さよならをする前に【閲覧注意】
6月29日、私は首を吊って死のうとした。
幸せな日々を過ごしていたのにも関わらず、唐突に生きている意味が見いだせなくなって、とにかくもう終わらせてしまえば楽になれるのにな。そう思って、解けにくい紐の縛り方を学んで実践した。
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去年の8月に、私は環境が変わることの無い場所で、悪影響を受け続ける日々から逃げるように、恋人さんの元へ走って行った。
元々の環境は、家族の中で優劣があり、その優劣は男女で差別もされていたし、兄妹間の立場でも決められていた。
祖父は、被害妄想と社会的にしてはいけない行動を平気でする人だ。
何の気なしに「そういえばこの日はゴミの日だったね。」なんて話せば、自分を指摘されたと感じるようで「ゴミはしっかり捨てないとね」といきなり大きな声で話したり、見知らぬ人が「あれはおかしかったね(面白かった映画の内容のこと)」と話していても、私や家族に向かって「あいつ、今俺の事おかしかったとか言いやがったよ。あいつがおかしいんだよ」と小声でごにょごにょ言い出したりもする。
さらには、酔っ払うと家族や他人に対して暴言を吐いたり、酷い時には私が働いている職場にわざわざ足を運んで、店内で寝転がられたこともあった。
そして、そんな祖父に育てられた母親は、自分に対してコンプレックスしかなかった。周りの『世間一般』と呼ばれる環境で育たなかったので、自分は何のために産まれてきたのか、今の歳になっても彼女は気が付いていないだろう。子供を産んだことで、私は子供のために生きているのだ。と感じているのだろうが、あの人は無意識のうちに私と兄を差別していた。
兄は産まれてきてから、父親に暴力を振るわれていた。父親も自分の父親にそうされてきたからだ。
周りから上目遣いで人を見るくせがあると指摘され、気が付いた母親はその身を呈して護った。そうやって少し環境は改善された。
その後、私が産まれた。でも、私は手にかからなかったらしい。兄のように体調は崩さないし、兄のように父親から暴力も振るわれない。兄のように厳しくしつけられてないし、兄のようにワンワン泣いたりしない。
だから、娘のことはそんなに心配しなくていいや。
そう、親ながら無自覚のうちに感じていたんじゃないかと思う。それは、兄が大きくなっていってもそうだった。兄が保育園に入っても、なかなか馴染めなかったことを心配したり、学校に通っていてもどうしているか心配していたり、進路に関しても「好きなように」選ばせてあげて、結婚した後も兄がしっかりと先を考えていないことが原因だったのにも関わらず、『可哀想だから』と受け入れてきた。
きっと、兄が今まで、どれだけ感情を我慢してきたのか理解しているからこそ、今まで背負わせてきたことを償いたいと思っているからだろう。
その分、私は何も我慢なんてしてない。そう感じていたんじゃないだろうか。
母親がいない家庭は、本当に寂しかった。
兄は常に私と遊んでくれているわけじゃなかった。
だから、外に出て友達を作って遊んでいた。
でも、勝手に外に出ると怒られた。
また部屋に戻される。
誰も、構ってくれない。
甘えたかった存在は、家庭を支えるということに一生懸命で、私が甘えたことを言えば「そんな我儘を言うな」と厳しく躾られた。
私も兄と同じものが欲しい。
私はピアノが弾きたい。
私は音楽が大好き。
私は色んな物語を作ったり、演じたりするのが好き。
私って、意外と勉強出来るんだよ。
私、頑張ってるでしょ?
