『仏教 第2版』を読む
現在、葬式であれやこれやあって坊さんへの信頼がなくなったので、葬式仏教をやめたいと思っている。
しかし一時の怒りで先祖代々やってきた宗教を否定するのもあれなので、多少は仏教を学んでから判断しようと考えた。
読んだのは岩波新書の『仏教 第2版』渡辺照弘著。
タイトルもド直球なこの本は、まさに仏教について書いている本なわけだが、内容は仏教というものを理解するための基礎知識である。
中国や日本の大乗仏教に関する記述は少なく、インドで生まれた原始仏教の変遷や仏陀の生涯などの根本的な知識が手に入る。
あれこれ仏教に関するポッドキャストや動画も見たが、仏教を本気で理解しようとすると尋常じゃない時間と肉体的な行為が必要だということなので、今の自分にはこれがベストだろう。
・・・というわけで読み終わった。
A4用紙にメモをしつつ、わけのわからないところは飛ばしながら、結果的に15枚ほどのメモが完成したが、理解できたのは何割やら。
前に別の記事で「わかりやすい!」とか言った気がするが、わかるところはわかるに変更したいと思う。(いや素晴らしい本なんだけども)
基礎知識レベルでこれなら本番はエグいことになりそうだ。
こんな理解度で色々言うのもアレなので、「え~そうだったの~!!」という部分を中心に書いていく感じにしようと思う。
ちなみにこの本に書いてあるのは基本インドの仏教についてなのであしからず。
この記事の用語もインド仏教準拠で書いていく。
例えば「往生せいや!!」とかいうセリフを稀に聞くことがあると思うが、「往生」は仏教では「死ぬ」という意味ではなく、「死んだあと輪廻でまた生まれ変わること」である。
つまりインド的にはこのセリフは「死んで生まれ変われや!!」である。
別にこれを言っている人はインド的な意味で使ってないので、意味不明な指摘ではあるのだが、日本はこうやって仏教由来の言葉がかなり日常で使われているものの、意味はインド仏教本来のものとは異なるものが多いということだ。(”念仏”なんて、仏教用語なのにインドでの意味とは違っている)
そういうのを加味しつつ読んで欲しい。
【上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教】
まず基本的な単語だが、上座部仏教と大乗仏教がある。
超簡単にいえば、
上座部仏教は仏陀の最初期の教えを守ってる保守的な感じ。
大乗仏教は仏陀の教えから独自に解釈をしたあれやこれやという感じ。
(正確には原始仏教が上座部と大衆部に分かれて云々とか色々あるのだが、ややこしくなりそうなので単純化する)
上座部仏教を「小乗仏教」なんて呼ぶこともあるが、これは大乗仏教が上座部仏教への蔑称として使っているらしい。
「多くの民衆を救おうとしてる俺たち大乗と違って、上座部の連中は自分の救いばっかりだな!こりゃ小乗仏教だわ!!」というわけだ。
実際、上座部仏教はだんだんと当時の権力者の庇護下に入ったり、大衆を救うよりも修行に明け暮れる要素が増していく傾向はあった。
ちなみに日本は全て大乗仏教。
そしてインドからではなく中国経由の仏教だ。
そもそも中国仏教の時点でインド仏教から使えそうなところを選り抜いたものになってしまっているのだが、それを取り入れて更に日本独自の改変も加えた日本仏教は、本来のインド仏教とは別物になっている。
【輪廻】
輪廻(りんね)。わりと馴染みのある単語だ。
死んだらまた別の何かに生まれ変わることを輪廻という。
だが、死んでまた何かに生まれ変わることは別に良いことではなく、この流れは抜け出すべきものらしい。
この輪廻から抜け出すことを「解脱」という。
仏教は悟りによる解脱を目指す。
なんで輪廻から抜け出したいかといえば、この世は苦痛ばかりだから。
苦痛ばかりの世の中を延々繰り返すのはよろしくないというわけだ。
世の中には幸せな人と不幸な人、色々といるものだが、これは前世の業(カルマ)によって決まっていると言われている。
この輪廻という考えは実は仏教以前からインドの精神構造に組み込まれているものらしく、否定することすら考えないレベルの前提条件になっている。
