堀江敏幸「貸衣装」
多和田葉子の後に堀江敏幸かい! 「新潮」の内容構成もなかなかやりおる。
堀江敏幸は端正な小説を書く。随分前に「雪沼とその周辺」を読んだ。これぞ日本文学という短編集であった。三浦哲郎がいなくなっても堀江敏幸がいる。伝統の日本文学は安泰である。
例えばアメリカ人はまだ、こういうタイプの小説を読んで、「ニホンブンガク、ワッカリマセーン。コレ、えっせいト、ドウチガイマスカー?」とやるのだろうか。日本の作家や評論家が、昔、よくそう書いて伝統の日本文学を腐していた。日本の私小説に繋がる日常周辺の世界を描いた小説はダメだ。外国じゃ、エッセイに毛が生えたもんとしてしか認識されない、てね。だけど、アメリカ人が本当にそう書いた文章を読んだことなかった。
してるうち、アメリカのレイモンドカヴァーが紹介された。ミニマリズムの流れが出てきて、それが文学ではカヴァーだった。アメリカで評価されはじめて、日本でも春樹が紹介してブームになった。誰も「こんなのエッセイに毛が生えたもんだ!」と言わなくなった。
そんな流れに関係なく、三浦哲郎は淡々と短編を書いて、川端康成文学賞を二度とった。堀江敏幸も受賞した。余談だが、私は数ある文学賞の中で川端康成文学賞が一番好きだ。また、受賞作を集めた本を出して欲しく思う。
「貸衣装」も、人々の普通の生活が淡々と語られる。普通の生活ながら、そこには個々が抱えるドラマがある。大声をあげたり、エキセントリックになったりせずに、人々は生活の営みの中で、問題と静かに向き合う。その様が愛しい。堀江敏幸の書く世界は、優しく愛おしい。それは甘いのではない。時に厳しい題材を扱う時も、堀江敏幸の眼差しは、嘘をつかず、しっかりとあるがままの人間を掬い取ろうとする。
これは、なかなか書けるものではない。
題名からしてすばらしいではないか。新人なら即却下される題名である。なのに、
貸衣装 堀江敏幸
とあれば、その字面に安心してしまう。それでいいと納得する。
本作の筋は描かない。一行一行が、滋味あふれる珠玉の日本語だからである。