国語科の学習活動における評価のあり方

国語探究研究会の輪読で、指導と評価の一体化について議論を交わす機会をいただきました。様々な知見に触れ、考えが深まりました。

資料輪読をし、実践報告を伺い、参加者各位のお話しを拝聴する中で、「評価しない」教育への憧憬感が高まりました。
教師や指導要領が想定する目的はあくまで参考。学習者の学びはもっと自由でいいのではないか。そういった学習指導要領の設計者の方にその理念を伺う機会を得たことで、現場では多様な受け取りや成績評価・評定を出すための制度に合わせる目的で、せっかくの理念が変わってしまうところもあるのだと感じました。
私は生徒の作品を評価をすることが苦手です。自分が評価されたくないからかもしれません。「いい評価」をもらうとこうすれば気に入ってもらえるんだバイアスが働いたり、いい評価ほしくて頑張ってるんでしょ?といった見られ方をしているような気になったりします。それは必ずしも働きやすさにつながることとは言えません。反対に自分としては一生懸命頑張っているのに、評価されなかったとき、腐ってしまう気持ちになります。もちろん、評価者が全員を見切ることなどできないとはわかっているのですが、評価された人がいると、あの人は見てもらえたのに、自分は見てもらえていない。評価者の気に入るような仕事ができていなかったことを反省して、評価者に阿るように仕事をしようと思うかもしれません。本当は生徒のためになるようにせねばならないのに。ましてや予測不能な未来に向けてこれから行う授業については、旧来の物差しで良しあしを測れるものではなくなるでしょう。学習指導要領はすでに古くなっているとも言えます。激変する社会。やはり参考程度に考えるべきなのかもしれません。(私が学部の頃には、学習指導要領に従いなさい。指導案の目的のところには、そこから引用した内容を書くとよい。と教わりました。)

ところで、ここでいう「評価」とは「価値があることを評論する」ものと語感から感じております。
なので、数値化できるもの、言語化できるものはやることに意義がある場合があると思います。漢字をいくつ覚えていて正確に書けるか。三桁の足しさんの制度と速さ。公式をどれだけ覚えていて場面に応じて使えるか。など。数値化できる内容はあるかと思います。
それが「価値」を持ち、何かを測る基準として適していると感じられる分野においては機能するかなと。
たとえば、履修主義の学習環境を見直し、修得を重視する個別最適化環境が実現したとします。そしたら、AIドリル、AIテストによって、身に着けるべき基礎知識・基礎技能の習得について、学習・判定するときに、点数によって測ることが必要であり、可能だと思います。一定の点数をとったり、その知識に触れたことが確認出来たら、次の内容に進むといった形です。

思考判断、主体性、楽しむこと、学習者理解、確認、励ましなどは「価値を評論する」しない方がいい。研究会の中で、先生がおっしゃっていた、評価することで、高い評価を受けるべく、その枠の中で生きるべく忖度していく子どもが育つというご指摘に強く共感しました。受験然り。大学の過去問をみて、それを解きながら、その大学の入試の枠の中に自分を合わせていきます。受験で合格するために、自分の意見ではなく、相手が聞きたいことを話すように指導します。一見大切なことのようですが、こと受験になると、その度合いは洗脳の域に達します。

ただし、全ての評価がよくないわけではなく、「教えたことをそのまま表現できているか」どうかなら測れるように思います。それをして意味があるところと、ないところがあるなぁと。

学習活動はすべて評価しなければならない。そうすることが学び手への責任の果たし方。そんな風な考えがあると聞いたことがあります。その考えで行くと、個別最適化は難しいですね。きっと人間の限界を超えます。

とくに国語科は過去の叡智を再現するのではなく、新たな価値を創造することに重きを置いて良い学問分野なのかなと思ってきています。
「日本語」ではなく、「国語」。世界には中々ない学習内容の教科のようです。世界各国の友人に対して、「こんな学びをしています」と、紹介するとよく驚かれます。
国語の学びは日本が誇る世界に通じる学びになり得ると思います。そのためには「温故」だけにとどまってはいけないなと。「知新」に向かうために、評価できないことを素直に認め、ある意味割り切って、誰かが設定した正解を探るのをやめて、わかる、できる楽しさから、学びの過程を楽しむ環境を教室で作ることが大切なのかなと思いました。

いっそ、「評価」を飾るきれいごとを全部取り除き、「人が足りなく、技術も追いつかないので個別最適はできない。そこで、大学受験や就職試験の際に、優秀?な人材確保のために人に序列をつけなくてはならないから、ある一定の時期に一斉に講義をして、学習者がその期間において他の人と比べてどれくらい教えたことを覚えて表現できるようになっているか、差をつけて測ってください」と言ってくれた方が、わかりやすいように感じます。

でも、こういわれたとき、みんなやろうと思えるのでしょうか。現実はこの要素をはらんでいるわけですが…。
評価が難しい学習活動を行うときに、帳尻合わせのように、評価の理由を探すのも悲しくて苦しいなと思うときがあります。

繰り返しますが、私は評価されたくないなと思います。
ただ、相互に感謝と尊敬と尊重があれば、いいのかなと思います。
子どもだから、生徒だからではなく、対等な人としてみたとき、学校のいろんなことに違和感を感じる今日この頃でした。

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