だがここで多くの人は思うだろう。「輪廻なかったらどうすんの?」と。
そもそも証明しようがない概念だし、解脱するにも”実は輪廻なんてない”となれば、どうしようもなくなる。
しかしこれも色々あるらしい。後で話そう。
あと日本では「死んだら仏様だからねぇ…」なんて言ったりするが、原始仏教的にはただ死んでも仏にはならない。解脱していない限り、また何かに生まれ変わるだけである。
【仏陀】
まさかのややこしかった概念。それが仏陀だ。
日本だとお釈迦様であり仏様であり、ゴータマ・シッダールタであり、結局は一人の人物を指している感じではあるが、実は微妙に違う。
仏陀は「完全な境地に達して、その教えを他人に説く者」のことだ。
つまりは個人名ではない。
だが、なにせこの世で仏陀になれた人は今のところ一人しかいないので、個人名といえば確かにそうだよね……という感じになっている。
今まで仏陀になれたのはゴータマ・シッダールタのみ。
シャーキャムニ(釈迦牟尼)と言ったり釈尊といったり、立場によってゴータマと言ったり世尊と言ったり……呼び方が多すぎる。
とにかく実は個人名ではない。
分けないと今後の解説がめんどくさいので、とりあえず今後ゴータマ・シッダールタを指すときは、この本に習って世尊と呼ぶことにする。
(まあ世尊も個人名じゃないのだが……)
【ゴータマ・シッダールタ】
ゴータマ・シッダールタは、
今のところこの世で一人だけしかいない仏陀になった人間である。
生まれはまさかの王子。
あらゆる贅沢を体験した後、29歳で城を飛び出して出家した。
師匠から学んだりもしつつ、あるとき長期間のめちゃくちゃキツい修行を開始し、骨と皮だけになる。しかし「過度な苦行も意味ないわ……」と自覚し、このキツい修行をやめる。
(このとき5人の弟子が呆れてボサツ(ゴータマ)の元を離れる)
川で沐浴したあと、スジャータという娘から乳粥のお布施を貰い、樹の下で瞑想を開始。
すると悟れた。
しかし悟ったあとにこう思ったのだ。
「いやこれ、今の世の中に広めるの無理では……?」と。
まずこの真理は相当な賢さがなければ理解できないし、世の人は快楽にふけっていて、それと逆行する真理なんて受け入れられるとは思えない。
じゃあ教えても無駄だ。……広めるのやめよう。(まさかの諦め)
しかしそのとき、ブラフマン(梵天)という神が現れ、
「いや広めて!?」と熱心に懇願される。
神に言われたので、仕方なく広めるかどうかの検討を始める。
そして、独力で悟れそうな人や、どうしようもない低レベルな人間はともかく、自分が手を貸したら悟れそうな人のためになら動いてみようかなと思ったのだった。
このあと道すがら出会った他宗教の修行者ウパカに最初の説法を試みるも、なんかあまり良い結果にならなかったり、かつての弟子たちと合流して布教を開始したはいいが、後々いとこに殺されそうになったり、ある場所では他宗教の妨害工作を受けたりと、まさにイベント盛りだくさん。
そんな世尊は80歳まで生きた。
そう、80歳まで布教活動していたのだ。
例えばイエス・キリストは33年の生涯。
だから本人が行ったことの記述も少なくなる。
しかし世尊は悟って布教を開始してから40年以上説法をして回っている。
そのため、仏教はかなり文献が多い。
そしてその説法の内容が、対象の知識量や環境などを考慮した言い回しなので、多様な解釈が可能なのだ。
この文献の多さと解釈の多様さが、のちに大量の大乗仏教が生まれる理由にもなっている。
【プラティエーカ・ブッダ】
突然の謎のカタカナにびっくりしたと思うが、安心して欲しい。
プラティエーカ・ブッダとは、「悟ったけど人に教えてない人」のことだ。
悟った真理を人に教える存在になれば「仏陀」になり、
教えなかったら「プラティエーカ・ブッダ」になる。
世尊も神に懇願されなければプラティエーカ・ブッダになっていただろう。
実はインドでは真理を探究した結果、「これ真理到達したんじゃ……?」という状態には至っても、それを否定されたり正しく理解されないことを恐れて、他人にはそれを説かずに人生を終える人がいるという。
