桃 三木三奈4
亜子は何故気づいたんだろう、人生が汚れた水だってことを。それは多分、自分で考えるようななったからではないか。思春期になって自分で考え始めて、亜子はひとつひとつのことに絶望していったんだと思う。学校に絶望して、友達に絶望して、母親に絶望して、担任に絶望して、父親のいない家庭に絶望して。絶望してるから、だから亜子は戦わない。諦めているだけ。
でも、それは亜子だけではない。多かれ少なかれ、人は思春期に現実を知る。知って、裏切られたような気持ちになって反抗する。やがてそれはおさまってゆくのだが。
何故だろう。何故おさまるのか。ひとつには、自分もたいした人間じゃないって気づくからか。自分を諦めるからか。
もうひとつには、自分が特別な人間だと気づくからか。自分は、この世界を変えられると思うからか。
亜子はまだ自分を諦めてはいない。自分が世界を変えられるとも思ってはいない。ただ、周りを諦めている。そこには冷めた苛立ちがある。
「嘘」は、変わらない汚れた現実を、掻き回してみることだ。ここではない、もう一つの現実を夢想する行為だ。そこでは友達はいじめっ子になり、自分は可哀想ないじめられっ子になる。「嘘」は楽しい。それは夢想することだから。
でも、「嘘」だから、本当は何も変わってはいない。「嘘」は苦しいのだ。なぜって、それは人を傷つけることだから。「嘘」は夢想されている間は楽しいが、露見してしまえば、人を傷つける。人を平気で傷つける自分を知って自分も傷つく。いや、露見してなくても、「嘘」は自分を傷つける。「嘘」をつくことは、現実を受け入れられない、と告白しているようなものだから。自分がはみ出しもので、現実から拒否されていると、自白しているようなものだから。
「嘘」ばかりつく子で、「嘘」をつくことに自覚的でない子は、世界を自分でコントロールしているような錯覚をしている。
「嘘」ばかりつく子で、でも、「嘘」をつくことに自覚的な子は、世界から排除されているような、錯覚をもっている。
亜子は後者だ。勿論亜子は、そんな世界に入りたくもないのだが。
亜子は強い。世界から排除されてもなんとも思っていない。「嘘」をついて、結果自分が傷つくことになっても構わないとおもっている。むしろ、自分から傷つこうとさえしている。亜子は何故そんなに強いのか。
それは亜子には見えているからだ。
亜子の目には、今、芸術が見えている。