見出し画像

頭の栞

「ここでちゃんと読んでおかないと、頭がダメになるぞ」

これは、高校2年生の夏、国語科の先生が放った言葉である。

【読書感想文】
それは、各々が読んだ書物に関して、自身の感想を400字詰め原稿用紙に指定数枚まで書き記し、教師へ提出する、学校教育における最も定着化した宿題の一種である。

一説にはあらすじを書いとけば何とかなるといった抜け道が流行するほど、この宿題の難易度が高かったことを象徴している。


冒頭に引用した先生の一言は、かくいうこの読書感想文の宿題が出された時のことであった。

私の高校では、読書対象が1冊ではなく5冊であり、そのすべてに一定文字数の所感を書かされるという、私には到底考えもつかない拷問方法であった。

先生は推薦図書をいくつか紹介してくれたのだが、やれ夏目漱石だのドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟だの、読書家Lv100が読むような難解書ばかリ提示される。

もちろん読みやすい書物も紹介してくれたのだが、私は小学校のころから読書が苦手で、漫画すらまともに読んだことがなかった。完全に活字離れ。そもそも活字と慣れあったことなど一度もない口だった。

そんな中先生は、読書の大切さを説いたのであった。

詳細は忘れたが、論理的思考の形成、物事を客観的にとらえたり、推測する、そして読み切る忍耐力など様々な力が読書によって育まれるのだという。

そして冒頭のセリフにつながるのだ。

「頭がダメになるぞ」という言い回しは、当時の自分にしては銃口をこめかみに擦り付けられながら、「Read a book!」と脅されるくらいの恐怖であったが、これは先生なりの生徒への奮起の促し方であろう。

その年の夏、私は実家にある茶色く日に焼けた夏目漱石の本を手に取り、一枚ずつ読み進めるようになった。

話は変わるが、私の学校は2学期初めに運動会がある。この運動会は4つの色に分かれて競うのだが、それぞれの色に因んだ巨大な絵を書いて、本番時に各拠点に掲げる風習があった。

この絵のことをバックボードと呼んでいる。このバックボード、夏休みを利用して各クラスから招集されたバックボード委員なる係が、毎日学校に来ては懸命に描き上げるのである。

当然部活動もあるため、部活動の合間に抜けてきては、絵を描いていくマルチタスク仕様であった。

私は当時、帰宅部だったので時間だけは誰よりも多くあった。だからなのか、なんの気もなく、バックボード委員に立候補し、その年のバックボードを描くこととなった。

委員には絵の上手い人間が高確率でおり、その人の下書きをベースに色を塗ったりする。

皆が文武両道を体現しながら絵を描きにくる中、私は一日中絵を描いているチートキャラになった。

そんな中、絵描きの一休みと称して夏目漱石の本を読んだりしていた。正直書いていることが難しくいまいちピンと来ていない中、半ば読むのを諦めようとしていた。

そのとき、国語科の先生が横を通りかかった。バックボードは大きいため、人が何度も往来する広めの廊下で書いていた。

先生は「何を読んでる?」と気になったようで、自身が勧めた本を読んでいるのに気づくと、「最初の方は退屈だからもう少し行けば面白くなるな」と言い残し去っていった。

しょうがない、もう少し読んでやろうと思った。

結果、夏目漱石の本は読み終えることが出来た。しかし思い出して頂きたい。当学校は読書対象が5冊なのである。残り4冊を読む間もないまま夏休みは終わりを告げた。

人によっては、過去に読んだ本を書いて穴埋めしようと考えるだろう。しかし、当時の私に過去の読了実績はなかった。なかったという言うか、提出できるほどの本ではなかった。最後に読んだのは、おそらく、かいけつゾロリだと思う。

宿題は提出できなかった。真面目だったのであろう。適当に読んだ風に書いてしまうこともできただろうに、それが出来なかった。個人的感覚だがおそらく、8割がたの生徒は読んだ風で提出しているのではないかと思った。網目のくぐり方を知るのも勉強である。

大人になると、嫌でも文章を読む機会が多い。全く理解できない文章に苦悩していると、先生の言葉が頭によぎる。

頭がダメになった訳ではないが、ちゃんと本を読んでいればと過去の自分に責任転嫁したりする。

その度に、今年は本を読もうと意気込むが、いまだ読書感想文は提出できそうにない。

この記事が参加している募集