だった。

なぜだろう、なぜ連想されたんだろう。
もちろん、試験という共通項はあるが……
控え室に戻って、答案の返ってくるのを待ちながら、ぼーっと考え続けた。そして、1つの結論に至った。

彼女は、電車で席を譲ったわけではないが、それにかなり近い人間性を発揮したのではないか。

共通テストというのは、言うまでもなく人生の大きな岐路である。輝かしい未来への鉄の扉である。

その大きな試練を前にして、S先生は、自分のことだけでなく、周りの人を気にかける余裕を持て、と言った。そして今、私の目の前で試験とはまるで関係のない「レ・ミゼラブル」に没頭する女学生。

私は、この学生たちの姿は、どんな時でも人間性の根本を見失っていない、という点で共通していると思う。

本当に大切なことは、テストで良い点をとることなのだろうか。

テストで良い点を取った者に他者を思いやる心や芸術を愛する心や好奇心のままに突き動くダイナミズムがなければ、そのテストの点は、一体何に役立つというのだろう——
いや、もちろん、その場で歴史のテキストを読んでいる者が芸術を愛さないという証拠はどこにもない。来るときに電車で席を譲らなかったという証拠もない。だから、私が言っているのはただの屁理屈である。

しかし、1つ言えるのは、その「レ・ミゼラブル」を読んでいた女学生は、その世界に夢中であり、その場その時、他の学生とは異なる時間を生きていた。そして、私はその姿にすっかり魅了され、人間の豊かさを見たような気持ちがしたのである。

果たして、テストの点がこれからの時代どれほどの価値を持つのだろう。あらゆる知的職業がAIに取って代わられる、と予言されているこの世界で。

今問われなければならないのは、今培われなければならないのは、一体どんな力だろう。

ちょっと先の世界が本当に求める人間とは、共通テストで何点とる人間だろう。

S先生の言葉と、レ・ミゼラブルの女学生。

少なくとも私が我が子に求めるのは、テストの高得点よりも、これらの点数化不能な情動である。とどのつまり、極めて陳腐な表現に落ち着くが、優しさ、芸術愛、好奇心といった基礎根本的な人間性を、たんまりと養って大人になってもらいたいのである。

共通テスト二日目。彼女は全く同じ席に現れ、「レ・ミゼラブル」を相変わらず読んでいた。しおりの位置がかなり進んでいる。家でも没頭したに違いない。もうとっくにジャン・バルジャンは市長になっているだろう。コゼットとマリウスは出会っただろうか。彼女は、皆が血眼で鉄の扉を開いている最中に、近代最高峰の小説を読んだ。それによって、彼女の鉄の扉は閉ざされるのだろうか。それとも、その逆だろうか。それは誰にもわからないが、私はやはりその姿を微笑ましいと思ってしまうのである。

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