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【読書ログ】 素直さ ≠ 流される : 内田樹「勇気論」を考察して ー

*本稿は読書途中の個人による主観を大いに反映した内容を含んでいます。

勇気とはなんだろう?

本書は、筆者がいまの日本人に一番足りないものは勇気ではないか、という命題をもとに、勇気とは何かについて往復書簡を通じて思考していきます。

退く勇気「大勇」とは

2章目に当たる「2通目の返信」にて、筆者は中国思想家 孔子の言葉「大勇」にスポットを当て、この概念について議論を深めている。

内田によると、彼(孔子)はこれを「撤退する勇気」の換言として弟子に向けて用いたようだ。

通常、人は勇気と言えば戦に向かっていくような、勝利のための勇気を想像する。本の中ではこれを「実践的勇気」という言葉で表現されている。

対して上述の「撤退する勇気」とは、自らに理がない、筋が通っていない場合においては、たとえ勝ち戦であっても、自ら身を引く勇気のことを指している。

現実においては、例えば人間関係で、喧嘩したときに自分に道理が通っていないと感じたときには、自ら過ちを認め謝る。或いはビジネスで、お金にはなるけれど意義が認められない。その際に要されるのが「大勇」なのだろう。

哲学に従う勇気

次節では、「自分の哲学」を持つ人・持たない人についての議論が展開されていく。

自身の身を置く場所が危うくなったときに、仲間を見捨てて一目散に逃げ出す人は、自身の中に信念が無く、その後の保身しか頭にない。一方で、そのような状況においてこそ、周囲の人間に手を差し伸べ状況を打開しようとする人もいる。

哲学がある人・ない人というのは、このように判断の軸を自分の内側に持つ人、他者に委ねる人の違いに現れるのだと、筆者は述べている。
信じるに値する人とは、他人の目を気にし判断する人ではなく、自身の信念に従って判断する人であり、他者からなんと言われようと孤立するリスクを取る勇気を持つ人なのである。

しかし、だ。

自分の軸があり、自身が信じたものには真っ直ぐに向き合い、簡単に曲がらない勇気というのは、一見すると最初に述べた「大勇」すなわち「撤退する勇気」とは、相反する類のように感じられはしないだろうか。

私も「大勇」の章を読んで感動した直後に「哲学を持つ勇気」のパンチを浴びたものだから、どこかモヤッとしたのである。

問:哲学を持つこと = 自らに固執すること?

本稿の問いはこの点である。すなわち、

  • 信じたものに従いまっすぐに生きること

  • 退く時はさっさと退くこと

これらは矛盾するものなのだろうか?

一足先に私の主張を述べると、信念を曲げない勇気と自ら退く勇気を架橋するのは、「素直さ」ではないか。そしてこの素直さとは、自分への素直さと、他者への素直さの両面を持つものなのだ。

信じたものを信じて疑わないというのは、悪意を持って換言するならば「自分に固執する」ということであろう。
絶対に自分が正しく相手は悪である。誰がなんと言おうと私は私の価値観に従う。このような「哲学」のもとに行動した結末は、著述するまでもない。

一方で本章において、自分の哲学が崩れたり代替される可能性については触れられていない。

現実には、他者の進言や行動に影響を受けて、自身の選好や正しいと信じるもの、価値観といった自身の哲学が変化することもあるだろう。

前までは大声で主張しすぎないことが美徳と考えていたけれど、留学に行って積極的に主張するべきと考えるようになった。好きなことをして今の自分を満たすことが大切と思っていたけど、テレビで見た健康番組を通じて、先のことも考えてやりたいことを我慢する方が良いと考えるようになった。などなど。

信じていたものに従って行動するものの、それよりもより正しいと考えられるものが現れたとき、なおも自身の信念に固執するのか。それとも新しく出現したアイディアを、新たな自身の信念として取り入れるのか。

素直さ:自分に対しても。他者に対しても。

ここで必要とされる勇気こそが、自らの誤りを認める「大勇」であると同時に、新しいアイディアを受け入れる「素直さ」ではなかろうか。

自らの内にある信念を行動原理としながらも、相反するアイディアが出てきたときにはこれを認め、内面化し、新たな信念をもとに再び行動を決定していく。

このように、行動の軸を自分の内側に持ちながら、その軸を別の考え方に晒しながら精緻にしていく勇気を持つこと。より一般的は「主体的に行動する」一方で、他者にも耳を傾けること。素直さとは、第一に、自分の信念に対して率直であるということであり、その信念を磨くために、他者に対しても聞く耳を持つ、ということなのだろう。

素直さ ≠ 流されること

ここまでを読んでくださっていれば、他者への素直さが、他者への迎合とは意を一にしないことを容易に理解していただけるだろう。

他者に流されて決定している状態は、自身の行動の決定権を他者に委譲している。他人軸の状態だ。自分の決断を他者におもねること、その帰結は「あのとき彼・彼女が言ったから」「こうした方が良いと聞いたから」という他責状態であろう。

行動原理までを他者に依存する必要はない。
それは素直さというよりも脳死に近い。

周囲に対して聞く耳を持ちながらも、最終的な決定は自分の中の哲学に沿って下す。人の声を聞くとは、その哲学を育み進化させるため手段なのだ。

素直であるという「勇気」

このように、自分自身に対しても他者の意見に対しても素直であり続けるということ自体、1つの勇気を要することであろう。

自分の信念を貫くとは、周囲になんと言われようと、自らの考えを優先しそれに従うことを指す。

しかしその姿勢は、自分よりも他人のほうが正しいのではないか、孤立するのではないかという恐れと戦い続けることを強いる。
とりわけ内省的な人、物事を絶対視しない人ほど、この恐怖と隣居することになるだろう。

それでもなお、主体的な姿勢を貫く勇気。これを持ち続けることこそ、1つの哲学なのだろう。

この手の結論は、いつもどこかで聞いたことのあるものに落ち着く。


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