これがまさにプラティエーカ・ブッダだ。
【ボサツ】
ボサツとは「仏陀になる資格を備えた者」のこと。
つまり世尊(ゴータマ)は仏陀になる前はボサツである。
ここで上座部と大乗派で意見が分かれる。
上座部仏教では「ボサツになれるのは世尊だけ」という考えだ。
一応、天上界で次の仏陀になる予定の弥勒は「ボサツ」扱いではあるが。
(56億7000万年後に登場予定)
大乗派はこれに対し、
「世尊だって輪廻を繰り返す間に良い行いを繰り返して仏陀になったのだから、俺達だってボサツになれるだろうが!」と主張した。
元来の教えでは世尊(と弥勒)以外はボサツにはなれないと断言されている。
だが大乗派は「そんなのおかしい!!世尊は万人を救済するって言った!」といろいろな角度で批判をし、「この小乗が!」と上座部仏教を罵ることになったわけである。
ただ、上座部は「ボサツにはなれないが、アラカンにはなれる」とは言っている。(アラカンとは仏陀の教えで悟った人のこと)
悟りによる解脱が目的なら、正直もうこれで良いのでは……?
しかしどうも大乗の人たちは「俺たちもボサツになるんだ!」というモチベーションが高いようで、反発は高まっていく。
彼らは仏陀の教えで解脱した人に対しては、「声聞」と呼んで軽蔑したりもする。
というかアラカンになったら悟ってるわけだし、もう仏陀一歩手前みたいなものだと思うのだが、どういうことなんだろう?
意地でも自分の力で悟りたいということ?
仏教系ポッドキャストを聴いた感じでは、
仏陀が入滅してしまったのでもう教えを受けることができない。
→俺たちがアラカンやボサツになれないとなると、救われる道がなくなる。
→でも仏陀はみんなを救うといった。
→じゃあ俺たちもボサツになって救われるはず!!
……ということらしい。
文献とかじゃなく直接仏陀に教えを受けないとダメということなのだろうか?
なんだか疑問だらけだが、次へいこう。
【中道】
世尊が転法輪経という説法で唱えた概念。それが中道。
なんとなく聞いたことのある単語だが、多分思ってる意味とは違う。
中道とは、「世の中の2つの極端に偏るな」という教えだ。
第一は官能的快楽にふけること。(色々な感覚的な快楽)
第二は自分で自分を苦しめることに夢中になること。
そして、中道は八正道らしい。(8つの正しさのこと)
当時はバラモン教などが現世利益や来世の安楽を保証している功利主義的な宗教で、ジナ教などが肉体を痛めつければ精神的な自由が得られると語っていた。
中道の考え方は、その2つを否定する教えだったらしい。
世尊は王子だったので豪勢な暮らしもしているし、死ぬほどきつい修行もやっているので、こんな考えが出たのかもしれない。
だがこの中道は「ほどほどに」とか「足して二で割る」みたいな、ことなかれ主義とは全く違う。
誤った考えをまず徹底的に否定し、そこから独自の原理を示すのだ。
なので、「ほどほどなら官能的なことも楽しんでOK!」とかではなく、
性行為どころか音楽やらも完全に禁止になる。
「それも極端なのでは!?」と思ってしまうが、でも世尊が言うから……。
【出家と在家】
仏教信者には、出家信者と在家信者がある。
出家信者とは、財産や地位や家族や職を全て放棄し、修行に専念する存在のこと。さまざまな戒律で縛られた生活を送る。お布施を受けて生活する。
在家信者とは、自分の仕事をしつつ、家族も養い、社会的な義務を果たしながら、仏陀の教えを生活に生かし、自分も幸せになりつつ、他者にも奉仕する存在である。
「いや在家信者めっちゃ大変では……?」というのが正直なところだが、出家信者と在家信者は支え合っている存在らしい。
在家信者は出家信者の生活面をお布施で支え、出家信者は修行で得た「優れた法」を在家信者に還元することで、お互いに利益があるのだ。
もちろん在家信者よりも出家信者の方が解脱には有利なのは明らかだが、在家信者であっても解脱は可能であると説いている。
(まあそうじゃないと誰もお布施とかしないだろうけど)
そのため、文献の中にはすごい在家信者の紹介があったりする。
