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【エッセイ】AIに勝てない、が当たり前になった世界で。~電王戦から神話を失った将棋界~

ペリーの黒船が浦賀に来航したときのように、シガンシナ区に超大型巨人が出現したときのように、その世界全体の秩序を揺さぶるきっかけ、というものがある。

将棋界にとって、2012年1月14日がその日だった。当時、日本将棋連盟会長の米長邦雄が「ボンクラーズ」というコンピューターソフトと公式対局して、敗れたのだ。米長は、当時すでに引退棋士だったが、永世名人の称号まで冠する超一流棋士だ。並みの現役棋士よりも強かったと思う。その米長がソフトに負けた。この日、将棋界は将棋AIのもたらす大変革の運命を悟り、また覚悟した。

米長は、敗戦後に「われ敗れたり」を著した

その後、2013年の春には第二回電王戦が組まれ、5名の現役プロ棋士が将棋ソフトと対局したが、勝利したのは阿部四段(当時)のみだった。敗れた中には順位戦で最上位のA級に在する棋士もおり、この時点で、ソフトがプロ棋士の棋力を凌駕していることが周知の事実となった。


第二回電王戦の対局棋士たち

以来、将棋界はAIとともにある、といってよい。AIは瞬間的に、かつ非常に的確に局面の形勢判断をし、最善手を示すことができる。だから、ほぼすべてのプロ棋士がAIを活用した将棋研究を行うようになったし、ほぼすべての対局においてAIによる形勢判断表示がされることになった。皆さんも日曜日、10:30から放送しているNHK杯将棋トーナメントの棋戦を(ちょっとでいいから)ご覧いただきたい。画面上部には、優勢劣勢を示す%表示の形勢バーが設置され、画面下部には、その局面での最善手、次善手、第三の手、が示されているはずだ。いまや、観衆は、対局しているプロ棋士よりも高度な手を念頭におきながら、しかも正しい形勢判断を見ながら、将棋を観戦していることになる。これは、衝撃的な事実だ。将棋というゲームが始まって以来、はじめて我々は、「正解」というものを与えられているのである。

千日手という引き分けを考慮しなければ、ゲーム理論上、将棋には必勝法が存在する。詳しくは書かないが、以下のルールである限り、どんなゲームでも必勝法が存在することが証明されている。

  • 先手と後手が交替にさす。  

  • パスは許されない。 

  •  始めの局面は決まっていて終りの局面も有限個しかなく有限回の操作で必ず終局を迎えることがわかっている。

だが、将棋というゲームは、持ち駒を再び使用できるなどの拡張可能性(局面のひろさ)から、必勝法など導びけることはあり得ない、という共通理解を得ていた。

もう少し俗に言えば、2012年のその日まで、将棋には正解手というものは存在せず、もちろん観衆も手の善悪など判断できず、名人や竜王(強い人)の指す手が一番、確からしいと信じられていたのである。

これを私は、プロ棋士神話、と呼んでいる。プロ棋士というのは、言うまでもなく天才中の天才である。奨励会で熾烈すぎる3段リーグを勝ち抜いた者しかプロを名乗ることはできない。枠は1年に4人。あまりに狭い門だ。(米長永世名人が「兄貴はバカだから、東大へ行った。俺は、(賢いから)プロ棋士になった」と言った名言は、知っている人もいるかもしれない。)そのプロ棋士の世界において頂点に君臨するのが、名人であり竜王(棋界ビッグタイトル)だ。それら将棋の申し子が、時には何時間も唸りながら、考え抜いた手を指すのだ。そこに、一種崇高な神秘性が宿り、観る者の羨望をほしいままにしていた、ということは想像に難くないと思う。

しかし、AIは、この神話を終わらせた。今や、名人が放つ深遠高妙の一手も、PCのモニタ上で正確無比な評価を受け、氷のような%表示を余儀なくされる。神の一手は消えたのである。私でさえも、PC1台引っ提げているだけで、藤井聡太7冠と将棋を指して1,000局やって1,000局勝つことができる。今日の将棋AIは、もう”人智をとうに超えている”というレベルにある。それは、プロ棋士といえども、AIはもう勝負する対象ではなく、教えを乞う教師のような存在になっている、ということである。

少し脱線するが、将棋の神がいたとして、現在の最強AIはどれほど彼に近づいているのだろうか、と考えることがある。残念ながら、AIでさえ人智を超えているのだから、推測困難なのだが、どうも興味が尽きない。最強格のAI同士の対局を見ると、

