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円城塔「天使とゼス王」

SFは苦手なのでよく知らないけれど、それでも伊藤計劃さんと円城塔さんの御高名は伺っていた。

その後、円城塔さんは純文学方面にも進出され、文学界新人賞の「オブ・ザ・ベースボール」は話題になった。空から人が降ってきて、それをバットで打ち返す。漏れ聞いた筋に、到底私には読めないと敬遠した。芥川賞では全否定だった。

次に「これはペンです」が芥川賞の候補になった。この次で受賞するのだが、今回と次回、選考委員の意見が真っ二つに割れた。大体の図式は、慎太郎さん輝さんのぶ子さんが反対に周り、夏樹さん雅彦さん弘美さんが好意的だった。わかる気がする。
私はこれも題名だけで恐れ入って読まなかった。
フーコーに「これはパイプではない」がある。マグリッドの同名の絵画を評したものだが、この本と関係しているのかどうか知らない。

長々書いた。だから円城塔は読んだことがない、ちゃんと読める自信がない、と言いたいのだ。しかし、マイ企画の為である。

いざ!

読んで来ました。すいませんでした。わかりません。どっちかというと、感性が慎太郎さんでした、わたし。
仕方ないんで、筋追いしながら、なんとか読解は試みてみますが。ああ、長くなりそう。トンチンカン書きそう。

以下、ネタバレ、アリアリ。

アンジェロの意識は、パンプローナの戦場からフランシスコ・ザビエルによって、インドのゴアに呼び戻される。恐らく霊操により、その時代に意識が飛んでいたと思われる。しかし、なんだ?パンプローナの戦いって。

アンジェロは日本名をアンジローもしくはヤジローと言う。薩摩で人を殺し、マラッカでザビエルと出会い、日本での布教の手伝いをすることとなる。書いてないが、アンジェロとはイタリア語で天使のことである。

ゴアの通りででアンジェロは安寿とすれ違う。山椒大夫の安寿と厨子王の安寿である。

ここから説経節「山椒大夫」の成立の話が続いていく。
どうやらこの話は元々二つだった話が合体したものであると。一つ目は、安寿が厨子王を逃がし死ぬまで。二つ目は、厨子王が貴種であることが判明し、身分が与えられ母と再会するまで。

説経節では安寿は死ぬのだが、なぜかゴアにいる。どうして来たのか安寿は覚えてない。今は、山椒大夫という無慈悲なポルトガル人のもとで奴隷のように扱われている。(なんじゃそれ!)

安寿はアンジェロに言う。
「自分の親はどこぞの王である」と。二人は日本人なので言葉が通じるのである。

アンジェロはザビエルについて日本に行かねばならない。ゼス・キリシトの思し召しのままに。安寿は自分がゴアにいるのも思し召しかもしれない、と思う。
(ゼス・キリシト? イエスじゃなくて?ゼス、ゼス・・・
ゼス王、厨子王、て繋がんのか。ダジャレか!
ゼスってなんだ? ゼスはゼウス(神)か。神・キリシト、ゼス・キリシトか。)

疲れてきた。あと少し、頑張れ!自分。

ゼス・キリシトは全てを救えるとアンジェロは言う。安寿も救える。ただし、死後。人は罪を背負っているので、現世では試練を受け、死後に救われると言う。

しかし、
「ゼス王は自分を救わない」
と安寿は言う。ゼス王はキリシトであり厨子王である。なぜ、安寿はそんなことを言うのか。
確かに、安寿だけが苦難を受けている。救われない。安寿はただ苦難を受けるためにだけ存在するかのように。
キリスト教では、人は生きている間は試練を受けねばならない。平安の昔から安寿は苦難を強いられる。そのための存在なので、救われることはないのである。救われ、王となるのはゼス王である。厨子王でありキリシトなのだ。

アンジェロは安寿に言う。(やっと気づいた。アンジェロは安寿なのか。厨子王はゼス王キリストで、安寿はアンジェロ天使なのか。だから題名が「天使とゼス王」なのか。)
アンジェロは安寿に言う。
「お前はブッタデウスのようなものかもしれない」と。
安寿はそれをブッタ・デウスと聞く。自分は仏教異端の神なのか。

当初、キリスト教は神を大日として布教していた。アンジェロの発案である。しかし、ザビエルは、やがてそれをやめさせる。カトリックは厳密なのであるから異端は許されない。仏教的思考をキリスト教に持ち込むのはもってのほかなのだ。

だが、ブッタデウスはブッタとデウスではない。ゼス・キリシトを罵った罰に、永劫にこの世を彷徨う者の名がブッタデウスなのだ。

キリスト教の救済は死後に行われる。だから死なないものは永久に救われない。死んでいるはずの安寿が、ゴアで生きているのは、その故である。悪は不死であり、不死であるから悪である。

そして、絶対的な悪を安寿が引き受け続けるなら、絶対的な善は厨子王であり続ける。彼は王になれる。
絶対的な悪をアンジェロ(天使)が引き受けたなら、絶対的な善はキリスト(ゼス王)であり続けることになる。

だが、そもそも絶対的な悪を天使は引き受けたのか。天使は神に仕えるんじゃなかったのか。そんな天使が悪なんて、そんなわけあ・・・るんだなこれが。
だって、私たちは知っているでしょ、神に対して謀反を起こした堕天使を。
サタン・悪魔と呼ばれている堕天使たちを。

神が善であり続けていられるのは、堕天使が悪であり続けているからだ。 
天使の存在なくして神はない。あくま(悪魔)でも、天使は神に仕える存在なのだ。

小説は、ここまで来て、その後のアンジェロがどうなったかわからないと書く。安寿の行方もしれないと書く。
唐突に、いきなり終わる。そう、この小説は実在のアンジェロ、アンジロー、ヤジローに関心はない。はなから人物を描くつもりはない。それは安寿に関しても。
この小説は、アナグラム的な類似の名前から、「安寿と厨子王」の物語を「アンジェロ(天使)とゼス王(キリスト)」の物語とリンクさせ、或いはずらしていくことで、キリスト教の本義に迫ろうとした、高級知的な言葉遊びの産物であるのだ。
およそ、私が普段読むような類のものではない。
一応、読み取ろうとして努力してみたが、あってるかまるきり自信はない。作者の本意は全く別にあるのかもしれない。
こうした知的ゲームめいた小説に堪らない魅力を感じる人たちがいることはいるだろうが、それは私ではない。











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