私がこう言えば、母親は必ずこう言った。
何、そんな自慢げに話すの?あんたはそんなに凄くもないから。自信過剰にならないで。イライラする。
幼いながらに、なんでそんな言い方するんだろうと感じた。
母親からしてみれば、言い方が調子に乗っていて鼻につくと感じたらしい。
だから私はこう思った。「私が褒めてもらおうとすると、お母さんは嫌なんだ。じゃあ、もう話さないようにしよう」と。
こうして感情を抑えていくうちに、気が付いたら私は母親のマリオネットになっていました。
母親は精神的病を抱えてしまったから、私が支えなきゃいけない。
母親が辛い時は、動けるまで待ってあげなきゃ。
やりたいと思ったことは、全部我慢しなきゃ。
私が下向きのことを言えば、きっと励ましてもらえる。
そうすれば、お母さんは笑顔になってくれるはず。
そう思って過ごしてきました。
22歳を迎えた時までは。
3月を迎えた学生時代。今の恋人さんと出会いました。自宅の中で私には、私だけの空間はありませんでした。
寝室は、母親が一人で寝られないから一緒にいる。
勉強机も母親と同じ部屋に置かれているから、静かに寝られるように夜間は勉強しない。電気も控える。
兄が結婚し、家を出ていっても、
部屋は残したままで、私を移動させようともしない。
仕舞いには「Lilyはお母さんと一緒の部屋で良いでしょ?」と言われたこともありました。
はなから、私には居場所などなかったのです。
すると、恋人さんは言いました。
「そんな環境。絶対可笑しいよ。なんで、Lilyのプライベートを作ってくれていないの?」
その日から、少しづつ母親から離れて過ごすことを練習し始めました。
兄の部屋だったところは、私の部屋に。
部屋に入る時は、必ず扉を閉める。
私が一人の空間になって、恋人さんとの時間も大切にしたいんだ。という気持ちを、母親にも分かってもらうために、一生懸命気持ちを伝えました。
が、母親はただ単に『自分が邪魔者扱いされている』としか、感じて貰えませんでした。
それは、家を出るその日まで変わることはありませんでした。
そして、私への扱いは日に日に悪化していき、
「精神が落ちて、料理を準備出来なくて、申し訳なく感じるんです」と、表向きでは話していても、
私の前ではそんなことは何一つ言わず、
しんどい時はしんどいと言ってと言っているのに、
ただひたすら行動だけで示し、
辛いんだろうなと思って動いた時には、
「何?」と怒りをあらわにした口調で責められました。
私は、どう動いてあげればいいのかわかりませんでした。
気遣えばキレられる。思いやれば良いように扱われる。自分を出せば責められる。
こんな日々では、前向きになろうと一生懸命になっても、苦しいだけでした。
だから、家を出ました。家族と距離を取る事で、私の気持ちは少し変われるのではないかと思ったからです。
そして、離れてから私は、新しい環境や今まで経験してこなかった『世間一般』に触れ、自分の今までの常識がズレていたことを痛いほど感じました。
慣れていくのには時間がかかりました。
当たり前を知るのは、本当に大変でした。
恋人さんの家族にも優しく接してもらえて、
家族からの愛情を知りました。
マイナスなことを発してしまった時は、
そんなに深く考えるんでない。
必ずいい方向に向かうからと励まして貰えました。
前向きなことを言った時は、
いいんじゃない?目標に向かって頑張って!と
沢山応援して貰えました。
こういう趣味があるんですと話せば、
素敵な趣味だね。大切にしていきなさいと
尊重して貰えました。
そして、何より
私の出来ることを私以上に見つめてくれていました。
「Lilyは、人の気持ちをよく感じとる人だね」
「些細な音でもすぐ気がついてくれるね」
「毎日家事ができるようになったなら凄いじゃない」
「料理は本当に好きな人じゃないと面倒くさいと思って当然、それでも投げ捨てずに向き合うことが大切なんだよ」
こう言って、恋人さんの家族の人達から沢山支えていただけました。
何度も何度も、感謝を伝えたいけれど、
恋人さんと同じように、家族のことを呼んでみたいけれど、
血が繋がっていない私は、急に距離を詰めていいものか、怖くてずっと言えず仕舞でした。
そうこう感じているうちに、
コロナの影響で仕事をクビになり、
すぐに就いた仕事も、性にあわず精神的に苦しみ、
恋人さんからの「思いやりがある部分」に着目して貰ったことから、ケアマネージャーに向けて頑張ろうと決意しました。
そして、今年の5月から職業訓練校に通うことになりました。
最初は、久々の学校で緊張していましたが、
授業を受けていく事に、介護の心理と現実問題が大変であることを知っていき、
まだまだ、見直していかなければならない課題が多いのだなと感じました。
でも、そんな中、1人のクラスメイトが退学しました。
