やさしいきもちは誰でも持ってるよ

最近妙に腑に落ちたことがある。
それはね、人は優しい気持ちを誰しもが持っているんだということ。

最近までは血も涙もない人というのがこの世に存在していると思っていた。
しかしどうやらそうではない。
感情を持っていない人はいなくて、たとえそれが脆弱でも、多少は備わっているんだなと思った。

自分は人の感情に疎い、興味が無いと思っている人でも、苛立ちや悲しみの原因が誰かを思いやることから来ているということもあるんじゃなかろうか。
世間を騒がせる感染病のニュース、それによるリストラ、政府の対応への批判。

ニュース番組を見ていて思った。
どんなに無表情で淡々と事実を述べているように見えても、その研究者がこの研究をしているモチベーションは思いやりからなんじゃないかと。

私の言うことはいつだって根拠なんてない。
ただ世界がそうあってほしいという、ほんとにただの希望かもしれない。
すごくハッピーな性善説支持者なのかも。

でもね、やっぱり思いやりを人は持っていると思うの。
言葉にするのがすごく難しいけれど。

道で捨てられている猫をみたら、どんな言葉が頭の中に浮かぶ?
「かわいそう」「寒いんだろうな」「どうにかしないと」
そんな言葉がダイレクトに頭に浮かんでくる人もいれば、
「なんでこんなところに捨てたんだ」「避妊手術をしなかったことで増えた猫を捨てるなんて身勝手だ」
「どうせ捨てるなら私が見えないところに捨ててくれ」
と思う人もいると思う。

一見、かわいそうとか寒そうとか言っている人が優しいように見えるかもしれないけれど、そういう人は単に感情に敏感で、それを表現するための語彙を知っていて、表情や言葉に出やすいだけなんじゃないか。

「なんでこんなところに捨てたんだ」「どうせ捨てるなら私に見えないところで捨ててくれ」
と思うのは、可哀想な猫を見ていられないからではないのかな。
そういう猫を直視するのが辛いから、どうせなら見えないところでとか思ってしまうのではないのかな。

「避妊手術をしなかったことで増えた猫を捨てるなんて身勝手だ」
そう感じるのは、ひとつの命をぞんざいに扱った人への怒り、もっと遡れば、猫へ思いを寄せていることからくる悲しみではないのかな。

いつも怒っているように見える人っている。
だけど怒りはいつだって二次的感情だよね。
怒りの前には悲しみがある、そう思う。
そう思わずにはいられない。

怒っている人を見るともちろん怖くなる時もある。
けれど、この人は何に心を痛めて怒っているのかなと考えるようになった。
ポイ捨てを見てプンスカするのは、いじめをみて不快になるのは、誰かの気持ちを無意識に考えてしまっているからじゃないかな。

ふと自分が怒りを感じた時に問いかけてほしいの、「私はだれに怒ってるの?」って。
「私は誰が悲しむのが嫌だと思っているの?」って。

優しさとか人の感情とかどうでもいいって言う人がいる。
だけど、ほんとに1ミリも…そうは感じない…?

ひとを思いやっている時の自分は、いつもより少し好きになれないかな…?
誰かのために仕事をすることは、いつもより少し楽しくないかな…?
自分の気持ちと向き合うのはそれが得意でない人にとっては苦痛だし、弱みを握られているような感覚になる。
だけど、そこに向き合ってみると新たな自分が見えてくる。

感受性や感情というのは育てることが出来るよ。
誰もが詩人のように愛を口から語るのは難しいかもしれない、けれども愛する人を気遣う一言をかけることは、愛する人を喜ばせるに足るその人しか言えない言葉を紡ぐことはできるんだ。誰にでも。

誰にだって思いやりの心は、ある。
私はそれを絶対に疑わないし、たくさんの人がそれに気づいた時に世界は平和になると思った。


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