たとえば商人プルーナは1年で解脱を成し遂げた在家信者で、1000人の在家信者を生み出し、500の精舎(修行者の住居)を建て、500人を出家信者にさせたという。
まあ大体お金持ちの商人が在家信者として紹介されているのだが、在家信者がいなかったら出家信者の生活は成り立たないので紹介は大事な気もする。
だがこれはインドの精神的風土がなせる構造であって、中国や日本では無理があるシステムだった。
というかインド仏教も結局のところ、その支持基盤が衰退することでヒンドゥー教(元バラモン教)に押され、果てはイスラム勢力によって仏像や寺が破壊されて消滅することになる。
【戒律】
仏教には守るべき戒律がある。
具足戒という儀式を受けて正式な仏教徒になった場合は、戒律の数は250項目にも及び、なぜか女性だと300以上になる。
出家信者と違って在家信者はここまでの縛りはないのだが、
以下の5項目は守るようだ。
1.殺生をしない
2.盗みをしない
3.淫らなことをしない
4.虚言を言わない
5.酒を飲まない
※ちなみに3に関しては、在家信者は配偶者に限りOKとなる。
出家信者の場合は、具足戒を受けて正式な許可を得る前でもさらに5項目が追加される。
6.午後に食事をしない
7.音楽や見世物を見たり聴いたりしない
8.香りのするものや装身具を用いない
9.椅子や寝台は贅沢じゃないものを使う
10.金銀(貨幣)を所持しない
戒律は仏教にとって大事なものなので、月にニ回(満月と新月)集まって条項を読み上げ、それに違反した人間は自己申告でそれを告白する。
「淫行」、「殺人」、「盗み」、「アラカンになりましたというウソ」は、一発アウトで教団から追放される。
(なんかこれが原因で「悟った」って言えなくなってそうな気がする)
ただ、この200以上の厳しい戒律は、布教している地域が広まっていく過程で当然無理が出てきた。
寒い地域で「服は布1枚にしろ」なんて言われても死ぬだけである。
なので、実行不可能なものに関しては除外を認めたこともあったようだ。
世尊が入滅する少し前には、「もしサンガ(仏教集団)が希望するなら、細かい戒律条項は廃止してもいい」という発言もしている。
だがこの発言を受けて弟子カーシャパが出した結論は、
「全部廃止しません!!!」だった。
(世尊は廃止しても良いって言ってたのに……)
【般若】
布施、戒、忍辱、精進、静慮の5パーラミターは智慧のパーラミターによって完成されるが、この智慧とは単なる知識のことではなく、”すべての行為と思考とを正しく導くブッダの英知”のことである。
これを中国の翻訳者たちは”般若”と記す方法を多く用いた。
????????
……いやこれは、「般若」って単語は「怖いお面」とは欠片も関連してないんだよということを伝えたかっただけの項目である。
このあたりは自分には難しい話だったので、我こそはという人はぜひとも本を購入して頑張って理解してほしい。
【まとめのような何か】
今更ながらにとんでもない本を選んでしまったなと思っている。
でも1冊読み終わったことで、原始仏教の流れが大体掴めた。
大乗仏教に至る過程も多少は理解できた気がする。
そしてこの本を読んだことで、仏教は宗教ではないと言われている理由がわかったような気がする。確かにこれは哲学と呼んだほうが良い。
しかし仏陀はすごい。
こんな教えを遥か昔に体系化し、ここまでの信者を得たのだ。
しかもこの教えは「神様を敬え」とかではなく、苦しみから逃れる方法の探究によって救われることを目的にしている。
あと、意外にも悟ったあとに民衆に広めるのを諦めていたのは面白かった。
神に請われてからも、即答ではなく検討から始めるのが流石だ。
「神なんて考えるな」というだけのことはある。
なんだか仏陀(世尊)の生涯に関する本を追加で読みたくなってきた。
輪廻に関しては個別の項目でも言ったが、インドに仏教以前から備わっている考え方であり、何のエビデンス(根拠)もないものだ。
しかし輪廻に頼らないと解脱の概念も崩れそうな気がしてならない。
なんでこんなものを仏陀は教えの基礎に据えたのだろうか……?