その人は最後に学校に来た時にこう言いました。
「私、今『心理学』のスクーリングに通っているの」
それは、私にとって1番習いたくて、
でも、家族に迷惑をかけたくなくて、
借金を増やしたくなくて、
諦めてしまった『夢』でした。
その人は、もう50代後半くらいであろうにも関わらず、夢に向かって輝いていました。
本当は心理学とともに、介護の内容も気になったからこそ、習いたかったのでしょう。
でも、スクーリングのレポートや試験内容に手を追われ、とうとう並行していくことが難しくなってしまったのだそうです。
だから、『心理学』一本で進もうと思う。
…正直、私にはとても羨ましく思いました。
「あの時、心理を学べる大学に入れてたらなあ…カウンセラーになれたかもしれないのに」
心の底が、モヤっとしました。
でも、ケアマネージャーになりたい目標は嘘ではなかったので、諦めずに通おう!と思いました。
ある日、病気に関するDVDの内容を見ていました。
糖尿病患者の実態を見た時、根っからの想像力の高さに具合が悪くなり、貧血になりました。
先生は、普段は訪問看護師をされている方で、すぐに対処してくれましたが、こういった内容は今後の授業で多くなることもある。と言った部分で少し心配されていました。
介護の現場では、こういった病気を抱える人は少なくないんだ。そう思った時、生半可な気持ちで選んだわけでなくても、本当に支えられるのか不安になりました。
「この仕事に就いても、また私は直ぐに辞めてしまう羽目になるのかな…嫌だな…でも、心と寄り添える仕事なんて、ほぼ無いに等しいし…」
段々と心が冷えていく感覚がしました。
こうして学校に通っていくうちに、
「本当にこのまま進んでいっていいのか」
と不安になる日々を過ごすようになりました。
傍ら、目標に向けて頑張っている人がいる。
本当はやりたかった目標が、私の中にあると気がついてしまった時、初めて私の胸の中に『後悔』が芽生えました。
そして、恋人さんの家族からの優しさも
私はどう答えればいいか分からず、
素直になれば嫌われると思い込み、
吐き出すことが怖くて、怖くて、
本当は私の事なんて必要な人はここにもいないんじゃないかと、思い込もうとしました。
傍にいてくれている恋人さんも、
私が居なくなったら気持ちが楽になれて、
自分のやりたいことが出来るんじゃないか。
そもそも、生まれてきたこと自体が間違いだったんだから、ここに居場所はないんだから、、、、、、、
そうだ。首吊って死のう。
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こうして、冒頭の状況になりました。
授業の中で、家族からしっかりと見て貰えなかった老人が、低い木の枝に服の袖をちぎって縛り、ちょっとした段差を自分で作れれば、簡単に首を吊って死んでしまうことが出来るのだ。と話した先生がいたので、私もそれを試して本当に死ねるのか知ろうと思いました。
クローゼットの取っ手に括りつけて、
死ねる体制は整いました。
首をかけました。
……………
…………
………
……
気が付いたら、首から紐を外していました。
その時の私は、いつでも死のうと思えば死ねるのだということ感じたのと、死なない決断をしてしまったからこそ、生きることの辛さ、今日死ねば楽になれる現実との狭間で苦しくて、自然と涙がボロボロとこぼれ落ちてしまいました。
LINEを無我夢中で開き、親友に「とにかく首を吊って死にたいとしか考えられない」と本音を打ち明けました。
当時、親友に結婚式に出て欲しいとお願いされていたので、私は快く引き受けていました。
だからこそ、こんなことを考えているなんて知ったら、幸せに泥を塗ってしまうと、私はずっと話せずにいたのです。
でも、苦しさの中にいる時、私は吐き出さずには居られませんでした。
秒で返信が返ってきました。「どうした?大丈夫?」と。
すぐに駆け寄ってくれた親友の暖かさに、でもなんと伝えれば楽になれるのかわからなくて涙は止まりませんでした。
そんな中で、恋人さんが帰ってきました。
私の姿に、どうした?何があった?とすごく心配してくれましたが、気持ちがまとまらない私は半ば混乱状態でした。
それでも、ゆっくり見つめてくれました。
まずは一つ一つ紐解いていこう。と、何が苦しかったのか話を聴いてくれました。
そうして、バラバラでも苦しかったことを話すと、
恋人さんは「大丈夫。Lilyはいつも頑張っているよ。頑張っている姿はみんな伝わっているよ。」と励ましてくれました。
私が思いに詰まって、でも本当に申し訳なくて「ごめん。今日首吊って死のうとしてた。」と吐き出すと、「いやいや、なしたの。そんなに頑張ってきたのに何をそんなに思い悩んでるの?」と、寄り添ってくれました。
