カルトとテロル、対話なき時代のコミュニケーション
Twitterで論破シリーズ
Twitterでは、今日も「ガツンと言ってやったぜ、スカッと」という書き込みのテンプレートが量産されている。ある人はとんでもない失礼な友人と縁を切り、ある人は離婚協議で夫への恨み辛みをぶつけ、ある人は鮮やかにカルト教団の勧誘を追い返したのだという。
失礼な友人と縁を切るのと、別れる旦那に呪詛の言葉をぶつけるのはさておき、カルトの勧誘を真に受けるな、というものは、ある種、社会の知恵の一部となりつつある。
こと安倍元首相の暗殺事件以降、注目を浴びているカルト(旧称:統一教会)について。普段は「対話による平和」を掲げている、左派の人々からの非難はとどめを知らない。
カルト憎しとアベ憎しが見事に癒着しているため、例にもよって、少しでも統一教会系のイベントに登壇した人間は、キャンセルの対象とする必要があると考えているようだ。
プーチン大統領とは対話を呼びかけておきながら、統一教会と好意的に接触するだけで政治家失格である、というダブルスタンダードには呆れ果てる他ないが、確かに統一教会はとても悪質な組織であることもまた、事実のようだ。
また、統一教会系の組織から人員や金銭的サポートを受けていたと思われる右派の動揺も大きい。勝共連合など、統一教会スポンサーイベントにも出ていた右派も、また身辺整理を始めたようだ。彼らは突如として、自分たちはそんなカルトとは違うと距離を取り始めた。
無神論者なのに、勝手に左派から統一教会の信者認定を受けていた右派論客のナザレンコ氏のツイートを、ここにサンプルとしてあげておきたい。
「どのような理由があっても、テロは許容してはならない」
この良識派の言葉に反して、少なくともこの山上徹也容疑者の目的が「統一教会の悪事に、社会のスポットライトを当てること」という報道通りであったのなら、彼は目標を元首相暗殺というテロルによって大いに達成したと言える。
その良識派のセオリー通りに事を進めたいのであれば、犯人の氏名や動機を非公開にして裁判を進める他ないだろうが、彼の伯父がどのみち積極的にメディアに出てくる事は変わりなかっただろう。この自由社会において、犯罪者でもない人の口を塞ぐ事などできないのだ。
それでも、口を塞ぐ方法は存在する。そう、話をする前に撃ち殺すことだ。山上徹也と全く同じテロルである。安倍晋三元首相の突然の死を覆う悲劇感も、やはり現役政治家が演説中に撃たれたことに起因する。
カルトと、その構成員の社会性について
カルトに誘われやすい人について、優れた洞察が挙げられた。恐らく、これは真実だろう。カルトであれ、真っ当な宗教団体であれ、彼らの組織の発展に資する人間を引き入れたいと考えているのだ。別に一般的な企業であっても、上の要件を満たす人を雇いたいとは思わないだろう。カルトすらから無い内定の皆さんは、布教してきたやつを論破したと誇る前に、かなり性格に難があると自覚した方が良いだろう。
そんな社会不適合者が得意とする必殺技、それは会話を成立させないこと。これが、カルト撃退の鉄則であり、間違っても相手の話なんぞに耳を傾けてはいけない。そしてカルトとは、社会の常識を著しく侵犯し、対話すら困難な集団である以上、社会常識という別種の思考体系のオーラをまとうこと、それこそがカルトを排除する道なのだ。
社会に共有された通念を否定して、命懸けで社会の修正を迫る集団
宗教であれ、政党であれ、このような集団ほどおそるべきものは存在しない。しかしながら、キリスト教であれ仏教であれ、当時の社会通念を大いに否定し、そして語り継がれてきた教えに他ならない。そして、通じない相手へのメッセージは、常に恐怖と暴力に満ちていた。初期キリスト教の受難の歴史など、ローマ帝国政府のカルトとの苦闘と読むことも可能であろう。
かつて存在した凶悪なテロ集団、オウム真理教。彼らもまた、社会への対話が、選挙での惨敗によって閉ざされた後、暴力革命を志向するように変貌したのだという。
お互い、話が通じない、相手の話を聞くつもりもない。「あんなやつら」に言論の自由を与える必要もない、与えてもならない。そう確信した先に、とりうるコミュニケーションは極めて限定的である、要するに、相手をぶん殴る以外に存在しないのだ。オウム真理教にしても、結局のところ日本政府が警察力を行使したからこそ、武装解除を強いることができたのであって、別に政府が麻原彰晃と対話したから彼らが首を差し出したわけではない。他にも、タリバンは、彼らにとってのカルト、他のイスラム主義団体や、アメリカ軍に守られていた西欧思想を武力によって完全に排除することで、正統な政府を打ち立てることに成功したといえる。銃口から生まれる国家ばかりではないかもしれないが、銃口を向けることができない政府は存在し得ない。
戦闘的な平和主義の解決策、即ちテロル
驚くべきことに、安倍元首相の暗殺を「義挙」と捉え、賞賛するポスターが作成されたのだという。
結局のところ、自分たちの説が選挙で通らないからと言って、それで考えを諦めたり、改める人たちばかりではない、左右を問わず、確信的に自身の信条を疑わず、そしてそれを強いようとする人は決して絶えることはない。そんな会話の通じない彼らとのコミュニケーションは、結局のところ、恐怖と暴力しか残されてはいない。テロル、それだけが彼らの取り得る、あるいは彼らへ取り得る、唯一のコミュニケーションなのだ。
願わくば、自由な言論が成立し、キャンセルではなく議論が行われる、幅が広い社会であらんことを。テロルに導かれる社会よりは、多分良い。
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