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生活綴方的教育方法とは何だろう? その②

 前回記事の続きです。前回の記事をぜひ参照してください。


国分一太郎執筆の「定義」

 1958年発行の『生活綴方事典』には、生活綴方的教育方法の定義が書かれています。執筆者は国分一太郎です。そこにはとても興味深いことが書いてありました。事典では、定義の前に生活綴方的教育方法の「発生・性格」を述べています。

生活綴方的教育方法は、
「生活綴方の仕事を通して、子どもたちに好ましいものの見方・考え方・感じ方を育てようと努力するものが、しぜんのうちに獲得するひとつの教育方法ないし教育態度である。」(501p.)
また、その「注意」として、以下のように述べています。
「この教育方法を会得するには、まず生活綴方の仕事にうちこんでみる必要がある。生活綴方の仕事にしたがわないで、この方法だけを一挙に身につけることは、とうていできない。」
(502p.)

 つまり、熱心に生活綴方の仕事にしたがってきた教師には自ずからこの方法が備わると言っているのです。また、生活綴方の教育運動にすすんで取り組んできた教師の集団は、このような言葉に依らなくても、この方法の独自性を発見し、確認し合ってきたということも述べています。
「そして、これは、教育の全分野に必要に応じて適用される一般的な方法となりつつあるところに大きな特徴がある」(501p.)
と、特定の教科や領域、生活指導に限定される教育方法ではないことを特徴づけています。万能な教育方法ではあるが、簡単に手に入れようとするな。「会得」するまで生活綴方の仕事をせよ、と言っているように私には感じられました。

 では、生活綴方的教育方法の独自性とは何なのでしょう。事典では、それを「定義」としてまとめています。

生活綴方的教育方法とは、
「子どもたちの認識の発達をはかるとき、彼らが既往の具体的な生活体験のなかで感覚し、素ぼくに思考している個別的・具体的・特殊的なものを、あくまで見のがすことなく、それを書きことばまたは話しことばで学級集団のなかに提出させ、それを手がかりとしつつ、その集団の話し合いのなかで、より一般的・抽象的・普遍的な新しい認識を子どもたちのうちに着実に育てようとする方法であり、態度である。」
 これに付け加えて、「現実重視」と「個を殺さぬ話し合いの奨励」に心がける方法と書かれています。私が読んで感じるのは、この定義がずいぶん「科学的思考」というものを意識した書き方だということです。個別・具体・特殊から一般・抽象・普遍へと「認識の発達」をはかる、という書きぶりがそれを感じさせます。

 1950年半ばは、当時の民間教育団体に新しい対応が現れた時期です。文部省の新教育の教育理論や経験主義、それを教育実践に具体化した「生活単元学習」への批判が大きな運動となり、遠山啓を中心とする数学教育協議会がその運動で影響力をもっていきます。遠山はそれまでの民間教育団体運動は、社会の改造に重点を置いているが、社会の持続の面がおろそかにされていると指摘しました。遠山の批判は生活綴方にも向けられ、「生活を強調する教育運動は科学の教育を軽んずる」と言及するにいたりました。(『大田堯自撰集成2 ちがう・かかわる・かわる 基本的人権と教育』2014年発行、藤原書店、208p)
 このような批判が、科学的思考または科学と教育の結合を印象付けるような上記の「定義」にも影響を与えたのでしょう。

 岩波教育小辞典(1982年発行・五十嵐顕、大田堯、山住正己、堀尾輝久 編)には、「〈認識〉という用語が日本の教育界でひろく使用されるようになったのは、1950年代中葉からで、それは、〈知識の教育〉というのでは、知識を習得する主体の働きが、また〈理解の教育〉といったのでは、文化遺産としての知識の伝達が、それぞれに軽視されるという理由からである。」(214p,)と書いてあります。
 同著では、「子どもの認識の発達は、学習の過程で根本的に重要な位置をしめている。感性的認識の段階から理性的認識の段階へすすむ過程は、すでに幼児期にある程度までみられ、小学校から文字・記号の学習と結合して組織的にすすめられる。」とも記述されています。
 このあたりの文言を理解するには、哲学や心理学の知識が必要になりそうです。哲学や心理学と、「認識の発達」という用語は関係があるのでしょうか。これについては、またどこかで記事にしたいと思います。
 ちなみに、岩波教育小辞典は、刊行年までの教育用語がコンパクトにまとめられていて、私が用語の学習によく使っています。よろしければこちらの記事もご覧ください。


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