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桃 三木三奈3

思春期と言う言葉がある。反抗期と言う言葉もある。少年たち少女たちは、その時、何に気づくのだろう。そのひとつは、大人の偽物性だと思う。子供時代、大人の存在は絶対だ。大人はなんでも知っていて、大人を信頼して、大人の言う通り生きる。大人、それは親であり、先生である。その絶対的な大人のメッキがはげて、大人がただの人間としてみえてくる。十代の半ば辺りで。
大人は、しかし、まだ子供の絶対者でいたい。バレているのに、そのフリをしたい。偉そうにしたい。理解者であり続けたい。
でも、思春期の子供たちは知ってしまった。大人の偽物性に。いっそ、自分には何もできない。ただの無能な、無知な人間だ、そう言ってしまえる大人、親であるならば。
いや、それも無理なのだ。親は、わかっていても全能者のフリを続けなければいけない。本当のことを言ってしまったら、親子関係は崩壊してしまうから。
だから、亜子の母は自分の母、おばあちゃんの家に行こうとする。母から娘になりたいと思う。そこで泣きたいと思う。子供のように、責任を親にあずけ、守ってもらいたいと思う。自分が原因ではない。スドーとかいう、いや、スドーみたいな同級生が、娘をいじめていたのだ。それに気づかなかった自分は悪い。だが、それよりもずっと悪いのは、そのスドーに似た同級生なのだ。それをわかって欲しい。そのために、おばあちゃんのところへ、自分の母親のところへ行きたい。
亜子は、それがわかっている。それが我慢できない。
では、この思春期の精神のアンバランスを支えてくれるものは何か。
ひとつには異性の存在だろう。凡百の恋愛ものは、女性の精神的な不安を男性が支えることによって成り立つ。(勿論、その逆も)。男女が引かれ合う、大本はそこにある。動物的な欲望のみで、人間の恋愛は測れない。
が、この物語には、亜子の周辺には若い男性がいない。恋人になる存在どころか、兄弟さえも、父親さえも、亜子の周りにはいない。父親がわりになる唯一の可能性を持った担任の高橋先生は、最早、亜子だけでなく、クラス全ての女子から存在否定されている。
では、亜子は何を支えにすればいいのか。どぶ川のような汚れた人生の流れのなかで、何を支えにすればいいのか。

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