【読書】徹子ママの凄さが半端じゃない『続・窓ぎわのトットちゃん』
前回は長年読まずにいた『窓ぎわのトットちゃん』を読み、黒柳徹子さんの歩んできた人生の一端を垣間見た。
そして今回、流れに乗って購入した42年ぶりの続編、『続・窓ぎわのトットちゃん』も読み終わった。
前作のラストはトットちゃん(黒柳徹子)が疎開する描写で終わったのだが、今作は疎開前のこと、疎開先でのこと、戦争が終わってまた東京に戻ったときのこと、新しい学校生活、NHK入社からのあれこれまでが語られている。(なかなかの大ボリューム)
ちなみにトットちゃんが疎開したのは青森だったので、思いのほか青森要素がたっぷりな本で個人的に嬉しい。
だがそれ以上に目が離せなかったのが”徹子ママの大活躍”である。
いや、ホントに凄いのだ。
【青森との縁】
トットちゃん一家と青森との縁は、太平洋戦争が始まる前に遡る。
それはコンサートマスターである徹子パパを除く家族全員で、北海道にあるママの実家に遊びに行った帰り道のこと。
青森から上野へと向かう汽車の中で、トットちゃんは唐突に現れたリンゴ畑に感動して「リンゴだ!リンゴだ!!」と思わず声を上げた。
当時はまだ太平洋戦争前とはいえ、すっかり東京の街から食料は消えており、外食するにも外食券が必要な状況になっていた。リンゴなんてもう東京にはろくに売っていないのだ。
「どうしましょう、降りるわけにもいかないし」と、リンゴを手にしたい気持ちはあれど、どうしようもない徹子ママ。
すると、近くに居た青森の農家のおじさんが「リンゴ欲しいか?」と話しかけてきた。
「欲しいです!!」というママに、「奥さん、お宅の住所を書きなさい」と言うおじさん。徹子ママは大慌てでメモ帳に東京の住所を書き、おじさんに手渡したのだった。
2週間後、東京の自宅には今では貴重品のリンゴが2箱も届いた。
それが縁で、黒柳家は青森県三戸郡諏訪ノ平のおじさんにリンゴや野菜を送ってもらったりする関係になったのである。
青森県民は優しい。
【母の疎開先探しの旅】
太平洋戦争が始まって2年半が経過した頃、徹子ママは疎開する決意を固める。
しかしどこに疎開するべきか検討もつかない。
パパは東京生まれだし、北海道のママの実家は遠すぎる。(危険な海も渡らねばならないし)
そこでママはパパを東京に残し、子供3人を連れて疎開先探しの旅に出ることにした。
とりあえずママの父親に縁のある仙台に降り立ったトット一行。
しかしママは駅前を見てこう言った。
実際この予感は当たっていた。
翌年の7月に、仙台はB29の爆撃で見渡す限りの焼け野原になるのだ。
一行は仙台をあとにして、福島へ向かう。
そこで地元民に「飯坂温泉がいいべな」と勧められて向かったところ、戦争のせいか客もおらず、旅館の部屋を貸してくれるとのこと。
疎開先がどうにか見つかって喜んでいたママだったが、東京のパパからの電報に凍りつく。
パパに召集令状が来たのだ。
日本を代表するコンサートマスターだろうが戦地に行かされるほど、戦況は逼迫していたのである……。
一行はパパを見送るため、東京へと戻った。
【東京大空襲と疎開】
パパが出征してすぐに、東京は連日の空襲に悩まされるようになった。
家に掘った防空壕の中に毎晩入るような状態が続く。
トットちゃんは空腹と寝不足で酷い状態だ。
ある日、防空壕の隙間から見上げた空が一面真っ赤になっていた。
今までにないほど赤く、明るい。夜なのに本も読めるくらいに。
その晩は10万人が犠牲になった東京大空襲があったのだ。
ママは確信する。東京は危険だ。
できるだけ早く疎開しなければならない。
必要な荷物だけをまとめて、一行は疎開先へ向けて出発した。
目的地は福島の温泉ではなく、青森のおじさんのところ。
チョイスした理由はママの勘である。
【キリストの墓へ】
(トットちゃんがまさかのママとはぐれて一人で汽車に乗って尻内(今の八戸)まで向かう羽目になり、親切なおばさんに超満員の汽車の中でのトイレについて教えてもらったりしつつ、どうにかママと合流した壮絶な話はそれぞれ読んでもらうとして……)
どうにか無事に黒柳一家は青森にたどり着いた。
長時間移動の疲れを癒やすために旅館に泊まった翌日、ママはまさかの戸来にあるキリストの墓に寄るということを告げる。
(ママはキリスト教の信者なので寄りたいと思ったのだろう)
途中会った青森の人に道を聞くと、道を教えてもらうどころか案内までしてもらい、そのうえ家に荷物まで置かせてもらえることになった。
キリストの墓にたどり着くと、ママは深く祈りを捧げた。
(実はこれまでに相当心に堪えるあれこれがあったのだ…)
そしてキリストの墓の帰り道、バス停を見るとなぜか一行の荷物がある。
なんと荷物を置かせてもらった家の方が「また荷物を取りに寄るのも大変だろう」と、バス停まで荷物を全部運んでくれていたのだ。
素晴らしい人たちに見送られつつ、戸来を離れる一行。
これが青森県民の心意気なんだよね!