すると、あるポッドキャストでお坊さんの松波龍源氏が輪廻についてこんなことを言っていた。
はーーー!!龍源さんすごい!!
そう、つまり仏陀は思ったのだ。
「この世の人たちを苦しみから開放するには、輪廻を利用したほうが1番効率良いんじゃないかな」……と。
確かにこの輪廻ロジックなら、多くの人を苦しみからの開放と他者への救済に駆り立てることができる気がする。
歴史に残る天才ならこういうことしそうだなぁ……。
大乗仏教についても話すと、この本では原始仏教の紹介が主なのであまり掘り下げられてはいないものの、大乗仏教の人を救いたいという気持ちの強さは伝わってきた場面は多い。
が、正直「それはどうだ!?」と思ってしまう面も多々ある。
例えば……
・俺たちだってボサツになれる!
・別次元には浄土があり、そこへ往生して修行するのが1番の近道!
・別世界の仏陀が~……
多分彼らも確実に否定できるようなことは述べていないのだろう。
おそらくは何かしらの仏陀の文献や、エビデンス確認がしようのないものを使用して新しい解釈を作っていると思う。
(大乗仏教の勉強はしていないのでこれも予想でしかないが)
「これ屁理屈じゃないのぉ……?」と最初は思っていた自分ではあったが、しかしこれもより多くの人々を救うための大乗仏教の努力であるなら、OKなのかもなあ……と思えるようになってきた。(仏陀の輪廻利用と同じように)
いやぁ……仏教は素晴らしいなぁ……!!
……と一瞬だけ思ったが、
結局のところ、人を誘導するための便利ツールだよね……?
(実際に日本は政治利用で仏教を取り入れたし)
そしてちょっとだけ頭に浮かんだのは、
「本当に救われているのは在家信者なんじゃないか?」という考えだ。
普通の生活をしつつ、家族も持って、仏教仲間もいて、出家信者へのお布施によって幸福感も得て……。(寄付をすると幸福になる研究結果がある)
一方の出家信者は、厳しい修行の日々。
お布施で大金持ちになれるわけでもない。
悟りは……あるのか?
まるで在家信者の幸福のための犠牲になっているような……。
そして一般人では耐えられない厳しい修行は、出家信者の数を多くなりすぎないように調整する機構のように見えなくもない。
実際には、出家信者の増加に対してお布施が足りなくなり(支える商人の事業が衰退して)その後色々あってインド仏教は消滅したので、調整機構としては働かなかったともいえるけど……。
正直考え過ぎな気もするが、
これはまだまだ掘り下げる必要がありそうだ。
(自分に理解できる脳味噌があるかが問題だけど)
ということで、葬式仏教の否定が目的の仏教学習だったが、
原始仏教の凄さはそこそこ理解できた。
とはいえ、解脱の達成は困難に思えて仕方がない。
そもそも輪廻も解脱も信用できないというのが、凡人である自分の感想だ。
(いや、輪廻や解脱はあくまでも方便で、苦しみから救うのが目的だからどうでもいいのか……?)
とにかく、入門の本を1冊読んだくらいではこれが限界。
この後に問題の宗派の本の勉強にまで手を伸ばすか、
他の宗派に目覚めて葬式もそっちに変えてしまうのか、
はたまた宇宙葬にするのか。
それは神のみぞ知る……。
いや、仏陀が言うには、
「神とか考えなくていい」だったか。