捌く夜
今日は、早くに退勤出来たので、ちょいとお酒を呑んでゆっくり。という訳には行かなかった。
鮮度で人気のスーパーへぐるっと寄ってみる。
捌く魚を買う為に。
いよいよこの日がやって来た。
ひとり暮らしを始めてから、冷蔵庫がなかったり、庖丁が研げていなかったり、まとめて1週間分を作ってしまったり。そんな感じで「ああ、また今度だな」と日を見送り続けていた。そわそわしていた。
別に休日の夜は時間がたっぷりあったのだけど。
でも、「うん、今日だな」と腑に落ちた日に捌こうと決めていた。
生き物の身を切り別ける。
その臨場感というか、生命と対峙する時間を受け入れるには、それをお出迎えする僕なりの心構えというか誠意が必要で、そうでないと捌く魚に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
庖丁を握る前に、両手に手を合わす。切り込みを入れると生きていた証の独特な匂いと色が広がる。まるで今も尚、抵抗するかのように骨がゴツゴツと刃に当たる。小手先だけに力を入れると、魚の身も肉で押し返してくるというか、食い込んで酷い様相になってしまう。力まず、形に沿って通し分けてゆく。
まだまだ上手く捌けない。その度に申し訳ないと思う。もっと上手になりたいし、その先の調理の技術も自分なりに身につけたい。毎回、そんな気持ちでいっぱいになる。
今日は捌いたものの、骨抜きを持ち合わせていなかったので、冷凍し、終わった。緊張がほぐれてゆく。調理道具を片づけながら、ふと思った。「この申し訳なさから、僕は料理に興味を持ち出したのかもしれない」と。
学生の頃、小中学生の里山留学のボランティアスタッフをしていた。カリキュラムには、鹿や鶏を捌いて、頂くという時間があった。彼らを〆る前、生きようと必死に争う力に腰が抜けた日があった。上手く捌けなくて、「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙が止まらない日があった。捌いて、頂いて、何の調味料もかけないことがあの子への誠意だとも思った。(そんなこともあって、僕の味付けは薄くなりがちなのだと思う)
またその後、日本料理の繊細な技術や食文化に触れる機会が幾度かあった。「いかに食材を無駄にせず、最大限に味を引き出せるか」という精密な知恵の結晶に心底感動した。毎日暮らす中で、そんなに大層な振る舞いも、手間もかけることができないけれども、毎日頂くものに誠意を持てる術が欲しいと思った。
料理が好きか、と言われると愛着を持っているわけではない。でも、今日を、明日を生きてゆくために、生きていることに向き合える食の時間は、自分の心の内が満たしてくれる尊い時間だとは思う。
だから、これからも美味しく最後までいただく知恵と術を身につけたい。
そんなことを1人しみじみと思う夜だった。