そして、恋人さんからは「せっかく、変わろうと頑張って、今も少しずつ成長してきているのに、ここで投げ捨てちゃったら、叶えたいと思ったことも『後悔』で終わってしまうよ?」と本音で向き合ってくれました。
恋人さんは、自分自身も少し焦りを感じるくらい、私が大きく成長しようと頑張っている姿を感じ取ってくれていたらしく、今まで出来なかったこと、今まで知ることがなかったこと、『世間一般』的な常識を受け入れようと取り組んでいることを間近で見続けてきたからこそ、本当に人のためを思って変わろうとしている姿勢を褒めて受け入れてくれました。
だからこそ、「今死んだらもったいない。むしろそこで死んだら周りへの恩を仇で返すもんだ」と指摘されました。
涙は止まらなかったけれど、私が思っているより周りは、私のことを本気で受け入れてくれている環境であることを、その時不謹慎な状況にもかかわらず、感じ取ることが出来ました。
そこから私は、「とりあえず生きてみて、今の気持ちから晴れる何かを見つけてみよう」と考えを変えてみました。
その出来事から2日後、授業が午前中に終わり、恋人さんも新たな職場の説明会が終わったため、珍しく平日に二人の時間が出来ました。
ふと、私の心がこう呟きました。
「せっかくだから、恋人さんと一緒に出掛けたいな」
漠然とした思いでした。でも、この気持ちを行動に移さなきゃ、絶対に後悔すると思いました。
だから、恋人さんに話しました。すると、恋人さんはすぐに「いいよ」と返事をくれました。
頑張って振り絞った本音を、嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれたことに、私は「やりたいと伝えることは、ダメなことじゃない」ことを覚えました。
恋人さんの車に乗り、さてどこに行く?となった時、
行きたい場所…でも、遠いかも…言っていいのかな…と悩みながら、自然と「どうしよっかな…」と言葉が出ていました。
恋人さんは「自分から言い出したんだから、行きたいところを言ってよ」と話してくれて、勇気を振り絞って2,30分かかるであろう場所を伝えました。
私が指定したのは『ショッピングモール』
その中にある雑貨屋さんで、商品をただ見たいだけでした。
けど、恋人さんも「せっかくだから、映画何が入ってるが見てみない?」と言ってくれて、ショッピングモール内にある映画館まで足を運んでいました。
本当に、たまたま偶然『ゆるキャン』というキャンプがテーマの映画が入っていました。
お互い、キャンプの趣味が最近出来たので、この映画も元々アニメで全部見ていました。
「次に公演されるの18時近いけど…どうする?」
彼からの問いに私は、普段なら悩むのにすぐに答えました。
「せっかくだから、観ようよ。」
その間に、気が付けば私のサンダルが手に入ったり、一緒に夕飯を食べたり、目的の雑貨屋さんでゆっくりと雑貨や食品を眺めることも出来ました。
「ずっと、この食べ物気になってるんだよね」
「じゃあ、映画終わった後、気になるの買ってみたら?」
「うん、そうしてみる」
何気ない会話が、少しずつ私が私自身の感情を許してあげられていると感じられました。
映画を見た後、登場キャラクターのセリフに、私は心が少し晴れました。
なでしこちゃんの「大人になるってなんでも出来ると思っていたけど、そうでもないんだね。でも、大人になったからこそ出来ることはあるよね。」というセリフ(多少違うと思いますがお許しを…)が心に刺さり、社会に出るって完璧じゃなくていいんだ。私自身が変われてないからって、周りの心境を上手く理解出来ないからって、自分自身を卑下しなくたっていいんだ。と見つめ直すことが出来ました。
そうした出来事を得たある日、事件が起きました。
学校が終わり、家に帰った後、郵便受けにはがきが入っていました。
住所を見ると転送シールが貼られており、実家の住所でした。
…嫌な予感が過りました。
はがきを開くとそこには、11,000円ほどの請求書。
なんと、母親が私の許可無く、私が解約し忘れた食品配達サービスを使ったのです。
正直、愕然としました。そして、同時にここまで私の親は非常識だったのかと知りました。
心の奥が複雑になりながらも、苦しい感情の中に新たな気持ちが芽生えました。
それは、私にとっての『必要なもの』とは何か。
家を出てから約1年間、恋人さんやその家族の方々、私の親友や友達にも支えて貰えて、私の中で本当の『愛情』を知りました。
そして、『常識』や自分の力で解決しなければならないことから『逃げない』ことも学びました。
そうすると、自ずと答えは出てきました。
「もう、私の家族はここにあるじゃないか。」
そこに気がついた時、初めはモヤついて苦しかった思いが、徐々に晴れていくのを感じました。
私の居場所は、今ここにある。そう気が付けた時、もう怖いと感じていた感情は無くなりました。
その日、私は恋人さんにこう伝えました。