【諏訪ノ平のおじさんの元へ】
いよいよバスで諏訪ノ平のおじさんのもとへ向かう。
だが向かうのはいいのだが、実は事前に連絡はしていない。
果たして受け入れてもらえるのだろうか……?
ほどなくしておじさんの家に到着し、リンゴや野菜を送ってもらっていた黒柳であることを話すと、「くわしいことは、あとでいいべ」と、突然やってきた親子四人をおじさん一家は快く受け入れてくれた。
そしてみんなに白いご飯と汁物、魚の干物に漬物、さらには果物までごちそうしてくれたのである。東京では考えられない豪華な晩御飯だ。
そして食糧難の時代しか知らないトットちゃんの妹は、
白いご飯を見て「これ、なあに?」とママに聞くのだった。
生まれてから一度も、こんなご飯を見たことがないから……
(´;ω;`)
【青森での生活が始まる】
翌日、おじさんと一緒に村を巡り、どうにかリンゴ農家の作業小屋を借りることができたトットちゃん一行。
これで住む場所はなんとかなったし、学校へも通える。
そしてママが覚醒した。
まずは椅子やベッド、果てはタペストリーまで作って作業小屋の雰囲気を一変させ、どこかから種や苗を調達してきて畑作りまで始める。
そしていつの間にかママは農協的なところで働き始め、夜には近所の人の服を縫う内職も開始。
そして長い東京の生活で栄養失調になり、様々な症状が出ていたトットちゃんのため、ママは諏訪ノ平の野菜をカゴいっぱいに詰め込んで八戸港まで物々交換へ向かった。
漁師たちは気前よく魚を分けてくれて、トットちゃんは魚のタンパク質でみるみる体調が回復。
さらにママは言う。
いやはやすごい変貌ぶりである。
まだ豊かだったかつての東京生活では、世間では食べられていない高級果物であるバナナを毎日食べて、毎朝コーヒーなんて飲んで、家族が全員揃った日には牛肉のステーキを食べていたのが黒柳家なのだ。
それが今や「他人の家でごはんを食べてきなさい」である。
もうママは吹っ切れていたのだ。
過去のプライドなんぞよりも、子供に栄養豊富なものを食べさせることが最重要。そのために出来ることはなんだってする。
この環境適応能力こそがママの真骨頂である。
【戦争が終わって】
青森大空襲を紙一重で躱したりしつつ、どうにか過ごしてきたある日のこと。
ラジオによって終戦が告げられた。
しかしもう東京の家が燃えたということは以前聞いており、仮に東京に戻ったとしても帰る家はない。
そしてこのとき大雨でリンゴ小屋が水浸しになったため、トットちゃん一家は引っ越しをした。引越し先は諏訪ノ平駅のすぐ近く。
しかしこの引っ越しが大きく運命を変えるきっかけとなる。
戦後の諏訪ノ平の青物市場には、遠方から食料を買いに来る人が少なくなかった。
そんな青物市場のすぐ横に住んでいたトットちゃんは、ある日東京から買い出しに来ているおじさんに、「私が汽車に乗る夕方までに、このお米を炊いてもらうことはできますか?」というお願いをされる。
(この頃はまだ配給制なのは変わらず、貴重なお米は炊かずに持っておいて出先で炊く人が多かったらしい)
徹子ママは快くお米を炊いて、おじさんに渡してあげたのだが、なんと次の日には米を炊いて欲しいという人が5人に増えていた。
ママはボランティアでお米を炊き続け、たまに心づけをいただいたりもしていたのだが、「焼き魚や味噌汁を付けて定食にしたら需要があるのでは?」という革命的発想を思いつく。
そして、”ごはん炊きます”という紙を扉に貼った長屋は「食堂」へと変貌を遂げ、大人気店として成長していくことになるのだ。
食堂のおかずは毎朝八戸から売りに来る活きの良いものを使い、そのうちママは自分で陸奥湊まで出かけて日持ちのするスルメイカまで仕入れ始めるようになった。
市場では魚の情報を仕入れつつ、食堂では遠方の人から東京の情報を仕入れるママ。
更には野菜や果物、海産物まで扱い始め、ママは立派な行商人として成長を遂げる。
しかも変わらず農協の仕事はしているし、畑仕事に裁縫に、果ては声楽科出身で歌がうまいからと、宴会の余興にも呼ばれまくることになった。
寝る暇もない忙しさだが、ママは家族のために全力で頑張ったのだ。
なお、ママの父親は医者だが、ママの母親は米の炊き方も知らないお嬢様だという。(お手伝いさんに家事をさせていた)
なにがどうなってそんな家庭からこんな環境適応能力の高い女性が誕生したのだろうか……?
