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アイスネルワイゼン三木三奈4

第4場面 ケアホームのコンサート

物語は動き出す。琴音は、小林に紹介された、というか押し付けられた仕事をしに、よし子の家に行く。少々コミカルに語られるこの場面で、琴音はやることなすこと全てうまくいかない。この失敗、不運の連続は、これから先の物語の行末を暗示している。

小林は、車で連れていってくれる、と言ったのに、自分が運転手だった。
ペーパードライバーだったので、危うく事故を起こしそうになった。
伴奏はミスばかりだとよし子に叱られた。
帰りはよし子の息子が運転しに来ており、自分はバスで帰らねばならなかった。息子は車で送ろうと言ってくれるが、よし子に反対されると、すぐに引っ込む。この小説に出てくる男は、全部役には立たない。

 この場面で琴音は多く移動する。必然的に状況の描写が必要となり、地の文は増えていく。

※琴音の移動場所
よし子の家の前→車の中→楽屋→ロビー→駐車場→送迎バス
 実際に演奏する場面は必要ないので書かれない。練習に少しだけ舞台に上がるが、すぐに追い出される。舞台シーンをもし書いてしまえば、これもまた小説の焦点をボヤけさせることになるからだ。演奏の達成感や音楽愛は、この小説には関係がない。

 小説の舞台は刻々と変わる。状況描写は増えるが、しかし、琴音の内面の声は依然として聞こえてこない。まるでテレビドラマを見てるように、台詞と登場人物たちの行動が並べられるだけだ。この書き方は最後まで、ほぼ通される。琴音の独白を読者は聞けない。琴音が何を考えているのか分からない。
まだ、喋ってくれればいい。聞こえないところで、琴音はよし子こことを「クソババア」と呟く。ああ、琴音はよし子のことを「クソババア」だと思ってるんだな、とわかる。
 たが、次のような場合はどうだろう。、
 コンサート後、琴音とよし子は、ロビーで木戸というボケ老人に合う。木戸はよし子のファンだ。よし子は適当にあしらって木戸と別れる。その後、よし子と息子に置いてきぼりを食らった琴音はひとり送迎バスに乗り込む。すると、いつの間にか、木戸がバスを睨みつけて立っている。施設の職員に木戸は連れ戻されるのだが、その時、職員がバスを指しながら言う。

「うんそう、帰るんだけどね。これでは帰らない。これは違うところ行っちゃうからね」

なかなか印象的な場面である。意味深である。凡庸な私なら、続けてこう書くかもしれない。

ーーそうか。このバスは私を"違うところ"へ連れて行こうとしているのか。私にとって"違うところ"・・それはどこだろう。私はどこへ行こうとしているんだろう。

こうした独白を重ねることで、何か書いた気になる。小説に奥行きが出た、と勘違いする。だが、実際何も書けてはいない。雰囲気だけだ。

 三木三奈は琴音の思いを書かない。ひとり残されて悔しいの一言も出そうだが、喋らせない。独白させない。琴音は、ただ落葉した木立を見るだけだ。

近代小説は内面を獲得した。
登場人物たちの心の葛藤が、彷徨が、近代小説の読みどころであり、書きどころであった。だから、小説の主人公はラウンドキャラクター(起伏的人間)となる。悩むことが、文学の主人公には必須のことだった。

なのに、三木三奈は内面を書かない。具体的なことばかりを書く。では、読者は具体的なことばかり追えばいいのか。それは違うと思う。
琴音は私だ。読者は琴音になって、独白を始めるだろう。作者が描かない分、読者は琴音にならざるを得ない。
「アイスネルワイゼン」は、近代小説である。純文学の括りである。近代小説、純文学が主人公の内面の葛藤を描くものなら、読者はそれが書かれていようが書かれてなかろうが、それを読まなければならない。

どうやら読者は、書いてあることだけを読んでいてはいけないようである。

          つづく

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