【読書ログ】「親切」とは?ー「勇気論」(内田樹)ー
いま日本人に欠けている「勇気」とはなにか?という抽象的な議論を、様々な具体例を通じて描き出そうとする本書を読み進める道程で思ったこと・考えたことを書く読書ログ。
「勇気」をそれ自体熟考するのではなく、一見無関係にすら思えるような多様な観点を繋ぎ込むことで自由かつ鮮明な勇気の在り方が見えてくる、そんな良書です。
親切とは:本章での定義
著者によれば、「親切というのは、他者の発信する救難信号を聴き取ること」。
誰かが発するSOSに反応することを、「親切」としている。
孟子は、「人に忍びざるの心あり」つまり、人は困っている人を見たときに助けずには居られない心を持っていると説いている。裏を返せば、この心を持ち合わせない人は、人としての本質が欠けていると彼は指摘しているのだ。
孟子と「反応」
孟子は具体的な場面設定として、「いま目の間で井戸に落っこちそうになっている子どもを見て、あなたは有無も言わさず助けようとするだろう」という状況を提示する。
あなたは、眼前で子どもが大ピンチに陥っているとき、迷うこと無く助けるのではないだろうか。漢詩に準ずれば「将に」=待ったなし の状況で、あなたは脳内で思案を巡らせること無く、半ば反射的に行動するだろう。
その瞬間に、「助けるのは正しいことだろうか」「助けられるだろうか」「私が適任だろうか」などと考える余裕も無ければ、その発想すら浮かばない。
これが冒頭の親切の定義に出てきた「反応」の正体である。
「反応」に至るための条件
筆者は、しかし、ここでの反応に至るまでには場面設定において、導線となるトリックが設置されていると指定している。
その1つ目は既述した「将に」の状況設定である。考える余裕すら許さない状況においてこそ、脳より脊髄で「反応」することを強いるのである。
「子ども」という認識と「反応」
加えて第2の仕掛けとして、筆者は、助ける対象が「孺子」つまり子どもであることを指摘している。
ここでの孺子とは、何歳までを指すのか。身長何センチまでを指すのか。
その客観的な基準は明示されていない。
実際には、示されていないというよりも、示す必要がないというのが正確だろう。
なぜなら、助ける対象を「子ども」と認識するのは、助ける行為者の主観的な判断によるからである。
落ちかけている子どもが「子どもだと」思う。だから身体が動く。
このとき、行為者は「子供だから助ける」という訳ではない。
既述の通り「この人は子どもだろうか?」「子どもだったら助けるし、そうでないなら助けまい」といった思考が、切迫したこの状況においては一切機能しない。
むしろ、助けようと身体が動いた結果、その対象を「子ども」というふうに追随的に認識している。
なぜか。
それは、助けられる相手が「子ども」であれば、自分が助けられるからだ。
自分が咄嗟に助けられる、つまり自分が相手を助けられる自信・確信があるからこそ、身体が反応するのである。
反対に、自分の手に余るような、助けられる自信が湧かない対象を相手にすると、人は恐らく、行動に躊躇するのではないだろうか。
躊躇する時点で、SOSサインと行為の間に思考が介在している。反応を抑制し、脳で判断を下そうとしている。
どうやら直観的に反応するということは、SOSを発している人を自分で助けられそうと理解するか否かが鍵を握るようだ。
反応できるかどうか = 親切できるかどうか
本章の定義に照らした「親切」とは、このような「反応」に基づく半ば衝動的な行為である。
これは、同じく8章で併記されている、「正直」と関連する。
つまり、思考を排除し、孤立を恐れず自分の心に正直であることと、直観的に「反応」することは、表裏一体の関係性にあるのだ。
表題の「勇気」とは、孤立を恐れず、自信の直観や信念に対して正直に「反応」する力なのかもしれない。
「反応」できる「親切な人」になるには
では「親切な人」とは、どのような人間といえるか。
それは自ずと「反応できる人」と定義できるだろう。
本章最終盤で、筆者は親切における実践的な課題として「考えないうちに動く身体」をどのように作るか、を挙げている。
より広い対象を「子ども」つまり自分が助けられると自信を持てると認識できる人が、「親切な人」となりうる。
そうなるためには、自分が強くなければならない。
武道や筋トレ、自己投資などを通じた強靭な身体とメンタルの獲得とは、究極的には「反応できる人」を目指したプロセスなのだ。
自分を成長させることの目的に、単に自己成長・自己実現に留まらず、強くなることで他者のためにもなるという観点をロジカルに提供してくれた本章は、強くなる理由を教えてくれる。
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