「この請求書を〝あの人〟に送り返した時、私の中で『家族は死んだ』と感じることが出来ると思う」
「だから、それを節目に私は恋人さんとの『家族』になりたいです。」
その言葉を聴いて、恋人さんは「それもLilyにとってのいい節目になっていいんじゃない?」と言ってくれ、結婚を受け入れてくれました。
今では、結婚予定日を決めており、オリジナル婚姻届の準備も出来ています。
そして、恋人さんの家族にも、私の現状を伝え、家族になることを反対もされず、これからもよろしくねと受け入れて貰えました。
こうして話していった中で、私はこんなにも今まで感じていたことが、振り返れば些細なことで「想いを打ち明ける大切さ」を知っていったのです。
傍から見たら、何をそんな当然なことをと思うかもしれません。
でも、私からしたら『生まれて初めて知った常識』なのです。
その決意が決まってからというもの、私の日々は大きく変わりました。
本当に出来ないことは、出来なくても理解出来る部分を知って行き、
全部がやれないからと言ってダメな人間じゃないことを受け入れました。
職業訓練校のクラスメイト達も、色んな気持ちを抱えながら、今も勉強と向き合っているのだと感じ、家族問題とも親身に寄り添っている人もいるとなると、人それぞれ悩みながらも前を向いて歩いているわけです。
その人達それぞれの『人生』は、必ずその人にとっての『正解』であって、みんなの『正解』でないのは当たり前。だから、どんな考え方や意見があったって、それがその人達にとって「良い事だ!」と感じられる『ひとつの答え』なのだなと、広く受け取ることが出来るようになりました。
もちろん、私の考えはその人達には理解されません。
理解してもらえるところもありますが、育った環境も感じ取ってきた人生も違う訳ですから、理解出来なくて当然なのです。
だから、否定されても「そうですよね。貴方には貴方の正解があるから、それでいいんですよ。」と、その人にとっての考えを尊重するようにしました。
まだちょっとだけ、否定されるのは苦しいと感じるけれど、その人の在り方は間違いじゃないからな。と考えられるようになった時、私も間違いじゃないじゃん。ならいいや!と割り切れるようになった自分を見て、ようやく『大人』になれたのかな。と感じることが出来ました。
長々と綴りましたが、家族と縁を切るに至ってから、今の心境に至るまでの流れは、自分の中でも素晴らしい成長だなと感じていますし、この出来事がたくさんの人に広まることで、こんな家族が本当にいるのか…という現実と、それに苦しめられている子供を多く作らないで欲しい。と言った願いも込めて綴りました。
また、私のような環境で育ってしまった人も、このブログを読んで、こういう区切りの付け方や気持ちの切り替え方があるんだなあと感じていただけたら、私としても嬉しい限りです。
今もまだ、『親の呪い』に苦しめられている子供達は沢山います。これ以上、親気分に振り回されない子供達を護るためにも、私達は大きな声で親が間違っている時は違うと言っていいんだよ。と話してあげなければありません。
でも、子供達にとっては、親が最初に出会う『大人』であって、『絶対』なんです。
けれど、そんな親ですら『絶対』なんかじゃないんです。間違えることだってあるし、知らなかったことだってあるんです。
そんな時、我々『大人』がしてはいけないのは、『間違えを認めないこと』です。
『大人』だって、間違えちゃう時はある。でも、間違えてしまった時は、正しいことをしっかり学んで、自分の正解を見つけていこうね。
こうやって伝えていける『大人』達がこれから先、もっと多く増えてくださることを願っています。
これが、『大人』に傷つけられた元『子供』の意見です。
最後になりますが、今の世の中自分の大切さが分からない人達が大勢居ます。
そんな人達は、周りから『否定』され続けられているんです。
間違えだってあるかもしれない。でも、だったら素直に謝って、正しいことを見つけていきます。と言える世の中に、少しずつでもいいからなっていって欲しいです。
そして、みんなの中に「私って生きる価値があるんだな」と感じてくれる未来が、必ず訪れてくれることを願っております。
みんな違う考えを持っていていいんです。
同じ意見ばかりを強要されちゃ、
ルールがあってやりやすくても、
自分の気持ちは抑制されて苦しいだけです。
本気で、自分の気持ちが分からなくなってしまう前に、
まずは、自分が何に傷ついているのか。
どうして自信を持てないのか。
自信の持てない自分は悪い人間なのか。
よく、見つめてあげてください。
これからの人生に、
暖かな言葉が増えていく時代が訪れますように。
Lily Clown
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