  • 先手の勝率が圧倒的に高い

  • 居飛車の勝率が圧倒的に高い

  • 角換わり腰掛銀という戦型になることがとても多い

という傾向が目立つ。後手が角換わり腰掛銀を避けようとしないのは、それを受けて立つ方が”まだマシ”という判断をしているからだろうと思われる。そうすると、将棋というゲームは、

・原則、先手角換わり腰掛銀で必勝
(後手が角換わり腰掛銀を避けようとするすべてのパターンで必敗)

という結論になるのかもしれない。はたまた、将棋の神は全く異なる結論を知っているのかもしれない。この地点からどれほどの深淵があるのか、将棋というゲームの奥の深さがいかほどなのか。それが解明されてしまうことは、将棋というゲームの命が尽きることであるから、知りたいような知りたくないような、複雑な気分である。ただ一つ言えるのは、今後AIの進化によって解明され切ってしまう可能性は、普通にある、ということである。


角換わり腰掛銀の最新形基本図
未来の将棋必勝定跡になるのか!?

AIという黒船が将棋界に来てから早13年。将棋界の人間は、最も早くAIに適応していった人たちではないかと思う。彼らは、神話を捨てた。それは苦しい作業だった。しかし、いまではAIと共存し始めている。将棋は民衆に開かれた。昨今、プロ編入試験で(奨励会以外のルートで)プロ棋士になる人間がでてきた。これは、自宅にいながらPC1台で最新の将棋研究が可能となったことに由来していると思う。これまでのように強い人に指導対局をつけてもらう必然性がなくなった。目の前のモニタにいるソフトは、名人をはるかに凌駕する存在であり、それが疲れも知らずいつでも好きなだけ自分の相手をしてくれるのだから。

ところで、2025年現在のクリエイター業界は、2005年ごろの将棋界と酷似しているような感じがする。

2005年、将棋ソフトの棋力は、奨励会級位者相当だった。ほとんどのアマチュアには勝つが、プロ棋士とは角落ちで良い勝負、くらいである。かなり強いな…という印象はありながらも、人類はまだプロ棋士の神話を信じられていたのだ。第一人者の羽生善治は、2015年にはソフトはプロ棋士を超えると言い、みんなもそうかもしれないな、と思ったが、その世界線はまだ目の前には迫っておらず、神話は最後の宴を楽しんだ。


私は文章を書くのが好きな人間だから、特にそう感じるのだが、今のchatgptの作文能力は、まさにこの辺のレベルにないだろうか。ほとんどのアマチュアよりも上手いが、プロ作家と比べると物足りない。まだまだ文豪や売れっ子作家と言われる人間の神話が守られている世界。

仮に以下のアンケートにあなたはどう答えるだろう。
(是非コメントで教えて欲しい。)

・夏目漱石の「こころ」に匹敵する小説を、将来、AIは書けるだろうか。

ここには、もちろん、小説など人間が書くから意味があるのだ、というそもそも論を持ち出す余地も残されている。将棋にも、人が指すから勝負として意味がある、という見方があるように。

だが、楽しめれば誰が書いていようと関係ない、という方向もあり、私はこちらが主流と思う。

先に私の推論から言えば、おそらく、AIは将来的に文豪と同レベルの小説を書くだろうと思う。小説を書く、という活動は、人間の専売特許ではなくなるだろう。全ての創作は、99%の模倣と1%の創造である。古今東西あらゆる小説のデータを食えば、AIがドストエフスキーを超えても私は不思議には思わない。

そして、以上のことは、絵画でも作曲でも作詞でも、あらゆる芸術に当てはまるのではないかと思っている。

今、我々はどの地点に立っているのか。芸術は人間の専売特許であるという神話を我々はあとどれくらい信じていられるだろう。

私は、将棋の事例を肌で体験して、そんなことを思う。

そして、芸術の先にあるのはなんだ?
人の心とは?自然とは?

我々が今、「心」とか「精神」とか「人間性」とか言っているものが、2200年を迎えるときに、どう認識されているのか。そもそもそういった単語がまだあるのかどうか。心とは創造されるもの、販売されるもの、編集され、インストールされるもの、そういう対象ではないと誰が言えるか。

以上ことは杞憂なのか。ただの夢想なのか。AIというシンギュラリティを目の当たりにして、そう問わずにはいられない。そして、どんな突飛なことでも、人間が想像することというのは、たいていの場合、実現しうるのだ。


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