音楽学校に通っていた専業主婦のお嬢様が、今や青森で八面六臂の大活躍。
(やはり子供の存在は親を変えるってこと…?)
【東京へ、そして新たな商売へ】
食堂が大盛況で、少しずつ暮らしが安定したある日のこと。
ママは東京の様子が気になり始める。
もう家が焼けていることは知っていたがとりあえず東京に向かってみると、まだ防空壕に住んでいる人やバラックがたくさん建てられていた。
ママはその惨状を見つつも、どうにかまた東京に家を建てたいと思った。
しかしそのためにはお金が足りない。
そしてママはひらめく。
ママはまず、八戸で仕入れたイカの一夜干しをリュックに大量に詰め込み、東京で売りさばいた。(食糧難だからめっちゃ売れた)
そして食堂の行商人から教えてもらった商売テクニックを用いて、東京で質流れ品の時計や宝石を安く手に入れ、青森で売るという商売を開始。
ママは家の再建を目指して日々青森と東京を往復しまくり、またもや凄まじい勢いで稼ぎ始めた。
そんなある日、新聞にシベリアに抑留されている日本人捕虜の記事が出ていた。
そこにはなんと、「捕虜の中にはコンサートマスターだった黒柳守綱氏もいる」という記載があったのだ!
パパはシベリアで抑留されているが、生きている!?
【新しい家とパパの復員】
様々な情報が流れる中で、ママは雑多な情報を振り払うかのように商売に全力投球した。
そして東京に行った際は、トットちゃんが行きたいと望む東京の香蘭女学校に行くための下準備までこなしていた。
子供がしたいことを出来るように、ママは常に全力で動いていたのだ。
トットちゃんは香蘭女学校への進学を決める。
東京の下宿先にトットちゃんを送り届けたママは、青森の人に頼まれた生活用品を買い集めたリュックを背に、また諏訪ノ平へとんぼ返り。
ほどなくして貯金は十分な金額になり、家の工事が始まった。
徹子ママは数年で、家を建てるお金を集めきったのだ。
……そしてとうとうパパの復員の日がやってきた。
パパの乗る復員船は舞鶴に入港し、そこから汽車に乗って故郷に帰ることになる。
舞鶴には家族のための連絡所があり、そこにあらかじめ手紙を出しておけばパパが受け取れるようになっていた。
手紙には、「みんな元気に昔と同じ場所で待っています」と書かれていた。
品川駅で5年ぶりに会ったパパにトットちゃんは大喜び。
戦争を乗り越えて、こうしてまた家族は一つになった。
その日東京の家で迎えた晩御飯のメニューは、もちろん牛肉のステーキ。
その後パパは東京交響楽団にコンサートマスターとして迎えられ、ヴァイオリニストとしての復帰を果たした。
そしてトットちゃんもNHKに入って大活躍することになるのだが、それは皆さんご存知の通りである。
そんなわけで、めちゃくちゃすごい人だった黒柳徹子さんのお母様。
アニメ映画ではおっとりママな雰囲気があったので、こんなにも子どものために奮闘していたとは思わなかった。
まさか青森と東京を股にかける行商人として大活躍して、シベリアから戻ったパパを新築の家で迎えるとは……。
なかなか常人に出来ることではない。
そしてこの本の中には、つながる旅行記で触れたララ物資やシベリア抑留、舞鶴の引揚など、本当に多くの事柄が出てくる。
やっぱりこういう体験をすると、本を読む上であらかじめ色々知っておくのは大事なんだなと再認識した。
今回の記事では黒柳徹子さんの母親にフォーカスしているが、『続・窓ぎわのトットちゃん』はもちろんトットちゃんの面白い話も盛りだくさんなので、ぜひとも読んで欲しい。
「本をたくさん読みましょう」というのは、ことあるごとに黒柳さんが語る人生のアドバイスなのだ。
しかしこんな体験をした人が、今もハキハキと喋ってくれているという奇跡よ……。
黒柳徹子さんにはこれからも長生きして欲しい。